和田義彦の盗作騒動について ― 和田は悪くはない 2006年06月02日
和田義彦(http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060529k0000e040068000c.html)の盗作疑惑が話題になっているが、世間の人は何でこんな“偉い”人が誰にでもわかる盗作をしてしまうんだろう、と思っている。そんな報道ばかりだ。
しかし、私はそうは思わない。創作家というのは、いつでも新しいものを作り続けている。作品は完成した途端に創作家にとって古いものとなり、耐えきれない自己嫌悪に陥るくらいに過去のものとなる。
あるいはそれとは正反対に、書き上げた途端に、もう二度とこれを超える作品は作れない、と思うほどに終わってしまう。
創作家にとって、作品を作り上げるということは、一つの自殺行為なのだ。人がどう評論しようといつでもが現場の作家にとっては処女作なのである。
もはやこれ以上は作れない、という断念と創作家(毎回が処女作家である創作家)にとってはもとから無縁な名声との矛盾が和田の盗作を招いている。
彼は毎回が処女作家であろうとしたからこそ、盗作に及んだのである。自分の作品をノウハウ(=技術)と惰性で作り続けているくだらない“芸術家”が盗作などするわけがない。
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芸術家が創作家たらんとして盗作をする。
それならば、下らないと言われる芸術家の方がまし。もし、思いは創作家たらんとしたとしても、盗作をしてそれを自分の作品として堂々と発表する、その行為、また、その行為を行うにいたった思いはを良しとすることは出来ないよ。
私も、盗作を良しと言っているのではありません。けれども本来の創作家というのは、何度も書けない(描けない)という断念の中で(結果として)書き続けているだけだと言いたいのです。
創作家の最大の不幸は、有名になることです。期待を担うということです。それはノウハウ(=方法)で書くこと=描くことを強制されます。
〈方法〉なんてものは、評論家に任せればよいもので、作家の創作の現場では、方法なんてとても自覚できるものではありません。そんなものを意識し始めたらもうその作家はほとんど死んでいます。
創作というものは、そもそもが無方法でなければなりません。純粋に精神的なものでなければなりません。それが〈新しい〉作品を生み出すのですから。
したがってノウハウへの誘惑は、盗作への誘惑と同じものです。盗作への誘惑は相対的に社会的に目立つだけのことで、創作論的には、盗作に等しい自殺的な作品はいくらでも存在しています。
〈盗作〉は社会的に目立つ分、まだ健全なものだとも言えるくらいです。ああ、この作家はもう終わっているのだとみんなに公共的に(=通俗的に)わからせる分、健全なものだと言えます。
したがって、盗作は〈(社会的な)倫理〉の問題やましてや法律的な問題ではないのです。すでに十二分に和田は死んでいるのです。
いつでも新しいものを作り続ける創作家が、その名声を維持しようとして、方法(ノウハウ)に走る。
それは名声が悪いわけではないでしょう。その名声を維持しようという「創作家」の思い違いが悪いのではないでしょうか。
創作家が創作家でずっと有り続けられるか、それは、その人の思い、能力によるでしょう。
芸術家が、ノウハウで描くことが、下らないかどうかは置くとして、創作家であろうとしたとしても、盗作をして、それをは発表すること自体、二重に創作家であろうとすることに反していると思う。
一つは、その作家が新しいものを作るということに対する安易さにおいて、一つは、盗作をするという行為によって創作という行為自体を安易に考えているということにおいて。
また、盗作は、きわめて社会的な倫理の問題、そして法律的な問題でもあるでしょう。芸術家、そして、創作家たらんとする人が、他人の作品の真似をし、描くこと、また、他人の作品からインスピレーションを得たことを明示した上、発表することは、その創作活動として認められることです。
新しいものを作ろうとして、自分の持っていない発想、視点、ノウハウを学ぶ。そうすることによって、新たなものを作ろうとする。連綿と続いてきた創作的な行為です。
社会が芸術を振興する意味に於いて、まさしく、盗作は、社会的な倫理の問題となり、法律的な問題になるでしょう。
貴方の言うように本来の創作家としての和田氏は十二分に死んでいるのでしょう。けれども社会的な芸術家としての和田氏はこれまで死んでいるどころか、認められていたのです。盗作の噂がありながら、社会的に認められていたのです。
そういう意味では、悪いのは和田氏だけでなく、美術業界でもあるでしょう。和田氏は十二分に死んでいたにも関わらず、あたかも創作家であるように社会的に偽装をした。そういう意味で、和田氏はやはり悪いと言えるでしょう。
どうも議論がかみ合っていない。
〈創作家〉にとって、社会や法律はどうでもいい。それは大概の社会人や生活者が〈社会〉や〈法律〉を意識しないでも生きているのとほぼ同じことだと言っても良い。それはあなたの言う〈倫理〉が法律以前であるのと同じことです。
「社会が芸術を振興する意味に於いて、まさしく、盗作は、社会的な倫理の問題となり、法律的な問題になるでしょう」。
そんなことあるはずがない。「社会」が「芸術を振興する」なんてありえない(同じように芸術を滅ぼすのも社会なのだから)。「社会的な倫理」、そんなものあるわけがない(社会から自立するときにこそ倫理は美になるのだから)。芸術も倫理も、それが存在するとすればいつも反社会的でしかない。家族がいつも反社会的なのと同じように、芸術も倫理も反社会的です。
社会が彼の作品を受け入れるか受け入れないかは、作品の〈自立性〉からすれば、どうでもいい。〈作品〉はいつでもそれとして否定されるべきだし、それとして肯定されるべきです。
〈社会〉や〈法律〉以前に、そしてまた〈有名=名声〉以前にそれとして否定されるべきだし、それとして肯定されるべきです。だから盗作の〈悪〉以前にもっと大きな悪、あるいは堕落を認めるべきなのです。
それは作品の自立性を前にすることによってしか出会えない〈堕落〉です。和田はどこかでそういったものに出会ったのです。それは貴重な出会いだった、貴重な堕落だったと、私は思います。
そうですね、最初のあなたがいう「和田氏は悪くはない」というところから議論の前提がかみ合っていないのでしょう。
「盗作の悪以前にもっと大きな悪、あるいは堕落を認めるべきなのです。」
それは、そうでしょう。
けれども、また、盗作は、きわめて(社会的な)倫理、また、法律的な問題です。社会的な制裁を受けることもそうだし、法律的に訴えられていないけれども、訴えられれば、法律的な問題になる。
それをそうでないとあなたがいうのは、盗作の行為に及び意思の段階においてはそうではないということだけでしょう。
また、あなたは、芸術も(社会的な)倫理も家族も、反社会的だという。社会という定義が哲学をしている人と一般のそれと厳密な意味において違うのだろうか。
「〈創作家〉にとって、社会や法律はどうでもいい。それは大概の社会人や生活者が〈社会〉や〈法律〉を意識しないでも生きているのとほぼ同じことだと言っても良い。」
普段意識していないで生きていることと、その枠組みがあることとは同じではない。あなたのいう「創作家」にとっては社会や法律はどうでもいいのかもしれないが、和田氏は、社会を相手にしたからこそ、盗作したのであり、そのために「堕落」したのでしょう。
「和田氏は、社会を相手にしたからこそ、盗作したのであり、そのために「堕落」したのでしょう」。
あなたが最後に書いた文章こそが、私が言いたいことの全てです。〈社会〉なんて相手にして創作をするようではダメです。彼が“盗作”したことと彼が社会的であったこととはまったく同じことの裏表だということ。だから芸術家だって社会の一員なのだから、法律は守るべきだ、というのはほとんど意味のない言明なのです。
彼は描くことの孤独から逃げたくなった。その逃げ先が社会だった。そして盗作だった。盗作は社会的な逃亡なのです。「和田氏は、社会を相手にしたからこそ、盗作したのであり、そのために「堕落」したのでしょう」。その通りです。
私は彼を(盗作をして)社会的ではないから許せない、という論脈にいらだっているだけです。描くことが社会的なわけないじゃないですか。
和田氏は、これまで新聞などで発表された内容によると、東京芸大を出て、留学した頃から名画の模写に優れていたという。勿論、分かりませんが、オリジナリティーのある作品を描くことが出来なかったのではないでしょうか。
絵画を模写する技術はあるが独創性にかけたのでしょう。名画の持つ創造性、圧倒的な力に魅せられた。または、自分の中に創造性が欠けていることを嫌というほど知らされた。そこで出会たのが、スギ氏の作品で、その後、何十回となく模倣に近い作品を、注釈を付けることなく自分の作品とした。
そうして和田氏は、その模倣に近い作品を日本で公開し、それで評価を得てしまった。社会的な評価をスギ氏の作品で得た和田氏は、初めて自分が日本の美術界から評価を受けたことに喜び、模写に近い作品を発表(盗作)し続けた。スギ氏が日本で知られていないことを幸いに。けれども、彼は、その作品群で日本で有名になった。そのことが盗作の事実をあからさまにした。そういう流れじゃないかなと思います。
彼の場合は、まず、最初の動機からして、社会的に認められたい、「芸術家」としての名声がほしい、または、そこまでいうのが酷ならば、創造性を何とかして身に付けたいでも身に付けられないという自分の創造性に対する断念から手を染めたのではないのかと思うのです。そうして、それは、断念が再生の別名ならば、まったく道を踏み外した。創作ということを外面的、社会的に捉えたと思うのです。
芸術家が常に創作家たらんとして、盗作まがいのことをする可能性はありえると思います。けれども、盗作の、その内的動機も、常に創造性の発露の故でなく、社会的な認知、社会的な芸術家としての名声、経済的な動機、そういう動機の方が多いのではないかと思うのです。
あなたの言わんとする意味はとても分かります。盗作の動機のレベルもさまざまだということでしょうか。和田氏の場合は、どうかなあっていうことです。
あなたの丁寧な解説で間違ってはいないと思います。ありがとうございます。
私は和田の作品について和田論をやる資格も能力もないし、関心もないのであなたのような解説はできないし、厳密な意味でその正否を判断できるものでもありません。
しかし、和田が創作家のはしくれであるのなら(そのことを認めない人はいないでしょう)、あるいはかつては創作家のはしくれであったのなら、今、和田に科せられている盗作の罪は大概の創作家の現役からすれば、他人ごとではないだろう、ということが言いたいだけです。
そうは言っても実際に盗作することと、踏みとどまって創作を続けられる人とは大きな違いがある、なんてことは誰でも言いたがるのでしょうが、それは、それ自体が社会的な(あるいは評論的な)言い方であって、創作家側から考えれば、その差にそんな大きな差はないのです。
あなたはこう書いています。
「名画の持つ創造性、圧倒的な力に魅せられた。または、自分の中に創造性が欠けていることを嫌というほど知らされた。そこで出会ったのが、スギ氏の作品で、その後、何十回となく模倣に近い作品を、注釈を付けることなく自分の作品とした」。
これはこの通りかもしれない。「名画の持つ創造性、圧倒的な力に魅せられた」。しかしこの創造性の受容はそれ自体が創作であるほどのものです。だからこそ、描ける、だからこそ描けない、というのは創作家にとって、ほとんど等価です。きわどい琴線を踏むような綱渡りが創作家の創造性というものです。
それは模倣のうまい和田であってもそうだし、どんな三流の創作家でも創作者というものはその種の孤独を味わっていると私は言いたい。
創作家でない私であってさえも、毎年毎年、式辞の前にはこれ以上ないくらいに孤独になり(どこかへ消え去りたくなり)、式辞の後にはもうこれ以上の式辞は不可能、私の経験と知識と教養とはこれですべての命脈を絶ったとおもうくらいに絶望的になります。
思わず、ヤフーで「卒業式式辞」と検索したりもします。くだらない式辞に出会うと勇気が出ますが、でも私の式辞もこんなにくだらないのか、と思ったり、すばらしい式辞に出会うと私が式辞を今更語る意味はないではないかと自暴自棄になったり、どちらにしても何をしても恐怖しかありません。この恐怖は盗作で社会的に罰せられる恐怖とほとんど同じと言っても良い。私ごときでもそうなのだから、和田の場合はもっとそうだろう、と思います。
和田はその意味で今、やっとほっとしているのではないでしょうか。
ミケランジェロのダビデの鼻のように、社会が作品自体を修正しようとしても、大理石の粉を散らすだけでその社会的な要求をかわす芸術家もいると思います。
またフェルメールのように贋作を造ってもオリジナルを超えてえているが故に芸術だとだといわれる場合もあるのではではないでしょうか。
和田氏はオリジナルの不足を補おうとしたけれども、オリジナルを越えられなかっただけではないのでしょうか。
パラダイムを変えることは芸術だけではなく常に難しい課題ではないででしょうか。ドクター論文があっても、四国の電気釜から作られた陶器が青色ダイオードの様に、カミオカンデのニュートリノのよりパラダイムを変えることもあるのではないでしょうか。
そういう意味ではすべての学問や工芸や人文は模倣に過ぎないといえるのでは。。。。。
ミケランジェロのダビデの鼻のように、社会が作品自体を修正しようとしても、大理石の粉を散らすだけでその社会的な要求をかわす芸術家もいると思います。
またフェルメールのように贋作を造ってもオリジナルを超えてえているが故に芸術だといわれる場合もあるのではではないでしょうか。
和田氏はオリジナルの不足を補おうとしたけれども、オリジナルを越えられなかっただけではないのでしょうか。
パラダイムを変えることは芸術だけではなく常に難しい課題ではないででしょうか。
ドクター論文があっても、四国の電気釜から作られた陶器が青色ダイオードを作るように、カミオカンデのニュートリノよりパラダイムを変えることもあるのではないでしょうか。
そういう意味ではすべての学問や工芸や人文は模倣に過ぎないといえるのでは。。。。。