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94 1/20(月)
21:00:29
 新補習論 ― なぜ補習はいけないのか  メール転送 芦田宏直  4019 

 
 カリキュラム(の時間割)の外で、“できなかった”学生を残して、補助指導を行うのを通常、「補習(あるいは補講)」と呼ぶ。塾などではおなじみのものだし、最近では大学でさえやり始めるところもある。

 しかしながら、補習の全面廃止という方針は、われわれの「教育改革」(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)の根本方針の一つだった。これまで私(たち)が発表してきた「補習」についての資料は、代表的なものとして二つある。

1)「Aプロジェクト私的議事録」(1998/10/04 01:23)from 「学内ノーツ伝言板98」。この伝言板の記事が結果的には「履修改革」の機縁になった。すでに“最古の”資料から「補習禁止」は最重要課題だったということがわかる。

2)東京都専修学校各種学校協会 平成13年度紀要論文「高等教育における授業改革とは何か ― 教育における目標と評価」(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)の第一章第4節の記述。この論文は私の私的なものというよりは、履修改革論議の集大成的な議事録のようなものである。

 以下その当該箇所を便宜のため掲載します

1)「Aプロジェクト私的議事録」(1998/10/04 01:23)from 「学内ノーツ伝言板98」より

(承前)

●学園の衰退局面(1)

 我が学園では、授業中、学生が寝ていても誰も何も言わない。むろん、そこで起こしたり、注意することが問題なのではない。何も言わないということの問題は、寝ていても卒業できる体制が根本のところで露呈しているということである。むろん「寝ていても誰も何も言わない」というのは、単に比喩である。出席率が悪い、授業がざわついている、授業内容とは別のことをやっているなどいくらでも同じような事態があげられる。にもかかわらず、卒業(単位履修)できるとはどういうことか。

 理由は、簡単である。我が学園には「補習」「補講」、あるいは「課題提出」という便利な仕掛けがあって、どんなに試験の点数が悪くても、あるいはどんなに出席率が悪くても、あるいはどんなに授業態度が悪くても、そういった仕掛けによって“救われる”ようになっているのである。

 ここで“どんなに…悪くても”という言い方には注釈が必要だ。程度のひどい学生にはそれに応じた「補習」「補講」、あるいは「課題提出」を課して同等の“教育”を施しているのだから、結局のところ点数も出席率も授業態度もカバーしている、というのがさらに“寝ている学生”を放置する第二の仕掛けになっている。つまり点数の悪い学生には点数をきちんと「取らせている」し、出席の悪い学生にも「出席させている」ということだ。とんでもない学生にはとんでもない「補習」「補講」「課題提出」をさせてバランスをとるというものだ ― たとえば、出席率の悪いものには夏休み、あるいは卒業直前の春休み毎日でも学校に来させるといったようなバランス。

 “寝ていても卒業できる”のは、こういった履修システムの“二重帳簿”のような構造が背後で働いているからである。現場の言い分は“それなりの指導”をして履修させているということだ。

 もっといえば、学生が寝ていても放置している先生がいるのは、たとえ0点に近い点数をとっても(結局)卒業させる前提(正確に言わないと、また“現場”から反論されそうだから、言い直しておくがかの二重帳簿履修システムの中では、この0点の学生は〈知的な体罰〉を経て、70点とか68点とか「それなりの点数」になるようになっている)で授業をやっているからである。つまり、最初から教育する気などないのである。寝ていても放置している先生が点数をつけているのだから、点数をつけること(学生を評価すること)自体が放棄されているといってもよい。ことを荒立てないとすれば(自分の授業が杜撰なことを荒立てないとすれば)、「補習」「補講」「課題提出」によって卒業させるしかないのである。泥棒に家の留守を任せているようなものである。

 こういったことが一教員の一学生に対する関係にとどまっている場合は、まだいい。しかし授業中まともに勉強もしていない“あいつ”が、2年生として同席していたり、卒業したりしているのは誰の目にも明らかなことだから、当然のことながら、まじめに勉強したり、そこで100点を取ることの意味は軽薄なものとなりはじめる。最初から評価を放棄しているのだから、“その”先生の付ける100点や70点に意味などないのである。ましてや「補習」「補講」「課題提出」の内容や評価、つまり〈再〉試験の点数に意味など何もないのだ。信用度はルーブル通貨以下である。むろんこんな学校に誇りを持てという方がおかしいのである。

●学園の衰退局面(2)
 
 さて、本当の問題はここから先にある。「でもそうは言っても、この少子化の中で入学する学生の基礎学力は低下するばかり。 しかも“上”からは退学者を出すなと言われている。理想的なことばかり言っていられないのが現実だ」というふうに、かの二重帳簿型履修システムにも弁解ができるようになっている。ここで寝ている学生を放置する仕掛けがまたそれらしい装いで登場してくるわけだ。つまり、何も好んで卒業させているわけではないというように。

 この状況でいえば、少子化による学生数の減少現象は、学園改革のきっかけになるのではなくて、むしろ学園の悲惨な履修システムを延命させる口実になっているといえる。それでなくても少ない学生をさらに退学させてどうするの? いうふうに。つまりわが学園で「少子化」を口にする経営職は、誰一人学園改革(=教育改革)など本気で取り組む気はなく、「少子化」はむしろ教育改革に手を付けないための口実になっている。「少子化募集減で予算が縮小して思うように教育ができない」というふうに。つまり、この人たちは、「少子化」を逆の脅し(予算をくれないと教育改革に手を付けないぞという ― )に使っているだけなのである。

 そうやって、教育とは無縁の「卒業」空手形が発行され続けている。要するに教育とは無縁の「卒業」が跋扈しているのだ。言い換えれば、我が学園には学校組織としての基本的な教育インフラ(つまり履修評価システム)が存在していない。そうして、教育的な真摯さや誇りからはほど遠い学園環境、退廃した学園環境が進行していく。こんな学校に誰が入学するというのだろうか。(後にまだまだ続く)


2)東京都専修学校各種学校協会 平成13年度紀要論文(「高等教育における授業改革とは何か ― 教育における目標と評価」http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)より

(承前)

1−4)「補習(補講)」「追再試」は諸悪の根元
  
 履修評価システムを破壊する構造的要因は他にもある。

 先にも触れたように時間割が比較的密な専門学校や短大に多い問題だが、「補習(補講)」「追再試」「課題提出」といった履修判定のサブシステムが日常化しているということだ。

 これらは、履修判定試験で落第点を取った場合、再度試験の機会を与えて学生を救ったり、あるいは資格試験による官許的規制などで出席数(受講時間)が足らない学生に「時間補習」などで出席数を補うといった処置である。これらの処置の問題が、履修判定のダブルスタンダードを作ることになり、履修評価の厳密性が損なわれるということにあるのはもちろんのことだが、それよりももっと大きな問題が潜んでいる。落第点をとっても再試験(や課題提出)で何とかなる、出席しなくても「時間補習」で補えばいいという後退した意識が、本試験(評価)や個々のそのつどそのつどの授業時間に集中する気持ちを殺いでしまう。

 これは、学生だけの意識ではない。授業時間中、寝ている学生を注意しない。理解の遅い学生を置き去りにする。出席率の悪い学生に出席指導をしない。教員がそういった授業努力をしないのは、教員側にも、そういった学生の発見=「補習」「再試」、要するに授業外指導という図式が成り立ってしまうからである。

 評価のダブルスタンダードは、授業時間の教育を極めて平板なものにしてしまう。できない学生(授業に参加しない学生)がその授業から自ら離れていくだけではなく、教員もまたその学生を教育対象から外してしまう。両者とも“あとで”何とかなるというふうに思いこむことによって、授業時間の中での努力に集中しなくなるのだ。

 授業中寝てしまう、理解が遅い、出席しない。これらは、学生の素質でもあるが、一方では、教員の授業運営に問題があることの兆候でもある。むしろこういった兆候(を受け止めること)こそが、従来、授業改善の契機にもなっていた。教材開発などは、こういった、学生が授業を否定する傾向に教員が直接向かい合うことにこそ動機を持っていたわけである。

 ところが、補習や追再試は、授業改善に教員を向かわせない。そういった学生を補習・追再試があるために“授業外学生”と早々と見なしてしまうからである。評価の(公然、非公然な)ダブルスタンダードは、単に評価を曖昧にするだけではなく、教育活動の本道としての授業活動そのものを形骸化してしまうのである。

 しかもこれらのサブシステムは本来的には救助システムであるため、事実上、本試験の目標レベル(=履修目標)よりは下がってしまう傾向にある。先にも触れたとおり、科目再履修(落第生を出すこと)が、時間割の緊密さのために事実上留年になりやすく、留年が退学につながりやすい専門学校や短大では、「補習(補講)」「追再試」「課題提出」などは教務的というよりは、経営上の逃げ道になっている。目標達成できないままの卒業生を送り出してしまっているのである。というより、目標達成しないままでも卒業生とみなすためのシステムが「補習(補講)」「追再試」「課題提出」といったサブシステムだと言った方がよい。履修評価という課題は、むしろ公然と捨て去られていると言った方がよい。(以下まだまだ続く)

 この二つの代表的な資料でもわかるように(二つの資料には三年間の時間の経過があるが)、補習禁止の意味ははっきりしている。それは「落伍者」(不合格者、未受験者、長期欠席者、退学者)の輩出という学校にとって最も重要な失態に関して、補習システムはその原因究明を妨げているというものである。別の言い方もできる。補習を繰り返すたびに(知的体罰を繰り返すたびに)、本来の教育目標が一体何であったのかが忘れ去られていくということ。この種の補習は熱心になればなるほど個人的になっていく(教員個人と学生個人とが個人的に対峙していく)ということ。要するに補習を行うことは、教育に“目標と評価”があることからの逃走だったのである。

 落伍者が出ることの要素は、いろいろある。カリキュラム要素(科目の内容が難しすぎる、科目同士のつながりが明確でないなど)、教員要素(カリキュラムは問題ないが、教員の教え方や志気に問題がある)、教材要素(カリキュラムも教員も特に問題はないが、対応する教材が不足している場合。むろんこの要素はカリキュラム要素、教員要素にも深く重なってはいるが)、学生要素(家庭環境や性格的な問題、あるいは経済的な問題など)、他にも任意に上げればきりがない。

 しかし補習は、これらの要素特定という課題を見えなくしてしまう元凶だったのである。そこでまず要素特定を阻害しているものを次々と廃止、禁止していったのが、「補習」「追再試」などの廃止、禁止という事態だった。

 その成果は明白だった。成果は代表的なもので以下の5点。

 1)「シラバス」主義を超えた「コマシラバス」制が誕生し(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=26)、90分単位の教育目標が明示できるようになった。コマ単位(=授業単位)で“その”授業が「良い」か、「悪い」か判定できる基盤が作られた。
 
 2)カリキュラムリーダー制が誕生し、人材目標からする、科目相互の関係、科目目標(シラバス)の時間展開(コマシラバス)を管理する責任者が明確になった。
 
 3)授業シート(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm#A)と授業評価ポイントが公開的に整備され、かつ日常的な授業評価体制が準備されて、これまでもっとも曖昧だった教員評価、教材評価、授業法評価が可能になる体制が準備できた。
 
 4)授業カルテ体制(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm#A)が徐々に整備され、「落伍者」発生の教育的な契機がコマ単位で追跡できるようになってきた。
 
 5)学生授業アンケート制が誕生し、主観的(経験的)で局所的になりがちだった教育供給側の指導体制評価がより客観的、より網羅的な評価になる体制が準備できた。

    ※これらの詳細については、前掲の「東京都専修学校各種学校協会 平成13年度紀要論文」(「高等教育における授業改革とは何か ― 教育における目標と評価」http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)の全体を参照されたし。

 これまで見えづらかった教育上の危機(主には「落伍者」発生)がこれら5つの体制の整備によっては以前よりははるかに具体的に見えるようになってきた(たぶん、これは考えようによっては世界史的な快挙である。少なくとも一橋大学よりは100年先を行っているhttp://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=92)。

 これらの成果は、補習・追再試の廃止、禁止なしには決して考えられなかったものであるが、しかし一方では「補習」を行わないことの弊害も出てきた(と思われている)。

 その一つは(皮肉なことに)「落伍者」を放置するということである。特にはカルテ不合格者や履修判定試験不合格者を放置するということである。「時間外(時間割外)指導は禁止されているのだから」、できない学生を認識していても過剰な禁欲主義が働いて“補習”指導が「できなくなっている」。これは、今回の教育改革(履修改革)の悲喜劇とでも言うものだ。「落伍者」の発生経緯(原因特定)がかつてないほど明確になりつつあるのに、それに黙って(指をくわえて)通り過ぎざるを得ない。発生経緯がわかる端緒としての補習禁止が、発生経緯がわかる意味をむしろ空虚なものにしているという悲喜劇。

 しかしこういった問題の解決に、理論的な解決はない。重要なことは、そのコマ(その時間)で、コマ目標を消化できていない学生がいた場合、どこで、その取りこぼしを吸収するのかを日常的にはっきりさせることである。「落伍者」が発生するということはコマ進行の正常な進行が妨げられているということなのだから、もっとも厳密に言えば次コマに入り込む前の対策が必要になる。そうでなければ、次コマのコマ計画(授業シート類をも含めた)も水泡に帰すからである。

 こういった、コマに始まり、コマに収斂する指導(時間外指導)を「補習」とは言わない。

 なぜ、「補習」とは言わないのか。理由ははっきりしている。コマを遵守するための指導であるからである。これをわれわれは従来から(授業カルテの指導に準じて)「不正解処置」と呼んできた。

 もちろんコマは2コマ、あるいは4コマ連続する場合もあるし、(自動車系のように)4コマ連続の授業が翌日も続くという場合もあるだろう。前者の場合には、次週の開始コマまでに何をするのか、後者の場合には、翌日の開始コマまでに何をするのかが「不正解処置」の諸課題となる。

 たぶんこの「不正解処置」には、様々なバリエーションがあると思われる。たとえば単にできなかった学生を放課後残して指導し、現象的には従来の補習の様相を呈するものもあるだろうし、それとは別に誰も残さずに、次コマ(次週、翌日)の「今日の授業」シートや「授業カルテ」を全面的に書き直して、弱点箇所を“改修”する準備をする場合もあるだろう(そもそも前もって全コマの授業シートを作り込んでおいて、それに一切の変更も加えないような授業シートなどありえない)。しかしどんな現象であっても、コマシラバスを遵守するかぎりは「補習」ではない。「補習」が「補習」であるのは、コマ課題を無視するからこそなのである。

 このような、従来の補習と区別された「不正解処置」を、今後〈コマ補習〉と呼ぶことにしよう。従来の補習はコマ目標をなし崩し的に空虚なものとしてきたが、〈コマ補習〉はコマ目標を達成するための補習であって、カルテ不合格者がいた場合などには、避けることのできないものとも言える。むしろ必須なものだ。

 もっとも理想的な「コマ補習」の現象形態は、期の当初に〈コマ補習〉が発生して、最終試験前になればなるほどそれが減少するというものだ。履修判定試験前(試験直前)の時間外学習は、学生の自発的な学習であればある意味で好ましいものだが、教員主導型としてはありえない。あってはいけない。次コマ(次週のコマ、翌日のコマ)がないにも関わらず、〈コマ補習〉が存在することはあり得ないことだからである。科長やカリキュラムリーダーは、こういった期の進行に応じた〈コマ補習〉の発生の仕方に神経を集中するべきなのである。

 授業が生きものであるという意味では、「コマ補習」は避けられないものと言える。しかしその発生の仕方を追えば、それが禁止されている(従来の)補習かそうでないかははっきりする。それをはっきりさせる指標は、整備され続けてきた現在の改革ツールの中にいくらでも存在している。特に5期(1月14日)から開始されつつある授業評価(「新補習論」に倣って「新授業評価」と呼んでおこう)は、この〈コマ補習〉の必要を日常的に特定するものであるとも言える。新授業評価において科長のコマ評価が「○(まる)である」ということは、「補習」はおろか「コマ補習」すら必要ではないと科長が判断している(=コマ教育目標が全面的に達成された)ということなのだから、その場合のすべての時間外指導は、(禁止されている)補習行為であることを意味する。つまり新授業評価は、〈コマ補習〉の必要性の具体的な特定のためにあると言ってもよい。

 今回の新授業評価は、ひとえにコマシラバスに定位した授業評価を行うということである。

 学生が寝ていない、私語をしていない、教員が時間通りに授業を開始したり、時間通りに授業を終えた、シートを使った授業概観をしている、授業カルテも良い点数だ ― こういった“評価”が、これまでの授業評価だった。しかしだからといって、その授業がコマシラバスに示された教育目標を達成しているとは限らない。それらは必要条件ではあっても、十分条件ではない。“状況証拠”をいくら加算していっても、その授業が「良い」授業だったという“証拠”にはならない。結局、目標そのものからする「評価」がない授業評価は何処まで行っても形式的なもの、あるいは人間的なもの(努力主義 or 相対主義)にとどまり、授業改善が進まなかった。理由は、「コマシラバス」を忘れた授業評価を行ってきたからである。そして「コマシラバス」を忘れていたからこそ補習論が形式化してしまい、履修管理が身動きできないまま停滞していたのである。

 新授業評価は「コマシラバス」に則って行われる限り、〈コマ補習〉体制と一体のものである。コマ目標から外れる「落伍者」を早期に発見し、〈コマ補習〉を特定化し、コマ授業を絶えず正規化していく。これが、今回の授業評価のかつてない局面である。補習は3年前も今も絶対にやってはいけない。しかし授業評価の存在する〈コマ補習〉は、避けられないものとも言える。それはコマ目標を遵守するためにこそ避けられない補習なのである。新授業評価なしに、〈コマ補習〉はありえない。また多分、〈コマ補習〉の具体的な指示や報告のない授業評価もあり得ないだろう。この関係が、新補習論のすべてだ。(了)


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