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今回は、研修でも問題になった〈カリキュラム〉についてお話ししたいと思います。
私は、対大学戦略の鍵を握っているのは〈カリキュラム〉開発だと思っています。ここに大学が本格的に手を付けるにはまだまだ時間がかかる。
大学の先生は「シラバス」を書くのを嫌います。専門学校の先生は大学の先生のようには〈論文〉を書けない。しかし「シラバス」を書くことについては大学教員以上の実力を持っていなければなりません。教務上のキーワードは、大学の先生は〈論文〉、専門学校の先生は〈シラバス〉、です。
1)大学の教育改革はカリキュラム改革になっていない
「特色GP」、「現代GP」、「教育GP」のどれを取っても(http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_305.html#more)、大学の教育改革はシラバス全体を書き換える改革になっていない。2、3の科目かイベント的な授業を外面的に追加してあたかもそれがカリキュラム全体の改革であるように見せかけているだけ。
それが証拠にほとんどの「GP」提案は教養課程(1、2年次課程)に集中しており、3、4年次専門課程の授業改革に取りかかっている大学はほとんどない。上級学年には講座制、ゼミ制が色濃く残っており、教養課程の改革が上級学年のゼミの出口にどう寄与しているのかの説明には説得力が全くない。
今年から始まった「教育GP」には、教育目標を明らかにしろという項目が追加された。この趣旨は4年間全体の〈人材〉作りに寄与するような改革に手を付けろという意味とほとんど同義だが、それならば、出口の仕上がりにかかわる3、4年次専門課程の全シラバスを書き換えるくらいの取り組みがなければならない。
しかしそこには〈専門性〉という高い敷居が科目の横連関(同一年次内での諸科目の連関)、縦連関(年次をまたがる諸科目のヒエラルキー連関)の組織化を阻むように存在している。その上、同一分野であればあるほど大学の教員たちは仲が悪い(苦笑)。〈専門性〉というのは、自己内完結性とほとんど同義だから「専門性連携」(講座連携)という取り組みはそもそもが自己矛盾なのである。
2)大学のカリキュラム教育は高校の時間割教育以下
大学が〈研究〉から〈教育〉へというベクトル旋回をほんとうにできるかどうかのリトマス試験紙は、旧来のゼミ制や講座制(言い代えれば教授の個人主義)を破壊して科目の連携を厳密に構築できるかどうか、つまり〈カリキュラム〉を形成できるかどうかだ。
その意味では大学は高校と同じ程度の科目配置しかない。時間割はあるが、カリキュラムが存在しない。国語、数学、英語のように科目が並んでいる。誰が何を教えているのかの関心が教員間にないという意味では高校も大学もほとんど変わらない。
高校は異分野の集合だから、大学のような同系の科目群を高校と比べるのはおかしい、まだ大学の方が〈カリキュラム〉に近い、と言うなかれ。
高校の授業科目というのは何らかの仕方で自分が高校時代受講した科目群。異分野であっても自分の高校時代を思い出せば、どの教員がどの程度の授業をやっているかは誰にでもある程度わかる。保護者にとってもそうだ。その上、塾や予備校など様々な仕方で科目教育力や教員能力を測る「第3者評価」が高校を取り巻いている。
その意味で大学の科目群は同系であれ、ほとんど誰にもわからない。大学内であっても全体の内容を管理している者などいない。管理しなくもいいくらいに自律した研究を担う教員(自己管理、自己評価できる教員)を大学教員というのだから、大学には〈カリキュラム〉は存在し得ない。ゼミ制や講座制は、自己管理授業の象徴。大学の反カリキュラム主義の牙城なのである。
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