表紙 | 芦田の毎日

携帯電話、ザウルス、レッツノートミニ

― モバイル・コンピューティングについて ―


● 携帯電話について

(芦田宏直)

携帯電話を持つようになって、もう十年くらいたちます。最初につけたのは車載専用のものでした。

子供を保育園に迎えに行く途中、ひどい渋滞(環8外回りの祝日前日の夕方、上野毛あたり)に巻き込まれて動きがとれなくなり、車を降りて連絡すべきか、それとも抜け道をぬいながら少しでも早く駆けつけた方がよいのか、のパニック状態に陥りました。公立の保育園は、こういうときに大変つめたい、というのを知っていましたから、まさにパニックでした。

携帯電話があれば、と切実に思ったのが、そのときです。

それ以来、携帯電話は私の生活の中で欠かせないものとなりましたが(別に遅刻の常習者ではありませんが)、社会的にも予想を超えるスピードで携帯電話は普及しました。

携帯電話の普及の最初の動機はわたしにとっても“便利さ”だったと思いますが、今日的な意味はもっと別のものになってきているように思います。一番大きな変化は、ビジネス利用でではなくて、家庭内での変化(=家族関係の変化)です。

思いつくままに列挙してみましょう。

  1. 家庭のメンバーがそれぞれ携帯電話をもつことによって、交友関係・知人関係が家庭の中の一台の電話を通さずに、つまり〈居間〉を通さずにパーソナル化し、家庭のすべての成員が、独立して居住しているような環境が生じている。
  2. つまり、誰が誰とつきあっているのかわからないような環境が生じている。
  3. その結果、特に若い人たちの交友関係やライフスタイルに変化が生じ始めている。
  4. まず、昼夜をとわず“連絡”を取り合う関係。
  5. 次に、あまり関係のない(関係の薄い)人と“連絡”を取り合ったり、たいして重要な話題でもないのに話し合ったりする関係。
  6. 上記2関係は、これまで、お父さんやお母さんが電話を“取り次ぐ”ため、電話をかけるのに、或る種の敷居のようなものがあり、それが電話をかけるのに常識的な時間帯、かける相手の選別性、かける話題の選別性を形成していたが、携帯電話で、取り次ぎの必要性がなくなりはじめた途端、そのような規制がゆるんでしまったと言える。
  7. 学校や帰り道の時間や空間もそれに伴って変質しはじめている。
  8. もはや学校やその帰り道という概念は彼ら・彼女らにはない。
  9. 携帯電話によっていつでもどこでも(たとえ授業時間中であっても)連絡が取れるからである。深夜に家庭で連絡が取れるということと授業時間中に連絡が取れるということとはほとんど同義である。
  10. 学校内で連絡が自由にとれることによって、彼ら・彼女らの帰り道にはすでに・毎日多くのスケジュールが多層に入り込んでおり、学校内の時間割と匹敵する、あるいはそれ以上の時間割ができあがっている。一日(“放課後”)に会う友達も1種類とは限らない。買い物をする友達、カラオケの友達、食事をする友達など何種類もの友達の“引き出し”ができあがっている。彼ら・彼女たち(特に彼女たち)が分厚い手帳を持ち始めた時期とポケベルや携帯電話が普及しはじめた時期とは重なっていおり、もはや学校・帰り道・家庭という空間・時間は解体しているのである。
  11. 携帯電話による情報化は、そのことによってむしろ、パーソナル(パーソン:person)とは何かという問いを突きつけることになる。携帯電話のベルの音は家庭の自室に戻っても(戻ってこそ)鳴り続ける。従来は一人でいられる時間、あるいは内省する時間が、いつでもどこでも“パーソナルに”連絡が取れることによって、むしろ縮小しはじめているのである。
  12. 自由自在に時間や空間の制約を超えて存在しうることが近代的な主体(=〈個人〉)の条件であったということからすれば、情報化は近代化そのものであるということ。この点では情報化は、ポスターがいうような意味での〈ポストモダン〉ではありえないこと。にもかかわらず、今日的な情報化が暴露しつつあるのは、そうやってひたすら個人を空間や時間の制約から解放すると、個人自体が存在する時間や空間が消失し始めるということである。
  13. いったい、〈個人〉とは何か、〈私〉とは何か、〈自由〉とは何か。従来神聖不可侵な扱いを受けてきた近代的な諸概念が、情報化によって実際、現実化(=世俗化)しはじめると、案外それらが脆弱なものであったことがわかる。
  14. この項続く。

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● 続・携帯電話について

(芦田宏直)

ちなみに、私は現在ムーバ(206)Dタイプにしています。Dタイプの中でも「プラチナホワイト」というのがあって、これは単に色が違うだけではなく、ほかのDタイプ(シルバー、グレー、ブルー)とデザインも幾分(かなり)違っています。【宮川・註:最近また買い換えました。1998/11/30】

私がプラチナホワイトの似合う年齢ではないのは明らかですが、他のDタイプは、ボタンやデザインの一部の品質感が悪くて買う気にはなれませんでした。色を犠牲にしても「プラチナホワイト」Dタイプのデザインに惚れ込んだ訳です。一言で言えば「プラチナホワイト」DタイプはもはやDタイプではない“特注”のDなわけです(最近、プラチナホワイトは、なかなか手に入らないと聞いて、ほくそ笑んでいます)。

Dタイプの一般論として言えば、一番の特徴は待ち受け時間の長さが、206シリーズ中最大だということです(320時間もちます)。私が最初に買ったDタイプは8時間しかもちませんでしたから隔世の感があります。

私は、最近は、松下のPタイプか三菱のDタイプを往ったり来たりしていますが、今回の松下Pは、真ん中の“柿の種”を大きくしたようなボタンがどうしても好きになれず、久しぶりに三菱Dに戻ってきました。

三菱Dの退化しているところは、2代前のDはフリップの先端にマイクがついていたのに、最近のものにはそれがないということです。これでは何のためのフリップタイプか意味がないと思います。また、松下Pと比べた場合、「マナーモード」にしたときのマイクの感度アップ機能がついていないのも気になります。

とは言え、なんども言いますが「プラチナD」は、今回の206シリーズ中の最高傑作だと思います。もう少し軽かったら、とは思いますが。

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● ザウルスについて

(芦田宏直)

ザウルスは、出た当時から使いはじめて、これでザウルスポケットで多分6代目(6台目?)。電子手帳については、もともと私はカシオ派だったのですが、ザウルスで初めてペンによるグラフィック入力(走り書きのようなもの)ができるようになって、カシオの電子手帳から卒業しました。

電子手帳には、(紙の手帳と比べて)長短がありましたが、走り書きがそのままできるようになって、紙の手帳のほとんどすべてに対して優位性をもつようになったと思います。

実は、このザウルスポケットの前に持っていたのが、パワーザウルスです。出て当初すぐに買って3,4ヶ月使いましたが、“これはザウルスではない”と思って、すぐにイヤになりました。

パワーザウルスは以下の点で駄目です。

  1. 重い
  2. 大きい
  3. メモリーが少ない(特にカメラをつけるとメモリーはないも同然)
  4. 一ヶ月表示のときに、スケジュールが内容で表示されない(件数表示だけ)
  5. 電池の持ちが悪い
  6. 金額が「手帳」にしては高すぎる

6)の問題から言うと、私は初めてパワーザウルスで本体にカバーをつけるようになりました。あまりにも高価なために大事にしてしまう心理的傾向が生じてしまいます。これでは"気軽に使える手帳"という感覚が無くなります。

たしかにシャープはザウルス以後、「電子手帳」という言い方をしなくなりますが、パソコンよりも遙かに日常的なザウルスを、手軽に使える(つまり乱暴に使える)金額で作ることは至上命題です。

私は、ザウルスにカバーをつけた(つけてしまった)段階で、自分が情けないことをしてしまったということと、これは「ザウルスではない」という負の感慨をもってしまいました。ちょうど東芝のリブレットを、それが2割り増しの大きさになるような大きなケースに入れて持ち歩いているサラリーマンの悲惨さと同じものがあります。

1)2)3)5)の問題は、まだ「手帳」でマルチメディアなど活用できる技術(技術段階で)もないのに、それを商品化するシャープの見識のなさを疑うということです。たしかに相対的には優れた技術の結晶でしょうが、そのことと商品として成立するというのはまた別の問題だと思います。

ザウルスポケットに、私は、従って、買い換えましたが、これがまたよくない。というのも、これはパワーザウルスを単に白黒にしただけのものだったからです(「データベース」機能とやらをつけてはいますが)。

私が「単に」と言っているのは、機能がほとんど変わらないと言うことだけではありません。一番許せないのは、液晶表示が最悪だからです。PI-8000までに見られた従来の液晶表示のほうがずっと見やすく(文字表示の字体そのものがザウルスポケットはよくない)、白黒ザウルスとしては、ザウルスポケットよりも、従来型の方がずっと優れていると思います。PI-8000(パワーザウルスを買うまではPI-8000を私は使っていました)にメモリーが10メガ以上あれば、私は絶対そちらを買いなおしていたと思います。

多分、PI-8000は、ザウルスの歴史の中では名機中の名機ではないでしょうか(今や奇形児扱いされていますが)。【cf. 歴代ザウルス比較表 (「フルパワー全開 ZAURUS のページ」より) 1998/11/30】

こんなにザウルスについて勝手なことを言って、シャープエレクトロニクス販売(株)の針生さん、ごめんなさい。

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● ザウルスカラーポケットについて

(芦田宏直)

ザウルスMI-310の問題点速報。

1)------------------
  とにもかくにも、ユーザーインターフェイスが歴代最悪のものになった。
  まず、スイッチオンとともに開く「基本インデックス」。「スケジュール」と「アドレス」と「メール」しかない。他のものをみようとすれば、「オリジナルインデックス」を一度開いて選択しなければならない(2ステップ必要)。これまでなら、サイドの縦バーにインデックスがあったがこれがすべてなくなっているので、「スケジュール」と「アドレス」と「メール」以外はかならず2ステップ必要になり、これがとても不自由。そもそもインデックスを「基本」と「オリジナル」に分けること自体、無意味。人によって使い方はまちまちだから、「基本インデックス」自体を「オリジナル」化できないような「オリジナル」化は本当の意味での「オリジナル化」ではない。

2)------------------
  1)と絡んで、たとえば「スケジュール」を開いているときにアドレスを開こうとすると、「基本インデックス」か「オリジナルインデックス」にまた一度戻って、「アドレス」を選択しなければならない。これも2ステップ必要。今回のMI−310は、どの画面からでも、どこへも行けなくなっている。袋小路のようなインターフェイス。話にならない。この点ではかつてのPI-8000がもっとも優れており、それより、もっと優れていたのは初代機(PI-2000かPI-3000かどちらか忘れましたが、とにかく一番最初にでたもの)である。どちらもすべての画面から1ステップで飛び込めました。この点ではザウルスは歴代、堕落し続けています。初心に戻っていただきたい。

3)------------------
  「基本インデックス」画面について。
  それでなくても画面が小さいのに、なぜ、あんなに「スケジュール」「アドレス」「メール」に大きなスペースをとるのか、意味不明。目の悪い人でも意識したのだろうか。それであれば、ワイド液晶にすればいい。  小さい画面にさらに大きな「見る」「書く」ボタンの選択。これは今回の(あるいは歴代ザウルスの)インターフェイス中一番の変更点だろう。各インデックスの左右に「見る」「書く」が割り振られており、たとえば、スケジュールを書き込むのであれば「書く」ボタンを選択。見るだけだったら「見る」ボタンを選択になっている。ところがこれは改悪。「見る」といっても「スケジュール」と「アドレス」とでは、「見る」意味が違う。アドレスの方は、「見る」というより、"探す"要素が強く、むしろ検索要素が強い。「見る」で「アドレス」に入っても、結局 "探す" のである。ところが今回のMI−310は、検索がアドレス画面で1操作でできない。操作メニューボタンを押してからになる。また2ステップ操作。

  これまでのザウルスユーザーで、「見る」と「書く」にそれほど敵対的な操作を意識していた人はいないはずだから、各画面で「新規作成」のボタンがあれば充分なはず。むしろ「見る」だったけ、「書く」だったけと思わず自問する場合の方が多い。「基本インデックス」は「スケジュール」ボタンを押すのではなくて、「見る」か「書く」を排除選択的に押さなくてはならない。つまりなんとなく「スケジュール」を開く、という選択ならざる選択ができなくなっているのである。これは人間的なインターフェイスではない。明らかに後退である。

  さらに「基本インデックス」にはMOREソフトのインデックスが大きな場所をとっており、ここがオリジナル化できない(MOREソフト同士のオリジナル化はできても)。しかもこのMOREソフトはかなりのメモリーを喰っており、ザウルスのパワーユーザーなら、たぶんほとんどの場合、全部消去してしまうはず。そうすると「基本インデックス」のメニューは死んだも同然の状態になります。なんための「基本」なのかわからないのが「基本インデックス」なのです。

4)------------------
  とりあえず、今回は速報(どんパソコン雑誌よりも早いレポート)なので、ここまでにしておきますが、私個人の考えでは、こんな中途半端な "新製品" を出すくらいなら、単純に白黒ザウルスポケットをそのままカラー液晶にし、メモリーを20メガくらいにする方がよほどいい製品に仕上がったいたはず。結局、ザウルスユーザーは、再び次の製品に期待せざるをえなくなる。こんなことをしていると、どこかでユーザーは離反していくような気がします。

  全体にシャープの「お客様相談室」はどんな「相談」にのっているのやら。たぶん、ザウルスを作っている人たちやその周辺にいる人たちは、ザウルスを本当の意味で駆使していない(日常的に使っていない)人たちなのではないか。少しも私たち初代機から使い続けてきている「リピータ」の声が反映していない。残念に思います。

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● レッツノートミニについて

(芦田宏直)

Let's note minilink新製品 1998/11/30)を使っているのは、電池の持ちが当時(97年11月)一番よかったからです。VAIO(ソニー)もBIBLO NC(富士通)【→BIBLO MC 1998/11/30】も、電池の持ちという点では、レッツノートにかないませんでした。

後は、軽さです。1.0キログラムのミニは魅力でした。1キロを超えてからの100グラムは無視することのできない重さです。VAIOの1.3キロ、ビブロの1.1キロは毎日持ち歩くには重い。多分1キロが限界です。

持ち歩くということの意味は、たとえその日全く使わなかったとしても持ち歩くということです。必要かどうかを考えながら、バックに入れるのを躊躇するのではモバイルパソコンとは言えません。そもそもいつ何に使うのかわからないからこそ持ち歩くのですから。財布を人が“持ち歩く”というのはそういうことでしょう。

私は、ミニの以前には、リブレットを使っていました(リブレット30のハードディスクを1.6ギガに拡張して使用していました)。この大きさがまた魅力的で、まさにモバイルの象徴的な商品だったと思います。重さの点ではリブレットの700グラムとミニの1キロという差をあまり感じたことはありません(多分1キロ以下であれば、その差はあまりないと考えて良さそうです)。

ミニがリブレットにかなわないのが液晶モニタを開いたときの“背丈”です。ミニの大きさ(A5サイズ)だと、電車や会議室でモニタを開いたときには、やはり気になる高さ(人目をひく高さ)になってしまいます。気軽にどこでも、という感じには後一歩という感じです。(リブレットの時には、電車の中でも開いていましたが、ミニになって以来その回数は激減しました)。

ただし、リブレットの新製品(リブレット100)は、こういったユーザーの日常を無視して大きくなってしまいました。思想的に(コンセプトとして)中途半端なリブレット100を買うくらいなら、ミニの方がいいと思っています(買い換えの出費が先送りされて内心ほっとしています)。

私がもしリブレットに買い換えるとすれば(先祖帰り?)、既存のリブレット70の流れで、横サイズ(できれば縦サイズも)ギリギリのワイド液晶(100のような中途半端なワイドではなくて)を搭載したときだと思います(かつ、4ギガ以上のハードディスクが少なくとも換装できるようなスペースのあるものが理想)。

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● 私のモバイル論(?)

さて、私のモバイル論があるとしたら、ノートパソコンにこそ、データを集約しろということです(野口悠紀夫の言葉を借りるなら「ポケット一つの原則」を死守しろということ)。

家のデスクトップを使うときも職場でデスクトップを使うときも、そのつどネットワークでレッツノートミニに繋いで使っており、すべてミニのハードディスクからファイルを立ち上げて使っています。こうすると、どんなときにもミニに全ファイルが集約され(ファイルの更新も集約され、つまり、超完全同期状態になり)、“いつでも・どこでも”のモバイル状態ができあがります。

この場合、デスクトップのハードディスクは、アプリケーションとノートパソコン(ミニ)のバックアップ領域にのみ使うということになります(Windows95には、「ブリーフケース」というファイル更新の同期をとる機能がありますが、まだなお十分ではありません)。

通信環境がまだ十分に整わない現状では、こうした幾分貧乏性的な“集約機”を持たない限りは“いつでも・どこでも”状態は出現しない、というのが私の認識です。

もちろんこの状態を作るには、CPUの速さも必要かもしれませんが、それより何より、ノート側のハードディスクが、大容量であることが必須の条件です。

私のノートミニは、元々が1.6ギガバイトですが、買って早々4ギガバイトに換装しています。4ギガあればなんとか“いつでも・どこでも”状態になります。「モバイルだから」、「ノートだから」、ハードディスク容量は小さくてもよい、というのはよく聞きますが、これはウソです。家でも、会社でも利用しないのが、モバイルの意味なのですから、逆に家でも会社でも(あるいはその中間地帯でも)耐え得るようなハードディスクの容量が必要になるということです。

特に広辞苑平凡社の百科事典OED [link]、現代用語の基礎知識、あるいはアトラスなどの地図ソフトなど、モバイルであるからこそ“持ち歩きたい”メディアはいくらでもあります(今私のレッツノートミニには、OED、データパル、プロアトラス97、マイペディア、リーダース英和+プラス辞書、クラウン独和、現代用語の基礎知識、広辞苑、知恵蔵などが入っています (cf. 「電子ブックのひろば」))。

こうなると1メディアで100メガ〜600メガぐらいは必要としますから、何ギガあってもありすぎるということはないのです(最近は仮想CD-ROMドライブを作ってくれるソフト[cf. CD革命Virtual]がでてきて便利になりました)。

家や会社であれば、書物としてのそれらのメディアを机の上に持つことはできますが、モバイルだとそうはいきません。むしろ、持ち歩くためにこそ、つまりノートパソコンのハードディスクこそ、大容量であるべきなのです。

ついでに言っておくとCD-ROMほどやっかいなメディアはありません。通常だと一つ一つの内容(メディア)ごとにドライブに入れ替えて使わなくてはならない。一枚のCD-ROMですべてがまかなえるわけではないのですから、入れ替えの手間を考えると、いくら豊富なデータベースがあっても使う気にならない。

私は家では12連装のドライブ [cf. Nakamichi CD-ROMチェンジャー] を使っていましたが、これであっても機械が入れ替えるか、人間が入れ替えるかの違いだけで、やはり手間がかかっていることに変わりはない。その上読み込み速度が遅い。全文検索でもやろうものなら、使いものにならない。

一方でハードディスクが格段に安くなり、6ギガ、8ギガなどの大容量タイプが6万円以下で買えるようになってきました [cf. link1, 2, 3, ]。CD-ROMの内容を丸ごと(あるいは圧縮して)ハードディスクに収めることができるようになってきました。しかも入れ替えなしに、かつ高速で。これでやっと大容量の辞書・事典類が使いやすい環境ができたということです。

辞書・事典類のデータ、いわゆるストックデータとは別に、私がレッツノートミニでやっていることは、ニフティサーブのデータベース利用(フローデータの利用)です。インターネットが盛んになりつつありますが、フローデータベースとして、ニフティにはまだまだ活用できるデータベースがたくさんあります。

一つは、新聞のクリッピングサービスです。10語までの検索語を自由に指定して(「インターネット」、「パソコン」、「生涯学習」、「高等教育」、「大学教育」、「大学改革」、「職業教育」、「情報化」などなどを今、私は指定しています)、現在5誌程度からクリッピングサービスを受けています。足かけ2年間毎日の新聞データからのデータベースが私のノートパソコンに入っていることになります。

また、持っているレッツノートミニのフォーラム(会議室)のデータも毎日取り込んでいます(ハードディスクの4ギガ換装の試みも、このフォーラムで仕入れた情報でした)。いつも買った商品、あるいは買う予定の商品については、かならず当該商品のフォーラム(会議室)に入るようにしています。下手なジャーナリズムの雑誌を買って読むよりは(ほとんどがメーカーの紐のついたちょうちん記事ですから話になりません)、素直で真剣味のある情報がここにはいくらでも転がっています。かつての「暮らしの手帳」の商品テストとは比較にならない、新しいメディアのあり方がこういった商品フォーラムなのです。

ついでに言えば、クリッピングサービスやフォーラムデータの累積(=パーソナルデータベース化)ができない限り、ザウルスに通信機能が付くことの意味は(私には)ほとんどないような気がします。

むしろ逆にこういったストック・フローデータ双方をモバイル環境で実現することこそ(あるいは正確に言えば、モバイルに一元的に集約すること)、パソコン活用の鍵だと私は思っています。私は、モバイルはパソコンの1分野だとは思っていません。むしろモバイルこそパソコン活用の鍵をにぎるものなのです(パソコンの本質がモバイルだと言ってもいい)。

WindowsCEがなぜ駄目かというと、結局のところそれが「モバイルだからこの程度でいい」という中途半端な高のくくり方をしている、つまりパソコン本質論からはずれたところで作られているからです。結局のところ「パソコンとは何か?」の思想がないのです。たぶん「CE」はカーオーディオや家電製品の中に埋もれた機械装置の“部品”のような使われ方の中で生き残っていくのでしょう(生き残るとしたら)。むろんそんなもの“パソコン”ではありません。

とりあえず、私のレッツノートミニ活用状況です。また思いついたことがあれば、ここに書きます。残りのハードディスク容量、あと900メガバイト。

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