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92 | 1/7(火) 23:44:35 |
仕事始めの言葉 ― 一橋大学を超えて | 芦田宏直 | 0 | 4589 |
今日(1月7日)は、わが学園(http://www.tera-house.ac.jp/index.html)の仕事始めだった。毎年4校(中野校、国立校、世田谷校、品川校)の全職員がテラハウス地階のテラホールに集まって「賀詞交歓会」とでも呼ぶべきものが始まる。内容は理事長挨拶、各校校長挨拶にすぎませんが。以下は私の今年の挨拶です(と言っても校長挨拶としては私は新米、初めての挨拶になりますが)。ただし言いたいことの3割くらいが言えてなかった(原稿は元々ありませんから)ので幾分か補っています。 ●新年挨拶 1月5日の朝日新聞トップ記事は、なんと一橋大学の教官「通知表」の公開についてのものだった(http://www.asahi.com/national/feature/K2003010500043.html)。教官「通知表」とは、学生による授業評価(授業評価アンケート)のことで、それを科目毎、教官の実名付きで公表するという。「学生による授業評価は各大学で広まっているが、ここまで徹底した『通知票』を公開するのは珍しい」(朝日新聞)。 これを読んで私が思ったことは二つ。ひとつは名門一橋大学でさえ、授業評価をやり出したということ。ひとつは名門一橋大学さえ、授業評価は学生アンケートに頼るのかということだった。 授業評価と学生アンケートは根本的に同じものではない。前者の方が後者よりもはるかに広い概念だ。たとえば、共通質問の第4項「講義要項の記述は履修選択や授業を受ける上で役立ったかどうか」、同じく第9項「講義要項や授業で示した成績評価の方法は適切かつ十分だと思ったかどうか」などは(どちらもきわめて重要な質問であるが)、現在の高等教育では、学生に充分な判断ができる資料が存在していない。 講義要項(シラバス)ごときで(講義“要項”程度の内容で)、半期で15コマ前後(90分×15回)、あるいは通年で30コマ前後(90分×30回)ある授業の全体をどうやって評価しろというのだろうか。できたとしても曖昧なものでしかない。その曖昧さの原因は学生の判断が未熟だということではなくて、判断の材料が講義概要しかないということにある。つまり評価の公的な基準が「講義要項」しかないのだから、最後はお互いの印象批評にとどまるだろうということだ。ちょうど、CPUの処理速度しか書かれていないパンフレットを観てパソコンを買った消費者のようなものだ。「速い」と期待して買った消費者(学生側)が「裏切られた」と思った場合、供給した側(大学側)は、「君、パソコンの処理速度はCPUだけでは決まらないのだよ」と言うに決まっている。 重要なことは、授業を供給する側が評価できる体制を取ることだ。評価をまず供給する側の評価として提案することだ。第4項「講義要項の記述は履修選択や授業を受ける上で役立ったかどうか」、第9項「講義要項や授業で示した成績評価の方法は適切かつ十分だと思ったかどうか」の問いは、まず大学側がどう思っているのか(大学側が何処までの検証の中で ― たとえば、科目を超えたカリキュラムの全体の整合性の中で「講義要項」を公開しているのか)を開示すべきであって、そのことなしに学生にアンケートをとっても意味は全くない。「君、パソコンの処理速度はCPUだけでは決まらないのだよ」というに決まっている。現場(当事者である教授と学生)に評価を委ねれば、評価は現場的に処理されるに決まっている。他人(学生)の意見を聞くことが意味を持つのは、自分(教授)が何をやりたいのかが内外に(当事者以外にも)明らかになっているときにだけなのである。 大学が自分たちのやりたいことは何なのかについての“情報公開”を「講義要項」程度に留めておいて、つまり自分たちのリーダーシップのなさを棚に上げておいて、学生アンケートに授業評価を頼るというのは、本末転倒なのである。それは高等教育のカリキュラムを学生に聞きながら作るというのとほとんど同じくらいに陳腐な事態だ。 われわれは、「講義要項」(=シラバス)を超えて、各授業毎(90分毎)のシラバス(コマシラバス)を作る体制を敷いてきた。この90分で ― 「科目」の内容(=講義要項)のみならずこの90分で教員は何を教えたいのかを学生に明示する体制を敷いてきたのである。もし学生が授業評価を行うとすれば、少なくとも授業供給側が、ミニマムの授業資料として「コマシラバス」を用意しなければ評価などできない。 そして昨秋の学期でわれわれは、各科を管理する科長を中心にコマ目標に基づいた授業評価を毎日、コマ単位に、徹底して行った。その一部が私の「校長の仕事(1〜3)」(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=71、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=72、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=75)だった。この授業では、コマ目標(コマシラバス)を達成することはできない、コマ目標からすれば3割以上の学生が落伍している、こういった落伍者を来週の授業(次コマ)までにどうすればよいのかなどなどの授業評価を具体的な指摘とともに徹底して行ってきた。こういった供給側の評価や評価基準がないところでは、学生による評価は結局学生批判に終わるだけなのである。「君、パソコンの処理速度はCPUだけでは決まらないのだよ」というように。だから一橋大学の授業評価が成功することはありえない。われわれの教育改革=「コマシラバス」体制(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=84)は一橋大学の100年先を行(い)っている。 重要なことは、学生の「満足度」が高いからいい授業だということではない。供給側がまず自分たちの授業体制について満足しているのかどうなのかが問われなければならない。何を持って「満足」とするのかをまず学校側が認識していなければ何も始まらない。「現状ではいけないと思っているからこそ学生アンケートを公開するのだ」と言っても、その授業を裁くのは結局の所、供給側(学校側)なのであって、供給側の自己評価がαにしてΩだという認識なしに、学生アンケートが効果的に機能することはありえない。 そして、評価の究極は自己評価と他者評価とが一致することである。自分が優位だと思っているところを他者も優位だと思ってくれることである。自己評価は時として独りよがりに直結するが、だからと言って「結果がすべてだ」ということではない。短期的には、自己評価なしに他者からの支持を得ること(いい“数字”が出たり、“売上”が上がること)はいくらでもある。 しかし非力であっても(数字が出なくても)、何が非力なのかがわかっている限りは必ず前進する。60点しか取れなくても後40点が何によるものなのかがわかっていれば、それは価値のある60点だ。こういった60点は必ず60点以下にはならない。次回は65点、次々回は70点というふうに必ず前進する(これが組織で言う「年次計画」というものだ)。一番まずいのは、全部、括弧の中(回答欄)は埋めたが(100点か90点台は確実だと思っていたが)、結果は80点だったという勝ち方だ。私はそういった80点を認めるくらいなら、前者の60点を価値あるものとしたい。大切なことは自己評価がいつも“外部”と一致するような努力を重ねることにある。リーダーシップ(あるいは主体性)のない評価には、前進がない。リーダーシップのない100点や90点はいつでも50点をとる危険性がある。しかも肝心なときに(絶対に赤点を取ってはいけないときに)50点を取るときがある。 今年度、わが学園は昨年よりはるかによい学生募集結果が出ようとしている。しかし、誰が、どこまで、この募集成果を「こういった努力の結果です」と説明できるのだろうか。説明できる者がいるにしても、せいぜい「学生募集担当者(=営業)が頑張ったから」という戦術上の理由でしかない。 教育的な自己評価はそこには皆無だ。それでいいと言えるのだろうか。教育的な前進と募集の好転とがまだなお一致していない。これでは募集の好転は長続きしない。授業評価を学生アンケート(“学生満足度”)に委ねるのと同じくらいに、この募集評価は結果論にとどまっている。教育改革の前進は、たとえわずかな前進ではあっても、「だから学生の支持を得た」と誰にでもわかる説明ができることだ。「情報公開」とは、外部評価が内部評価に直結するような(あるいは何が直結していないのかがわかるような)組織体制を築くことにある ― 教官「通知表」の“公開”(一橋大学)など、「情報公開」でも何でもない。それが可能になれば、たとえわずかな前進であっても絶対に後退しない一歩を築くことができる。それがわれわれの組織が“前進すること”、社会的な信任を得ることの根元的な意味だ。今年こそ、手がかりのある努力をたとえ小さくても、たとえひとつでも達成してほしい。 これをもって私の年初の挨拶に代えたいと思います。 |
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