表紙へ

◇ 生涯学習研修会講演録より ◇

司会: 時間になりましたので、これより平成9年度生涯学習研修会を開催いたします。

 本日の研修会は5時までの3時間でございますが、全体の進行につきまして簡単に御説明申し上げます。

 まず第一部ですが、最初に、皆様から向かって左側にお座りの小山学園キャリア開発研究所カリキュラム開発室長の芦田宏直様より、「職業教育・情報教育・生涯学習 ― 専門学校の展望」と題しまして、質疑・応答の時間を含めまして40分間お話しいただきます。その後引き続きまして、右側に座っていらっしゃいます大乗学園エクステンションセンター事務室課長の石井元彦様より、「公開講座・市民講座について、大乗淑徳学園の場合」と題しまして、やはり質疑・応答の時間を含めまして40分間お話しいただきます。ここまでがが第一部でございまして、3時20分に終了の予定でございます。

 ここで10分間の休憩をいただきまして、3時半から第二部を開始いたしまして、帝京大学文学部教育学科の佐藤晴雄助教授より、「生涯学習における学校の役割」と題しまして、質疑・応答の時間を含めまして1時間半程度お話しいただきまして、5時に終了いたします。

 最後に、お配りしてございますアンケート用紙を回収させていただきますので、ご協力方よろしくお願いいたします。

 それでは、早速、小山学園キャリア開発研究所のカリキュラム開発室長の芦田宏直様より、「職業教育・情報教育・生涯学習 ― 専門学校の展望」と題しましてお話しいただきますが、先生の研究所では、コンピューター講座を開設しておりまして、社会人の年間受講生は年間20,000人を超えるということをお伺いしております。開設に至るまでと開設から今日に至るまでの苦労話を交えまして、体験に基づいた企画実施上の問題点や留意点をお話しいただきたいと思います。

 それでは、芦田先生、よろしくお願いいたします。

職業教育・情報教育・生涯学習 ― 専門学校の展望

小山学園キャリア開発研究所
カリキュラム開発室長  芦田 宏直

0) はじめに

 小山学園の芦田と申します。よろしくお願いいたします。

 私、こういうところでしゃべるのは余り慣れておりませんので、舌足らずなところや早口になるところがあるかと思いますが、お手元にお渡ししてある資料にあるように、とりあえずきょうのお話のアウトラインを少しは文字にしておきましたので、それを参照していただきながら聞いてくださればありがたいと思います。  

 私ども「東京工科専門学校」ということで都内に4校の専門学校を持っておりまして、自動車系の専門課程から始まりまして、建築・インテリア系、その他バイオテクノロジー系まで、主に工業・技術系の職業教育を自分たちの分野にしている学校であります。

 96年4月に東中野に新しい校舎(「テラハウス」)を建てるということで、「キャリア開発研究所(Institute for Career Advancement)」(略称・テラハウスICA)という新しい生涯学習の組織をつくり、カリキュラムを立ち上げ、受講生の募集を始めました。

 そのときぼんやりと考えていたことといえば、18歳の人口が減少していくなどということは耳にタコができるほど聞かされていて、専門学校ももっと広いマーケットで学生募集をしていくような、そういった展開ができないかということはもちろんなかったわけではないんですが、そういう仕方でマーケットを拡張して、取ってつけたように新しい組織をつくって生涯学習を展開しても、多分うまくいかないだろうということ。例えば、私立の中学校が小学校にまで枠を広げて「附属」を作りマーケットを広げるといったのと同じで、専門学校も18歳層にもはや期待しないほうがいいと。「生涯」学習ということになれば、(キッズ層から)シルバー層も含めて広範なマーケットが期待できるというような展開というのが一方であったわけですが、多分そういうことではないだろうというのが我々が考えていたことです。

 社会全体が大きく変わろうとしていると。それは子供が減少しつつあるということの問題ではなくて、学習のあり方や知識のあり方、そして仕事の仕方自体が根本的に変わろうとしているのではないかと。従来から「職業教育」を標榜してきた専門学校こそが真っ先にそういった新しい学習のあり方や、あるいは新しい職業人の人材形成について答える義務があるのではないのかとおもったわけです。

 きょうの表題を「職業教育・情報教育・生涯学習」としましたが、これら3つの関係が多分、鍵だろうというふうに私は思っておりまして、ただし、これは私自身が聞きたい話でもありまして、きょう、どこまでうまくそれが話せるかわかりませんが、とりあえず我々がこういったカリキュラムを立ち上げたことの前提になっている考え方を少しお話しさせていただきまして、その後、このカリキュラムをどういう立場からつくったかというお話ができればというふうに思っています。

1) 新知識主義と生涯学習社会

 我々がまず考えたことは、〈知識〉ということの意味が最近変わってきているぞという予感がまずありました。

 これまでは〈知識〉といえば、〈現実〉だとか、あるいは〈実務〉だとか、あるいは〈実践〉みたいなものと切り離されて考えられてきて、むしろ対立するものとして考えられてきたわけですが、コンピューターがパーソナル化し、「パソコン」という形をとってどんどんどんどん大衆化していきますと、〈知る〉ということの意味が変わってきて、〈知る〉ということが極めて実践的で行動的な内容を持つようになってくるということがあります。むしろ〈知っていること〉と〈できる〉ことがイコールになるような環境がコンピューターメディアの普及によってどんどん広がりつつある。

 お手元にお配りしているアウトラインでは、車の話を例として出しておりますが、たとえば車でも、ブレーキングの技術というのを習得するにはかなりの時間がかかりましたし、特定のセンスを持っていなければ、そういったブレーキを上手に踏むということはできなかったわけですね。ところが、今日のようにコンピューターシミュレーションによるブレーキングシステムの技術が進んできますと、「アンチロックブレーキ」や「トラクションコントロール」、あるいは最近では「ブレーキアシスト」といったようないろんなシステムが車の中に入り込んできて、とりあえず踏めば何とかなるみたいな状況が、まだまだ技術的には未熟ではあるけれども、そういった状況が生まれてきている。〈ブレーキを踏めば車がとまる〉という知識のレベルでの操作で"実際に"車が止まる。知的な操作がそのまま、これまでかなりの熟練技術を必要としたブレーキングの技術に取ってかわりつつあるということです。

 そういった分野は、例えば私どもであれば、建築系の大きな科を持っているわけですが、手書きの図面の作業がCADにかわっていくという場面に対応しています。専門学校は、従来2年間(あるいは3年間)何をやっていたかというと、ある意味では、きれいな線(あるいはきれいな図面)を描く勉強を「実習」と称して時間をかけてやっていたわけですね。それは文字どおり時間がかかる学習でありましてなかなかそれは、〈こう引けばこうなる〉ということを知っていても、きちんとしたきれいな図面を描くということは大変難しくて、まさにこの限りでは、〈知っていること〉と〈できる〉こととの間に大きな距離があったわけです。それはあらゆる分野でそういった距離があったわけですけれども、CADであれば、〈操作を知る〉ということと〈線を引くことが(実際)できる〉ということの意味はほとんど同じ状況になってくる。そうすると、実習に長い時間を割いて図面を書いていくというプロセスというのがコンピューターに介在されたシミュレーション技術を駆使するレベルでは、〈知識〉にかわってくる。つまり熟練技術の形成というのが〈知る〉ということの中へどんどん変貌して入ってくることが起こってきます。〈知る〉ということが実践的な意味を持ち始める。

 専門学校の職業教育というのは、大きな「実習」時間を割いて、かつ業界なり官庁の規制の中で実習時間何時間というのをあてがわれながら、なかなか融通をきかせにくいカリキュラムの中でやってきていました。その中でやってきたのはほとんどが習得するのに時間がかかる教育、つまり身体(の馴化)に依存した熟練技術の教育というものを専門学校は社会的には負ってきたわけです。そういった馴化・熟練学習の部分というのが、コンピューターメディアを介在させる昨今の技術普及によって、どんどん知的なものに変貌しつつある。その中で、教育の内容が大きく変わろうとしてきているということを我々は考えてきたわけです。

 つまり、身体や熟練した手仕事を介在させなければいけない教育の分野がどんどんどんどん縮小しつつあるということです。高等教育における職業教育というものの意味が大分違ってきているということ。

 今例えば「OJT」だとか、あるいは「インターン制」ということで業界との交流をしなければいけないみたいな話が我々の学校の中でもあるんですが、そういう「OJT」や「インターン制」が教育カリキュラム全体の中に位置づく意味は、学校教育が〈知識〉や〈理論〉のレベルでしか物事を教えていなくて、もっと"実践"や"現場"を知らなければいけないというようなスタンスで語られることが多い。

 しかし、それは実は間違っているというのが私たちの認識です。

 そうではなくて、先ほどの私の言葉の続きで言いますと、むしろ"現場"だとか、"実務"だとかというものがかなり知的になり、知性化されてきて、マニュアル化されて、現場が透明なものになって、むしろ現場自体の教育機能がかなり増しつつある。組織の中でも、今、自分が何をやっているのかとか、上の人間がどういうことを考えているのかとか、今この会社全体がどういう仕事をしているのかということが見えやすくなってきて、つまり会社組織自体が知的になりつつある。それはコンピュータによるネットワークだとか、グループウエアだとか、そういったことが企業組織の中にどんどん入り込んできているということと同じ動きだと思うんですね。「社員研修」は何も不況で縮小しつつあるだけではなく、会社の組織システム自体がグループウエア(ネットワーク)によって教育的な機能を持ち始めているということです。仕事をするということと教育する(啓発する)ということとが不可分な状態になりつつあるのです。

 それはどういうことかというと、教育の分野にもどんどんコンピューターメディアは入り込んで、知的になる分、実践的になる。つまり〈知る〉ということが〈できる〉ということとイコールになるような状況が生まれつつあるということであって、むしろ「OJT」や「インターン制」が普及しつつあるということは、教育が理論的なまま(実務に無知なまま)であったということではなくて、教育自体も現場と同じような実践性を持ち得るような、そういうチャンスが拡大しつつある状況なんだというふうに我々は思っています。

 そういう意味で言いますと、教育現場というものとビジネスの現場、あるいは職場というものとがかなり近接し始めてきているということがあって、これが「生涯学習」といわれているものの基盤なのではないか、と私たちは思っています。

 学校がそのように実践的であるとすれば、職場は、したがってその分逆に知的になっているというのが、「生涯」教育の中身であるわけです。つまり社会全体が教育的になっているということです。文部省は、「生涯学習社会」といったわけです。

 職場自体がどんどん知的=透明になってきますと、会社全体のことが見えたり、だれがどこでどういった行動をしているのかということがどんどんどんどん見えてきますし、見えやすくなってきますから、自分のポジションと自分が全体の中で何をやるべきかということが見えてくるという点では、知識の総合性というものがかなり要求され始める。これはよく言われることですが、階層的なラインであったり、部門制的な分業というものの垣根がどんどん崩れてくる。そういったことが崩れる根拠というのは、従来であれば、会社に勤めて10年20年というふうに経験を積めば、ある種の専門的な知識や技術が身について、新入社員には負けないくらい知識や技術をもった「エキスパート」、あるいは「課長」や「部長」が生まれ、そういったある種の"熟練"的なポジションというのが存在したわけです。要するに従来の「専門性」とか「マネージャー」というのは、〈経験〉のあるなしを基本に形成されてきたわけです。ある場所に"長くいる"ということが"情報収集"の唯一の武器だったということです。

 ところが〈経験〉を積まないとわからないようなこと、できないことというのが、コンピューターメディアに媒介されたグループウエアだとか、あるいはデータベースのパソコン解放(ネットワーク解放)によって解消しつつある。課長や部長の10年や20年の〈経験〉の重さというものが「情報の共有」の中で一気に軽くなってくる。もともと部門制や階層制は、"経験の重さ"によってできていた体制であって、それらは「情報の共有」 ― 私の言葉で言えば、〈知識〉の実践性 ― が全面化し始めると直ちに流動化する。その都度、知識を更新しなくてはならないような状況が生まれてくる。というより、もともと更新されないような知識(や情報)は知識ではないと言えます。〈経験〉という敷居、つまり部門的な差別や階層的な差別が、知識の本性である更新性を妨げてきたといえます。

 コンピューター(パソコン)というものはそういった意味では会社の階層、あるいは横並びの部門、ある種のスペシャリズムみたいなものの境界を取り払っていく非常に民主的な機械でありまして、それはただ単に専門家と門外漢、部長と新入社員の垣根だけではなく、子供と大人の境界、あるいは男性と女性、会社と家庭などの垣根も同時に取っ払っていく。要するにそれらの境界、垣根はすべて〈経験〉的な差異であったわけです。

 こういった社会の、経験主義を越えていく傾向が、「リカレント」学習ということの基盤、歴史的な基盤になってきているんだというふうに私たちは考えたわけです。つまり、コンピュータメディアに媒介された、新しい知識主義が社会の流動性を全面化し始めると、学習の「生涯」化は必然的なものになってくる。「学校」教育の後は、「"経験"を積みなさい」と言うだけではすまなくなってくるわけです。

 私たちが考えたのは、こういった教育の「生涯」化を加速させるパソコンによるコンピュータ解放そのものをカリキュラムの中心に据えるということでした。

2) 生涯学習カリキュラムのあり方について

 まず、私たちがカリキュラムをつくるときに一番最初に考えたことは、「資格」「免許」カリキュラムをメインカリキュラムとして持たないことでした。「資格」だとか「免許」というのは、私たちが言う意味での知的な軽さといいますか、あるいはスピードに対応できない。今の社会のあり方が先に言ったような意味で知的に軽くなって、日ごとに仕事の性質が変わりつつある状況の中で、資格の内容を教育プログラムとして持つということは、そういった動向に反する動きだということをまず思ったこと。もう一つは、資格講座に依存しますと、これは専門学校の最大の問題だと思いますが、従来、専門学校は資格を取るところだというふうに、いい意味でか悪い意味でかわかりませんが、社会的にそういう仕方で認知されている部分が多かったわけですが、これは教務機能が必ず衰退していく。資格のカリキュラムというのは、(他人が作った)教科書や教材がすでにできあがっていて、何を学べば、あるいはどこまで学べば受かるかということがわかっているわけですから、社会人や、あるいは18歳で入ってくる学生に対して、一体どんな教育をすべきなのかという根本問題を自立的に考える契機を失ってしまいます。いわば、学校の〈頭脳〉とも言える部分を、資格・免許講座体制は衰退させて行くわけです。

 そうやって衰退していきますと、学校間の格差、特徴も無くなってくる。つまり教育内容は受かるか受からないかの、極端に言えば、予備校風ではないにしても、"合格率"だけが問題になってきますから、特徴のある学校運営だとか、特徴のある学校カリキュラムというものがでてくる要素が非常に少なくなってきます。そういったことになってきますと、一体何を自分たちの学校の目玉として売り出していくかという部分がなくなってきて、校舎がきれいだとか、駅から近いだとかといったようなことだけにしか残らないような状況になってくる。

 私どもの学校で、一番大きな世帯は自動車整備系と建築系ですから、私ども自体が今考えている部分では、やはりカリキュラムをつくる能力について抱えている課題がかなりほかの学校と比べて多い。それは、整備士の免許だとか、あるいは建築2級の免許だとかといったようなこととかかわって、なかなか個性的なプログラムを打ち出せない状況が生じている。たとえば、まだ学内では学務事務と教務との区別さえつかない人がまだたくさんいる。

 そういった状況というのは、多分多かれ少なかれ専門学校が抱えている問題だと思います。そのためにも、私たちが考えたのは、まず「資格」カリキュラムを外すということでした。「資格・免許」需要は、安定的なマーケットではある(かもしれない)けれども、そういったものに依存することなく、今社会人が本当に必要としているカリキュラムを自力でつくり上げるような体制をとっていかなければいけないんじゃないかというふうに思ったわけです。

 2点目は、〈コース制〉のカリキュラムを持たないということ。これは通常のパソコンスクール等の比較で考えていただければいいんですが、社会人教育になりますと、例えば「ワード初級コース」だとか、「エクセル中級コース」だとか、そういったものがいっぱいあるんですが、そういった「コース制」というのも知的な時代のスピードに対応できない。一つは社会人が、5日間とか6日間とか、1週間でも何でもいいんですが、そういった日程を学校側が作った日程どおり来てくれる保証はどこにもない。毎日忙しいですし、いつ何が起こるかわからない。コース制であれば、例えば1日目、2日目、3日目とまあ3日目ぐらいまではちゃんと出たんだけれども、4日目に突然の会議が入って来れなくて、5回目、6回目を参加するのがもういやになってしまう(というかわからなくなる)というようなことは幾らでもあるわけで、リカレントプログラムでコース制を形成しながら社会人の人たちに勉強していただくというのはかなりきついということです。

 それと、さらにコース制であれば、例えば「ワード初級」を10人で募集した場合、その10人の人たちが「初級」とはいいながら必ずしも同じ理解力を持っているとは限らない。また、同じ目的を持って「ワード」を使おうと思っているとも限らない。そういったばらつき ― ある意味では、偏差値格差以上のばらつき ― をコース制であればずっと抱えながら、1週間、あるいは2週間教えなくてはいけない。これは受講者にも大変きついことでありますし、教えている教員の負担もかなりのものになる。学生を相手にするのと社会人を相手にするのとでは、ただ単に偏差値が違うというだけではなくて、独特のばらつきを意識しなくてはいけない。そういう点でコース制というのは、「生涯」学習にとってふさわしくないカリキュラムのあり方だというふうに思っています。

 さらに、社会人が何か今現場で学びたいものがあるときに、1週間も学んでいるぐらいであれば、どこか隣の人に聞いた方がいいとか、電話をかけて聞いた方がいいよとか、などと幾らでもコース制の問題があるわけで、ワープロを学ぶのに1週間も時間をかけていれば、もうやらなければいけないことはとっくに過ぎているということが出てきます。

 さらには、「ワード」を学ぶといっても、何もワードのすべてを学ぶわけではない。すべてを学ぶというのなら何日あっても足らない。けれども実際に知りたいことは、「ワード」の機能全体からいえば、ほんの小さな部分です。コース制では難しすぎる(多すぎる)ことか易しすぎる(少なすぎる)ことを学ぶ、言い換えれば、自分に必要のないことまでを学ぶという問題も含まれています。学習のスピードの速さだけではなく、何を学ばなければいけないかという学習課題も日毎更新されているということです。その点でもコース制は非常に不適切なカリキュラムの形態であろうというふうに思っています。

 あと3点目ですが、我々のシステムは、基本的にはワードで幾らお金をいただくだとか、エクセルで幾らお金をいただくだとか、あるいはJAVAのプログラミングで幾らお金をいただくというふうに、内容主題別にお金をいただくシステムを採ってません。定額制(月謝制)のシステムが基本システムになっていまして、一月4万円、一年でも25万円をお支払いいただければ、毎日来ていただいて結構だと、そういうシステムになっていますので、ワードを受けようが、JAVAを受けようが、ホームページ作成を受けようが、一月4万円で済むと。あるいは一年毎日来ても25万円で済むだとかという形にしています。一日5講座から10講座、毎日開講しておりますし、一ヶ月で160講座を開講していますので、多種多様な講座を好きなように、広くも深くも受講することができる。オフィス系(Word、Excel、Access、PowerPoint)はもちろんのこと、CG・DTP・3D、ネットワーク(NT、UNIX、イントラ・エクストラネット)、ホームページ作成系・プログラミング言語系など、それぞれの初級から上級まで現在のパソコンカリキュラムのほとんどを網羅しています。

 すべてのコンピュータがネットワーク=インターネットでつながれつつあることを考えると「ワード」だけやれてもしようがないわけですね。「エクセル」をやれただけでもしようがない。「ホームページ」をやるのであれば、アクセスのデータベース機能を持ったようなホームページをつくっていくことも必要になる。知的な社会の知的な課題というのは、総合性ということがすごく大きい。〈経験〉は〈総合性〉という課題に敵対するところがありますが、〈情報〉や〈知識〉は絶えず全体的な認識を志向します。全体を認識しながら自分の仕事をするということは大変重要な課題で、一つのアプリケーション、一つの機能に縛られたコース制はその意味でも問題が多い。さらにそのうえ、一つのワードで3万円、CG・3Dで20万円、JAVAで10万円、ホームページで10万円などと、〈コース〉単位でお金を使っていたらいくらお金があっても足りない。内容的な境界と経済的な境界がコース制の問題を形成しており、それが真に必要とされるトータルでフレキシブルな学習を阻んでいたのです。

 以上3点が我々がカリキュラムをつくるところで留意したことであります。

 今お手元にカラーのカリキュラムパンフがお配りしてありますが、ちょっと宣伝みたいになって恐縮ですが、現在、大体4カ月から6ヶ月おきにカリキュラムを更新しておりますが、全体で303講座ありますが、これはこの講座のどれを受けても、平日、毎日来ていただいて4万2千円、土日も含めて毎日来ていただいて4万8千円というカリキュラムを組んでおります。一日大体平日で7講座から8講座、土曜日で5講座ぐらい、日曜日で5、6講座のものを毎日開催しております。これを月謝制で、バイキングメニューのようにして自由に講座を選択していただいて自分自身の受講カレンダーをつくっていただくという形になります。

 それで、先ほどのコース制のカリキュラムを持たないという意味ですが、1講座1講座1日で完結いたしますので、その都度、受講の目的ははっきりしている。初級、中級、上級というカリキュラムにも頼らない仕方にしていますので、例えばメインのパンフレットを見ていただきますとおわかりになると思いますが、「テキスト作成講座」のところにワープロ初級、中級、上級とございますが、これもそれぞれが1日で終わります。特に意識したのは、その後の講座の構成なんですが、私どもは、例えばWordの文字入力だけを勉強する人は、文字入力をもっと効率的にやりたいという人は、「文字入力」という講座があったり、「罫線」だけをつくる講座があったり、ワードで「差込印刷」だけをする講座というものを持っています。これが初級や中級や上級と同じ位置づけの中で展開していますので、社会人が今自分はどういったスキルを身につけたらいいかというときに、その講座にだけ出ていただければ、目的と受講内容とが一致する仕方で勉強をしていただくことができる。それはエクセルやホームページやアクセスを含めて、すべての講座でそういった一つ一つの講座についてスキルを明確化していきますので、或る程度の学習のスピードや、あるいは学習課題のスピードに対応できるようなカリキュラム構成になっていると思っております。

 しかもそういったことの中で、毎日多種多様な講座が並んでおりますので、並んでいる限りの講座を幾ら受講しても金額は同じですので、例えばワードの初級を受けた人が、とんでもないことなんですが、最近JAVAというのをよく耳にするから、JAVA講座を受けてやれといって受ける方もかなりたくさんおられます。講師の人間は大変苦労してますが、しかし私どもとしてはそれは考えていたことで、私どもの学校に来ないと一生JAVAの勉強なんてしない、そういった人たちが十分JAVAの学習を楽しんで、そこでまたある種の関心の花が咲いて、JAVAのどんどん上級まで突き進んでいくというようなことが結構起こってきます。そういった新しい知的な交換の形態、ある種軽やかな形態、言ってみれば、ホームページのハイパーリンクでどんどんどんどん自分の関心の赴くままに自分の知識を自分の理解過程に従って拡大していくのと同じような仕方で、私どものカリキュラムがそういった知的なスキルの自由な拡大の場所になっているというふうに現状で思っています。

 先ほど司会の方が言われましたが、9月以降、今、月間でのべ2,000名の社会人の方々が私どものこのカリキュラムを利用されています。多いときで一日100名を超えるような状態で、今、とりあえず我々の3点、資格カリキュラムを持たない、コース制のカリキュラムを持たない、月謝制でどんな授業でも受けられる状態にしていくという状態がとりあえずは認められつつあるのかなというふうに思っております。 ちょっと早口で舌足らずだったと思いますが、時間が来ましたので、この辺で終わらせていただきます。(了)


ページトップ | 表紙へ