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559 現役論 ― 永坂田津子の1周忌によせて
2002/2/24(日)13:54 - 芦田宏直 - 7258 hit(s)


 1年前の今日24日は、大雪が降っていたのを思い出す。というのも、その大雪の日が、恩師・永坂田津子(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&kywd=%B1%CA%BA%E4%C5%C4%C4%C5%BB%D2&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=11&s1=za&dp=&kywdflag=0)の密葬の日だったからだ。もう1年が経ってしまった。

 永坂は、生涯現役だった。たしかそんな追悼文を書いて、友人(知人)代表として葬儀で読み上げた(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=255&e=res&lp=249&st=)。しかし、生涯現役というのは孤独だ。それは、弟子を作らない、組織、支持者に頼らない、ということと同じだ。したがって、孤独に一生を終えるしかない。

 年を取れば、適当に上役になり、人の世話をし、若い人が育ち、その“伝承”の中で、引退の準備をする。年を取るにつれて祝賀会や誕生パーティに集まる人が増え、その本人よりも周りの方がにぎやかになっていく。それが、引退というものだ。引退しても、周りがにぎやかになっていく分、引退の寂しさはつのらない。むしろ逆かもしれない。周りがにぎやかになって幾分、現役気分が希薄になっていく。そうやって現役を引退するときがやってくる、というように。

 そういった引退の条件は、交際関係が二重にできていることである。現役というのは、自分が知っている人(一緒に仕事をした人)だけの関係にとどまるため、祝賀会や誕生パーティーが開かれることがない。“大人”になってからの祝賀会や誕生パーティーというのは、本人が知らない人(二重目の交際関係に関わる人)が集まることなしには、まず存在し得ない。これが葬儀が、そして一周忌が盛大になる契機である。

 人はなぜ集まるのか? それは一重ではなくて二重(二重以上の)の関係が生じているからだ。どんな偉大な人物でも、一重の、直接的な関係の中では、好き嫌いが前面化して「友達の輪」は広がらない(ヘーゲルは「召使いは英雄がわからない」と言っていた)。〈勢力〉とは「友達の友達」(=伝承や伝説)ができるときに生じるのである。

 永坂は、その点、生涯現役だった。永坂は、生涯にわたる作品を61才(1994年)で『隠喩の消滅』(審美社)http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9950013852 にまとめたが、私が『書物の時間』処女作(行路社)http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8F%91%95%A8%82%CC%8E%9E%8A%D4 を35才(1989年)で出したときには、本気で嫉妬していた。私なんかと比べること自体が陳腐なくらいに大きな業績と名声と有していたのに、それでも、若い私が「本(『書物の時間』)が出ます」と言ったときには顔が引きつっていた。そのとき、この先生は、生涯、現役でいるつもりなんだな、と思ったことを覚えている。だから、昨年のお葬式も、彼女の業績に比べれば、はるかに規模の小さなものだった。無名の私が、友人(知人)代表として、追悼文を読み上げるくらいだから尚更だ。そして、1周忌さえないようだ。こんなものでしょう、永坂先生。

 〈現役〉は、伝承や伝説(あるいは社会的な名声)を好まない。いつも素手で相手と対峙しようとする。永坂と話をするときには、私も従って、いつも無礼講のように対峙せざるを得なかった。こういった緊張は、決して、伝承や伝説にはならない。二人にしかわからない関係だから。私も、スタッフに対しても上長に対しても、二人にしかわからない関係(一重の関係)でしか、対峙していない自分にふと気づくときがある(永坂より、少しは世話好きだと思うが)。いつの間にか、私も永坂をなぞっているのかもしれない。

 だから、生涯現役は、孤独だ。死んでも死にっきりだ。一重の関係であった個人個人が想いつづけるしかない。弟子(や派閥)に守られて死んでいくというのも幸せなことだが、そういった“幸せな”上昇(=終焉)の仕方は、人生の後半3分の一は、現役ではない。学者(研究者)であれば、「入門」という書物やあれこれの啓蒙書を書き始めるたぐいの者は、みんな50才を超えて、すでに現役を引退しているのである。つまり、人生を振り返り始めているということだ。或る人間にスタッフや支持者や信奉者が増えていくプロセスというのは、その人間が人生を振り返り始めるプロセスに重なっている。作家は処女作に収斂する。芥川賞以後の作品は、芥川賞作品の回想録なのである。

 親切(他者を世話すること、あるいは、仲間が増えること)とは、他者の現在に自分の過去を投射することであって、それは、反省(Reflection:折れ曲がること)の別名だ。しかし、それは自己が縮小していくことと同じことだ。ニーチェは、「支持者という者がいかに頼りない者であるかは、支持者の支持者であることをやめてようやくわかる」と言っていた。指導者というものは、実は、先に立つ者ではない(指導などしていない)。指導者はむしろ支持者への媚びから始まっている。指導者は、支持者に似るのであって、逆ではない。マルクスも、だから「私はマルクス主義者ではない」と言ったのである。ニーチェもマルクスも、生涯現役であることを選んだ。彼らは、何度も処女作を書き続けたのである。何度も生まれ変わったのである。

 生涯現役の孤独とは、寂しさのことではない。何度も再生する、鮮烈さなのだ。私も永坂にならって、生涯、現役でいたいと思う。これが、私と永坂先生との1周忌だ。


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