校長の仕事(20) ― 新入生フレッシュマンキャンプ( コンピュータの本質、建築の本質、オリンピックセンターの建築・写真付き) 2006年04月18日
今週は日曜日の早朝から始まった。毎年恒例の新入生フレッシュマンキャンプ。一度八王子の大学セミナーハウスで行ったが(http://www.ashida.info/blog/2003/04/hamaenco_3_46.html)、通常は代々木公園に隣接する(http://www.tmamt.or.jp/yotei/map/6.htm)国立オリンピック記念青少年総合センター(http://nyc.niye.go.jp/)で行っている。
今年は予約の関係で、インテリア科、インターネットプログラミング科、WEBデザイン科が第一陣(日曜日から月曜日まで)、第二陣は建築科と建築工学科で月曜日から火曜日まで。ということで私自身は連続2泊三日のフレッシュマンキャンプとなった。
この国立オリンピック記念青少年総合センターの設計(http://www.sakakura.co.jp/japanese/associates/portfolio/awards.htm)は坂倉建築研究所(http://www.sakakura.co.jp/)の手によるものらしい。日本建築業界賞は受賞したが、あまり評価されなかったという。
しかし私は、この青少年総合センターを断固として評価したい。絶景は、夜の風景。特におすすめなのが、宿泊棟エリア(http://nyc.niye.go.jp/facilities/d2-5.html)から国際交流棟(http://nyc.niye.go.jp/facilities/d6-4.html)の前へと続く桜並木を歩いて行くときの風景。
これは反対側の国際交流棟から見た桜並木。
カルチャー棟とセンター棟の大きく縁取られたガラス面(どちらも食堂ラウンジだが)が明るく光るが、この桜並木の道路面は、ビル一階分くらい高い面にあり、その高さに地面からのラウンジの高さ(食堂ラウンジ自体は2階にある)が合わせてある!
したがって桜並木を歩くとまるで夢の浮き橋を歩いているような錯覚に陥る。
夜撮れなかったのだが、これが昼のその風景。左がセンター棟(クリーム色のブラインドが一部かかっているが本来は全部ガラス面で露呈する)。右がカルチャー棟(こちらも白いブラインドが一面にかかっているが、夜は開放される)。広角のカメラがなかったので、携帯電話のカメラではこれが限界。夜撮りたかった。
ここが桜並木から、正面玄関の広場へと降りていく階段。真ん中にあるのは障害者用エレベータ。通常は脇へ追いやられる障害者エレベータもこのように階段のど真ん中に据えられている。まるで岬を見やる(両端の食堂ラウンジを睨むように)灯台のようだ。
この夜景だけは一度見てほしい。サクラ満開の並木の夜景を見ながらの、岬のように突き出たこのガラス壁面は、もっと浮世離れした風景を演出するはず。これだけでも、このオリンピックセンターは成功しているというべきだ(わが先生達によれば、この設計はあまり評判はよくなかった、とのことだが、そんな世評に惑わされてはいけない)。
他にも教室の設計にも工夫が見られる。円形の廊下が多いのだが、それが歩く距離を感じさせないばかりではなく、以下の写真のように円形のカーブが自然なアルコープ(http://house.biglobe.ne.jp/keyword/keyword/157.html)の形状を形作っている。またそのくぼみを利用して内部が見えるように透明ガラスが貼り付けてある(写真左側)。このガラス開口部は外から見られているということを内部の参加者には意識させない(だから研修に集中できる)。外部の人間からは、どこのだれの研修なのか、あるいは研修の集中度が見える。円形廊下は単なる造形的な遊びではなく、有意義な機能も果たしている。また廊下は微妙に傾斜が付いていて(緩やかなスロープになっていて)、研修室(=教室)への入口に自然に誘うようにもなっている。入りやすく(下り)、出づらい(登り)研修室。なかなかの設計だ。私も将来はこんな学校を作りたい。
これがセンター棟一階の研修室へと至る円形にくねった廊下。左側の入口にあるアルコープとガラス窓が特徴的。右側の奥にもこういったアルコープとガラス開放部がある。この写真からでもわざわざスロープになっているのがわかる。
そう思いながら各科の研修室を歩き回っている内に(足がボロボロになったが)、だんだん授業をやりたくなってきた。開会の挨拶と閉会の挨拶だけでは何となく物足りない。式辞で挨拶はもう懲りている。「何か、私にも(内容的な話を)しゃべらせてよ」と各科の科長や教員に呼びかけるが、みんな(予想通り)嫌がっている。IP科(インターネットプログラミング科)が「やりますか」といやいやながらも引き受けてくれたので、飛び入り参加。新入生達が「この校長、何か変?」とじろじろと見回している。そんなことにめげてはいけない。
●インターネットプログラミング科即興講義
コンピュータとは何か? プログラム(プログラミング)とは何か? こういった問いに答えるのは難しい。というのは、問いが難しいからというよりも、くだらない“定義”に満ちた回答がちまたにあふれているからだ。「コンピュータとは、電子素子 (真空管や、トランジスタ、IC など) を使って演算処理できるもの」。「プログラムとは、コンピュータを動かす最も基本的な方法です。プログラムでは、一般にプログラミング言語と呼ばれる、コンピュータのための言語を使用してコンピュータを操作します」などと“ちまた”の本には書いてある。こんな解説を読んで何がわかるというのだろうか。
「では、コンピュータとは何か、プログラムとは何か、話そう」と決起。先の定義をあげながら、「こんなものでわかるはずがない」と学生と共に嘆きながら、おもむろに解説を開始した(準備を何もしていないから不安だったが)。
たとえば、ノート(や紙の住所録)に筆記具で“記録する”のとコンピュータにキーボードで“入力する”のとでは何が違うのか。
筆記具での記録は、入力と出力とが同じ。書いたもの(はじめ)とそれを見ること(終わり)が同じ。
たとえば、ノートであるならば、紙の最初に書き始めた文字列が、最後まで(それを見る=読むときまで)その位置に残る。だから、講義ノートなどで、最初に先生が話したことが、後の話のある箇所と関係するときなどは、ノートの上下の該当箇所に線を引いたりして“関連”付けを示したりもする。ページを何ページにもまたがるときの関連付けなどは大変難しい。
紙の住所録の場合は、もっと深刻だ。通常この種の記録紙は、ア行、カ行、サ行 … というように“分類”されており、そうやって「芦田」をア行の最初に記した場合、その後、「秋葉」という人に出会ったら、大変。「愛田」という人にあったらもっと大変。
こうやって筆記具での記録はデータが溜まれば溜まるほど、使い勝手の悪いものになる。なぜそうなるのか。それは、書いたときの形式が利用するときの形式と同じだからだ。
書くときというのは、それを利用するときとは異なる。ノートを取るのも、名前を書き留めるのも、“その時には”わかっていることを、“後で”利用するためであって、優秀なノートや記録というのは、後でそれを読んだときにわかるように書き留めるということであるが、これには結構高度な知的訓練が必要になる。
“その時には”わかっていることというのには、別のこともある。もう絶対に会わないだろうという人の名刺を記録しなかったり、捨てたりする場合、そんなときに限って、半年後、一年後に必要になる場合がある。もう絶対に会わないだろう、という記録( INPUT )の時間の判断(=現在の判断)が、利用(OUTPUT)の時間の判断(=将来の判断)と異なるということだ。
いずれにしても、筆記具でのあらゆる記録は、この質の違う時間性を保持することができない。いつも記録の時間が利用の時間になっている。言い換えれば、利用の時間が記録の時間に制約されている。だから使いづらいし、いざというときに役に立たない。
もしも、記録の順序に制約されない記録の仕方、そして利用の仕方が存在したらどうだろうか、「芦田」と最初には記録したが、「秋葉」を後から記録しても、「秋葉」を最初の「芦田」と入れ替える記録の仕方があるとしたらどうだろうか。
コンピュータとは、一言で言えば、記録(INPUT)の時間性に利用(OUTPUT)の時間性が制約されないための“装置”である。現に、名簿の並び替えなどというものは、携帯電話ではおなじみの“機能”である。これは手書き記録の時代には考えられなかった利便性だ。
後悔先に立たず、とはよく言ったものだが、コンピュータとは、後悔を先に立てるためのもの。
チェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフを打ち負かすことを目標として開発されたIBMのコンピュータ「ディープブルー」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC)は、今から15年前でも1秒間で2億手の先読みができたが、これは逆に言えば、それだけの駒の配置を前もって記録してあるということである。
あのときにはこうすればよかった、という後悔を決して行わないための記録が「ディープブルー」にほぼ無限に記録してあり、それを瞬時に(=利用時に)OUTPUTできる。
コンピュータという装置は、まずINPUTとOUTPUTとを分離する。そしてIUPUTではデータ(データ価値とでも言うもの)を決して差別せず、あらゆるデータをあらゆる仕方で使えるように記録する(これが「データベース」と言われているもの)。
このときの要点は、大容量記憶装置(HDD)と演算処理(CPU)の高速化である。記録データ量に制限があると、入力での差別は起こりやすい。また記録データ量が大きくても検索処理などに時間がかかると使う気にもなれない。
現代のコンピュータがHDDの高容量化と処理速度の高速化をとめどなく加速化させているのは、「かくあったは意志の歯ぎしり」という人間的な悔いをどこまでも解消するためである。世界中の、そして全世界史の体験を、この現在の決断において瞬時に参照することができれば、あらゆる悔いは解消するはず。日の下に新しいものは何もない(旧約「伝道の書」)、すべてはデジャブーだとすれば、HDDの高容量化と処理速度の高速化は、人間的な究極の野望だとも言える。
要するにINPUTとOUTPUTとの乖離は、その乖離度が高ければ高いほど、文明度も高いと言える。
変温動物は恒温動物よりもINPUTとOUTPUTとの乖離度が低い。なぜなら、変温動物は外部が寒ければ(INPUT)、体温(OUTPUT)も寒いからだ。だから場所を物理的に変化させて(冬眠)、恒温状態を保とうとする。それに比べれば、恒温動物は自律的に(体毛を増長させながら)体温を保つことができる。
体毛の変化は、こたつのサーモスタットのようなフィードバック制御を自然に行っているのです。
もともとコンピュータのINPUTとOUTPUTモデルは、生物学的なS-R図式(刺激―反応図式)に基づいている。そしてS-Rの関係もそれが直接的にではなく、間接的で象徴的になればなるほど生物の世界も高度化し、自然環境の変化に依存しない高能力を身に付けている。猫や犬の体毛の変化は、人間においては、エアコンや飛行機による避暑地への旅行へと“進化”している。
S-R図式は、INPUTとOUTPUTモデルへと工学的に変容し(それがサイバネティクス)、最後には行動主義(Behaviorism)へと結実する。
行動主義とは、人間は「心がある」から人間「である」のではなく、人間らしい行動(Behavior)を行うから人間「である」というもの。ホンダのロボットASIMO(http://www.honda.co.jp/ASIMO/)を初めて見たとき、多くの人は人間が中に入っているのではないか、と思った(半分冗談ながらも)。
おなじように人間が中に入っているかのように話すロボットが生まれるのも時間の問題。精神病の治療用には「イライザ」という患者会話用の“ロボット”が10年以上前に実用化されている。
こういった試みがどんどん高度化していくと、中身が何であるのか、よりは実際に何ができるのかということの方がはるかに重要だ、という考え方が出てきてもおかしくはない。それが行動主義。
もうおわかりのように、行動主義の言う「行動」とはOUTPUTのこと。どんなINPUT(=生物学的な成分、あるいは工学的な成分)であろうと、そこから遠く離れて、人間的なOUTPUTが成立すれば、それは、人間「である」と言える(と行動主義は考えます)。
熱い血が流れているから人間、高度に発達した脳があるから人間というのはウソ。人間であっても人間的でない、つまらない機械的な反応しかできない人間はいくらでもいる。もしあなたたちの今の恋人よりも楽しく会話ができる(そして会話以外にも…)存在者が存在するとすれば、それを今さら「機械だから」と言って差別する理由はない。
人間は何もしゃべりもしない、行動もしないぬいぐるみにさえ、他の人間以上に精神移入できる存在。そのぬいぐるみが話し始めたり行動しはじめたら、どんなことになるのやら。それが行動主義の「人間」観です。
これが現代のコンピュータ科学の理想的なモデルです。すべてのコンピュータ科学者は、こういったS-R図式、INPUT-OUTPUT図式、そして行動主義の思考の中で世界や人間をとらえようとしています。
さて、この考え方に問題はないのか。それが、次の問題になりますが、もう夜も遅い(22時近くになりました)。この続きは学校へ戻ってからのお楽しみにして、今日はここで終わります。
●建築系飛び入り即興「自己紹介」(月曜日の夜の建築工学科セミナー)
私は、大学時代には、ポストモダンの思想に入り浸っていました。ポストモダンとは、近代的な概念装置、自由や主体性といった概念装置に根本的に異議を唱えはじめた思想のことです。建築や芸術論の領域で言えば、作者=作品といった構図に異議を唱えた思想のことです。
フランスのフーコー、ドゥルーズ、デリダという3人の思想家がその世界的なリーダーでした。今では全員死んでしまいましたが私の学生時代にはみんなばりばりと精力的に仕事をこなしていました。
私はその人達の中でもデリダの諸著作に特に馴染んでいました。彼が日本に初来日してときも恩師の高橋允昭と1週間以上デリダと同伴しました。高橋允昭も亡くなった今では良い思い出です。
建築に於けるポストモダンを今簡単に話すとすれば、たとえばこういうことです。
フライブルグ講義で、ハイデガーはこういった例を出しています(ハイデガーは先ほどの3人の思想家に大変大きな影響を与えたポストモダンの親分です)。
「チョークのこの内部はどうなっているのか確かめるべく、たとえば、チョークを折ってみる」。ここにはホワイトボードのマーカーしかないので、ハイデガーのようには折れませんが、このマーカーを折ったことにしてください。
しかし、チョークの内部を折ってみてもまた別の外部(表面)が出てくるだけです。「拡大鏡や顕微鏡」(ハイデガー)を使ったとしても事情に変わりはない。
外部や内部という概念は、自明なように見えてそうではない。空間概念のもっとも基礎的に見える概念であるにも関わらず外部や内部は自明ではない。
たとえば、家の内部と外部、部屋の内部と外部、これは自明でしょうか。内部と外部をわけ隔てていた扉(玄関)。
しかしそもそも扉(玄関)とは何でしょうか。扉は外部と内部の境界であるように見えます。しかし扉を開けるともうそれは内部ではなく外部です。外壁があるようにして、内壁が露呈するのですから、それはすでに外部です。同じことは家の“内部”から外へと扉をあけて“外出する”ときにもそれは言えます。扉を開ければ、内部が露呈していたようにして外部が露呈し始めるのですから、それは一つの内部です。
玄関を挟んで、どちらもが内部にも外部にもなる空間が建築空間の本性です。〈扉〉とは建築にとって永遠の課題なのです。
このことは、住宅の間取りにも言えます。リビングに一人でいれば、それは個室です。個室に突然お母さんが入り込んできたら、それは個室ではなくて、公共的な空間です。一つの住宅に中にも内部と外部とが変転し合っています。
近代の思想は、外部を実体的に分離します。というのも、近代的主体は内部そのものとしての〈心〉を前提にしたからです。「心の扉」という比喩があるようにして、まさに扉の内部は心そのものだったのです。建築思想も、この内部を実体的に信じてしまいました。
人間は家の中に住む。この場合の「中」(=内部)は通俗性そのものです。人間はそんなふうに家の中に住んだりはしていません。
ハイデガーは人間を「世界-内-存在」と呼び変えました。ドイツ語では、In-der- Welt-sein(イン-デア-ヴェルト-ザイン) と言います。
重要なのは、このハイフン(-)です。東大の渡辺二郎たちの訳(中央公論社版『存在と時間』)ではこのハイフンは完全に無視されて「世界内存在」と訳されていますが、こうなると、世界内存在という(ふうに規定される)存在者が、「世界」の「内部に」存在しているかのように実体化されてしまいます。まるで家の“中に”人間が住まうように(まるでタンスの“中に”衣服がしまわれているように)、世界の中に存在している存在者が世界内存在としての人間だ、というように。渡辺二郎たちの翻訳では何回読んでもハイデガーはわからないのです。
しかし、このハイフンの意味は世界があることと人間が存在することとは同じことだと言いたいわけです。人間(内部)があって世界(外部)があるのでもなければ、世界(外部)があって人間(内部)があるのではない。両者は同じように(空間的に分離出来ない仕方で)存在する。それが、ハイフンの意味です。
住むことの本質は、外部にも内部にもない。あるいは逆に外部でも内部でもある、ということを言いたかったのが、このハイフンの意味です。このハイフンは、人間の心を“内部的に”表象する近代主義に大きな問いを投げつけたのです。
みなさんが、これから設計のプロになるときにぜひ考えて欲しいのは、空間における外部、内部のこの変転です。
建物全体の設計、個々の部屋の設計を考えるときに、外部や内部を決して自明な実体のように考えないこと。出ることによって内部になったり、入ることによって外部になるのが空間の本性だということをぜひ頭にたたき込んでおいてもらいたい。それに基づかない設計はすべて陳腐です。
このオリンピックセンターの食堂の出口の扉は、食堂の内部からも外部玄関のように造形化されています。そうすることによって、食堂ラウンジ全体が大きな開口部のガラス面と一体になってテラスラウンジ(外部食堂)のような錯覚を思えるような設計になっています。これなどは、まだまだ素朴ではありますが、外部や内部の実体主義を破壊する一つの仕掛けです。悪くはない、と私は思います(下記写真参照のこと)。
卒業までに、みなさん自身の研修の出発点となったオリンピックセンター by 坂倉設計を超える設計家になることをぜひ約束してもらいたい。私も、みなさんを月並みな設計家で終わらないように精一杯支援したいと思います。(単なる「自己紹介」に、「私にも自己紹介させて」と飛び込んだので、この程度で終わりました)。
ここがその食堂の出口(さきほどの桜並木の終点)。残念ながら内部からの玄関の造形は取り損ねてしまって、この時間は入ることを許されなかった。奥の濃い緑は代々木公園(柵で囲われているが)。このカットだけでも建物配置が絶妙であることを伺わせる。外廊下の小屋根の柱が曲げてあるのがまた小憎い。これも単なる意匠上の贅沢ではなく、屋根を広く(空間をゆったり)見せる工夫の一つだ。
※その他、このオリンピックセンターの写真を多々掲載しているサイトがあったのでリンクを張っておきます(http://www.ne.jp/asahi/shinken/tokyo/kenkyu/2000/olympic.htm)。
※科長たちと話したのだが、来年はこの建物全体をサーベイする新人研修を行うことにした。意匠系、施工系、構造系、インテリアとすべての専門家がわが校にはいるのだから、総力を結集して、このオリンピックセンターを解剖するセミナーを来年は開催しようと関係者に呼びかけておいた。そして坂倉研究所のメンバーを講師に呼んで、設計の苦労話をわが設計家のたまごたちに話してもらうことに決めた。来年のフレッシュマンキャンプが楽しみだ。
(Version 3.0)
※このブログの今現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンをクリック、開いて「専門学校教育」を選択していただければ今現在のランキングがわかります。
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/709
はじめまして。
今年度、建築工学科に入学させていただきました。
フレッシュマン研修では、校長先生をはじめ、先生方には、大変お世話になりました。
さて、早速ですが「芦田の毎日」拝見いたしました。
先生の熱意がとても伝わってまいりました。
奥様のお体が思わしくないそうですが、ご回復を心よりお祈り申し上げます。
ところで、研修の折、先生はご自身のご紹介で哲学に関するご研究をされていらしたとか。
私は、以前より哲学に興味がございましたが、なかなか独学でどうなる分野でもなく途方に暮れておりました。
不躾なお願いで申し訳ございませんが、なにかきっかけになる書物でもあれば教えて頂けないでしょうか。
なぜ哲学に興味があるのかと申しますと、私は新卒ではなく、商業高校卒業後インテリアの勉強をいたしまして、設計や施工の(アシスタント的な)お仕事に携わりました。
しかし、「図面を描いてください」と言われたとき、作図方法も知っていて、クライアントのニーズもわかっていてその機能を満たす形までは辿り着けるにもかかわらず、ディティールが浮かばないのです。
浮かんでも、なぜこの形がいいのか説明できないという状態でした。
そうなると、流行や模倣に走るしか方法はありませんでした。
そこにはおそらく「哲学」が必要なのでしょう。
先生のおっしゃる「専門学生に欠けるもの」とは、おそらくそのようなものではないのでしょうか。
ですから、もう一度勉強しなおそうと考え、入学させていただいた次第でございます。
今後とも、何卒宜しくお願い申し上げます。
「新入生」様
哲学上のおすすめの本と言えば、
少し偏っていますが(かなり偏っていますが)、
●『認識論』 藤本進治著 こぶし書房刊(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875592043/qid=1145375358/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-0681933-8472356)
●『社会の起源』 梯明秀 青木書店刊(http://www.bk1.co.jp/product/501119)
●『社会認識の歩み』 内田義彦著 岩波新書(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004110637/qid=1145375659/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-0681933-8472356)
の3冊です(藤本のものは長らく絶版でしたが、最近よりにもよって「こぶし書房」で再版されました)。
三つとも哲学プロパーの作品ではないのですが(藤本と梯はマルクス主義者、内田は経済学者)、初心者が思想的な世界に入るのにはもってこいの作品です。
特に藤本、梯のものは若い私には衝撃的な本でした。こんなに面白い思想書はありません。ぜひ読んでください。
もしもわからないところがあれば、私のところにメール下さい。校長室に直接来てもいいですよ。
早々のお返事、誠にありがとうございます。
教えていただいた書籍は、是非拝読させて頂きたいと存じます。
建築工学科のクラスは女子が8名なのですが、ランチも一緒に集まっていただく位仲良しになれました。
研修を終えて、本日は男子ともうちとけてまいりました。
これからとても楽しみです。
そうそう、ランチの時、ある人がこんなことを言っていました。
「この学校の授業は1時間30分あるのにぜんぜん短く感じるよね。高校の頃は50分授業がすごく長く感じたのに不思議だよね」と。
これは一重に先生方の熱意の賜物かと存じます。
この分だと本当に3年間あっというまに過ぎてしまうのではないかと心の引き締まる思いがいたしました。
それでは、時節柄くれぐれもご自愛くださいませ。
まずは、お礼まで。