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 家内の症状報告(80) ― 仮退院(写真付き) 2006年08月05日

昨日は、家内の仮退院の日。退院へ向けて、自宅で生活できるかどうかの実験退院だ。

夕方から夜にかけての退院では、いつも帰り道に新宿(河田町の東京女子医大→職業安定所前の通り)を通って近道を抜ける途中で新宿ヒルトンによって食事をするのが、恒例になっている。何度こんなことをくり返していることか。

このホテルが好きなのは地下駐車場に「一台駐車場」がたくさんあるからだ。左右に車が並ばず、独立して一台だけで止められる駐車場を私は「一台駐車場」と呼んでいるが、このホテルには少なくとも10台分は「一台駐車場」がある。新宿ではワシントンホテルにも「一台駐車場」があるが、ヒルトンが一番安定している。比較的好きなホテルの一つである京王プラザ(http://www.keioplaza.co.jp/index1.html? )にも「一台駐車場」がない。

それがどうした? と言うなかれ。「一台駐車場」であれば、おばさんや子供が目いっぱい勢いをつけてドアをあけたとしても、隣に駐車している車のサイドボディをへこませることがない!

車のサイドボディラインは、一番美しいラインの一つだ。しかも、ここをへこませるといくら優秀な板金工が直しても必ずわかる。サイドラインは(車の進行によって)光の反射が多様に変化する場所だから、どこかの反射具合によって凹みが必ず現れることになる。信号待ちなんかでは特にじっくりと見られる場所だから余計につらい。

だから、私は駐車をするときには必ず機械式か、ホテル地下の「一台駐車場」に止めることにしている。ホテルに用事がないときでもホテルの地下駐車場に止めることにしている。地下は地下でも、大概「地下三階」。地下へ行くほど車が少なくなり、傷をつけられる危険性が軽減される。

ホテルニューオータニ(http://www.newotani.co.jp/tokyo/)や赤坂プリンス(http://www.princehotels.co.jp/akasaka/)などは「一台駐車場」がない! 特にニューオータニはまったくない(このホテルは無節操な増設で動線がサイテーなホテルだ)。何回回ってもどこにもない(何回駐車場を回ったことか、警備員が怪しげなまなざしで私を見張っていたこともあった)。「一台駐車場」がないなんて、最低のホテルだ。それに引き換え、全日空ホテル(http://www.anahoteltokyo.jp/)は悪くはない。いくつか、珠玉の「一台駐車場」がある。品川プリンス(http://www.princehotels.co.jp/shinagawa/)にも少なくとも2台分は「一台駐車場」がある。前にも書いたが小田急サザンテラスにも格好の「一台駐車場」がある(http://www.ashida.info/blog/2002/08/hamaenco_1_29.html)。

新宿ヒルトンでは、私の専用駐車場は、地下三階の167番。エレベータから遠いこともあって、いつでも空いている。しかも、私の名前、「宏直(ヒロナオ)」の音、1(ヒ)、6(ロ)、7(ナ)、まで合っている! うれしい! (何を言っているのだろう、私は。書いていても恥ずかしい)

食事はいつも2階の「チェッカーズ」(http://www.hilton.co.jp/property/1216_RestaurantAndBarOffersDetails.jsp?roid=11269293&hid=11113530)。バイキングだから気楽でいい。金曜日は、シーフードがふんだんだ。家内の病気が「多発」する分、食事になんかにめったに金を使わない私も、蟹が食べられる。

ただし新宿ヒルトンが三流なのは、この2階のレストランフロアーの天井がホテル居室並みに低いということだ。声も聞こえやすいし、騒がしい感じがする。レストランとしては失格だ。

ホテルのレストランを気取りたければ、最低でも居室の2倍くらいの高さはほしいところだ。ベイヒルトン(http://www.hiltontokyobay.jp/)ならこんなことはないが、新宿の土地の値段の高さが、こんな貧相な天井にしているのか。

家内を車椅子でテーブルにつかせ、私が適当に食べ物を集めてきたが、お互い久しぶりに“外食”。白身魚とサーモンのカルパッチョ、剥き海老のマリネ、それとガーリックトーストなんかを食べ始めたら、家内の様子がおかしい。急にフォークが止まって、「おなかがおかしい」と言い始めた。

車の中で吐かれたら最悪だが、ここは他人のホテルのレストラン。まあいいかと思いながらも「トイレに行きますか」と急いで車椅子を押しながらトイレに連れて行った。

一人で戻ってきて、気持ちよく食べていた。まあ、久しぶりの外食でおなかがびっくりしたんだろう、と思っていた。

そうすると家内が店のマネージャーに車椅子を押されながら、テーブルに笑って帰ってきた。「ありがとうございます」とマネージャーに感謝。ここは天井が低い分、店員のサービスは悪くない。

家内は一人笑い続けている。「理由がわかった。お父さんがむしゃくしゃ食べているものだから、私も全部食べなきゃ、と思っていたら、その気持ちでおなかが一杯になって、胃が動かなくなったのよ」。なるほど。しかしそんなこと言われても、私の知ったことではない。

レストランには夏休みの家族連れが来ていたが、隣に座ったのは、お父さんが仕事中の家族(したがってお父さんは食事にありつけていない)。母方の祖父、祖母、そして母と長男(小学5年生くらい)。このおじいちゃんは、孫とまったく話しをしない。おばあちゃんは年をとっているくせに食べ物に塩をかけすぎ。塩をかけながら孫と意味のない話をし続けている。孫は小学生のくせに携帯電話を持っている。食事中も何度も電話を見ていた。もうこの孫は終わりだ(http://www.ashida.info/blog/2001/03/post_58.html)。

それでもその隣に座っているおじいちゃんはまったくしゃべらない。食事を楽しんでいるふうもない。私も、孫ができたなら、こんなふうに静かになるのかな。おばあちゃんの方もおじいちゃんの方に目をやることがほとんどない。食事の感想を言い合うわけでもない。もうこの夫婦は終わっているのか。

最初、この祖母・祖父は母方か父方か判断が迷ったが、母親がひじをつきながら食事をしていたから、こりゃ、かなり気を抜いて食事をしているな、ということで、母方のおじいちゃん、おばあちゃんと決定。

そうこうするうちに母親は山盛りのタラバガニを持ち込んできた。しかしそれもこれも、テーブルの上では話題にならない。ただ食い意地の張っている母親、祖母・祖父に食事代を代替わりさせている母親、で終わり。外食を楽しんでいるふうがない。お父さんをないがしろにするからだ。

ところで、家内の実験退院は、まあまあの感じか。自宅内で使う簡易歩行器を病院から借りてきたが、これは使うこと自体が大変だ。歩行器に自分の身体を持っていくまでの“間”を保持しうるだけの脚力がないと使うのが難しい。

いちばん難しいのは、トイレにはいるときなど、ドアを開けるときの身体の使い方だ。歩行器を離れる瞬間がいちばん危ない。

家内が歩行器を使って歩くと京都の時代祭の出し物のように何かがやってくるぞ、という音が(平和な家庭内で)する。狭い自宅では歩行器の活躍する場所はあまりない。

結局、自宅内での歩行は家内の状況だと手すりを壁中に付けるしかない。しかしそんなことは私には死んでもできない。部屋の造形が台無しだ。家を引っ越しするか、全ての壁を剥がして、壁に内面的にくぼみを入れるしかない。

トイレも、私の家では洗面台が前面に付いているが、これだとつかんで立ち上がることが難しいらしい。やはりサイドに持つところがいるということになる。どこもかしこも手すりがいることになる。困ったことだ。

そうこうするうちに、歩行器を使わなくても杖を使ってなら自宅内で生活する程度には歩けるようになってきた。数時間の変化だ。これなら無理をしなければ、一人でも(ぎりぎり)自宅にいれそうだ。

今日も陽が少し落ちた夕方、近くのサミットまで散歩。車椅子で私が同伴しながら“外出”した。サミット蘆花公園店はレジカウンタが10レーン以上もある超大型店舗に最近生まれ変わった。「蘆花公園」(京王線)は寂れた駅の一つだったが、南口の再開発はここ数年で大きく進んだ。駅前までの道が広がったことも、この“外出”を大きくヘルプしている。帰りに蘆花庵という贔屓にしているそば屋によって(この店に寄るのもほぼ3年ぶりくらいか)食事をしたが、これくらいのことなら、昨日まで病院生活だったとしてもすぐにできることの一つだ。

家内の足は、まだ筋力が戻っていない。再発すると必ず筋力が落ちる。そのうえ、入院生活で足を使う度合いが減る。家庭内で一人でいるということはそれ自体がリハビリにもなるということか。トイレに行くのも風呂に入るのも命がけだから、それ自体がリハビリだ。

●現在の家内の体力

1)椅子にすわり続けられる時間は2時間前後(外出時間もその程度か)
2)杖を使って歩ける距離は5メートルが限界(杖なしの歩行はできない)
3)トイレまでは一気に行ける
4)お風呂までは一回休憩
5)トイレもお風呂も一人で大丈夫(洗髪も自分で出来る)
6)洗濯物も干せはしないが、片付けられる
7)炊事仕事は、手巻き寿司の長ネギと紫蘇の葉とカイワレを切るくらい
8)果物は、桃くらいは切れる

※これらの些細な行動さえ、一歩間違えば(この表現は比喩ではない)、骨折がらみの大惨事になる。危ないときはしゃがめ、とよく言うが、家内の場合はしゃがむということがいちばん出来ない動作なので(しゃがむということはかなりの筋力を伴うことなのだ)、一歩でも誤るとひっくり返ることになり、後は陸上自衛隊員のように匍匐前進するしかなくなる。

筋力はある程度まで生活+リハビリで再生するが、問題なのは、大して再生もしないままに「再発」することだ。再発の期間をどこまで先に延ばせるかということだけが、この“治療”の課題だ。


※簡易歩行器
簡易歩行器20060805213950.jpg

これが病院から借りてきた簡易歩行器。折りたためるし、軽いのでクルマにも簡単にのせることができる。4つの足の後ろ足のところを見て欲しい。補助的な15センチくらいの足が付いている。この足にはなんと強めのスプリングが付いていて、強い力が加わると縮むようになっている。足の悪い人が一気に捕まったときなどに、全体が傾いてこけないような工夫かと思われる。大したものだ。
クルマの場合でも、走行時に急ハンドルを切り返すと、普通のクルマだと蛇行をくり返すことになるが、ベンツやBMWなどアウトバーンで鍛えられているドイツ車は、危機回避の急ハンドルの切り返しを一気に収束させるサスペンションセッティングのノウハウがある。この簡易歩行器もドイツのスポーツカー並の知恵に恵まれている。

(Version 4.0)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

校長、バリアフリーって何ですか?
福祉住環境って何ですか?

投稿者 某学生 : 2006年08月06日 22:19

「某学生」へ

あなたがどういう意味で「バリアフリー」「福祉住環境」という言葉の意味を聞いているのかどうか、わかりませんが、私はこの二つの言葉が嫌いでしようがありません。どちらも「身障者」にも快適な住環境を、というお節介で差別的なサービス精神から生まれたものです。

最近はまともな建築家であればこんな言葉は使いません。この二つの言葉の後に出てきたのが「ユニバーサルデザイン」というものです。

この言葉の意味ははっきりしています。〈身障者〉というのは、私の家内のように病気になったとか、高齢化が進んだからこそ登場するものではありません。酔っぱらえば、みんな身障者だし、濡れた床でも、暗闇でもみんな〈身障者〉です。だから何も身障者向きを意識しなくても、生活をデザインするというのは、人間のすべての生活を含み込んだものでなくてはなりません。健康な者、老齢な者、病気をした者などとわざわざ区別してデザインする必要はないのです。一人の人間(=同一の年齢)で、それらの人間の様態はすべていつでも発現するものなのです。デザインは一つ(UNI)。それがユニ(UNI)バーサルデザインの意味です。

だから、老齢者の家や身障者の家と言えば、すぐに手すり付きの廊下や手すり付きのトイレ、バスを作りたがるのは、すべてデザイン力、想像力の貧困から生まれ出たものです。「バリアフリー」「福祉住環境」なんて若いあなた方が使う言葉ではありません。

詳しくは、以下の私のブログを読んでください。

http://www.ashida.info/blog/2004/12/hamaenco_4_120.html

投稿者 ashida : 2006年08月06日 23:19
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