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605 re(4):季節はずれの桜と二匹の犬。
2002/4/5(金)23:39 - 芦田宏直 - 20067 hit(s)


自分の死や家内の死すら看取れるかどうか、怪しいのに、どうやって犬の死を見とれると思っているのですか。

よく、子供ができないから(とか、子供が大きくなったから)、と言いながら、犬を飼う場合がありますが、そんなことをするから、子供ができないのです。あるいは、それ以前に、なぜ、子供がいなくてはならないのですか? 

子供が偶然いないというのは、いったい、どのような〈欠如〉なのですか? それは、足や手がないという欠如と同じように、まったく欠如ではないでしょ(だから、私は、足のない人がパラリンピックなどで必死で走るという意味がわからない。もし彼らに走る意味があるとすれば、その努力の果てにベン・ジョンソンより速く走れる場合だけだろう。

「足がないのに(障害者なのに)速く走れたね」というのは、褒めコトバではなくて、それ自体が差別だ。人は、留保なく、努力できるものだけに関わるべきだし、またそうあり得るのが、人間〈である〉ことだ。

したがって、自分と遊ぶことなしに、犬と遊んだりしてはいけない。もともと、遊ぶことは留保がないものにこそ向けられるべきであって、いざとなれば捨てることのできる犬と遊ぶなんて、遊んだことにはならない。

あなたは犬を捨てるように、自分を捨てることができますか? この問いを回避するから、犬を飼って、寂しさをまぎらわせるような気がするのです。

しかし、家族とは、それ自体、孤独なものです。夫婦は、好きなままで別れる(死別する)唯一の恋人同士です。この孤独(あるいは、逃げようのない遊び)を、犬を飼うことで、どう代理するというのですか? 「家族のような愛犬」とあなたはこともなげに書きますが、なんと殺伐とした家族でしょうか。犬など飼わずに、もっと自分自身に向かうべきです。


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