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8月から続いている私の休暇だが、今日は、1995年に書いた論文が段ボールの中から出てきた。ふと読み直してみたが、これがまた良くできている(笑)。いまだに誰も超えてはいないだろう(苦笑)。本当はこの続きを書かないとダメなのだが、さて今の私に書けるかな。
『存在と時間』(1927年)というハイデガーの主著は実は中断された主著であって、途中でハイデガー自身が書けなくなった主著。挫折の主著でもある。私のハイデガー論文もそのように中断したところで終わっている(苦笑)。この先なんか誰も書けないでしょ。
謹んで、若い世代のハイデガー読者に捧げます。
●『存在と時間』と世界 − 世界と他者(1995年)
存在の他者へと移ること。存在の他者へとは、存在するのとは違ってということである。違った仕方で存在するということではなくて、存在するのとは違ってということである。存在しないということでもない。移るということはここでは死ぬということを意味しているのではない。存在と存在しないこととは互いに照らし合って1種の思弁的な弁証法を展開するが、この弁証法は存在の限定の1つなのである。言いかえると、否定性が存在を押しのけようと試みるけれども、たちまちのうちにその否定性は存在に浸されてしまうということである。(レヴィナス)
※なお、ドイツ語を英語表記に変え、フランス語は省略し、頁表記は簡略化するなどブログ版では表記を大幅に変えている。ご寛恕を乞う。
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