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84 12/24(火)
21:39:31
 なぜ教育改革は進まないのか ― 授業評価の停滞  メール転送 芦田宏直  4249 

 
 この12月は寂しいだけではなく(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=76)、なぜか、その寂しさを打ち砕くように忙しい。この三連休も、既に過ぎている(12月20日厳守)締め切りの論文が書けず、結局今日の14:00までかかってしまった。書けないときは書けない。3日間の休みで書けたのは20行くらい。それなら外へ遊びに行った方が良かった(三日間一歩も外へ出ずじまい)。おまけに月曜日の天皇誕生日の夕方に『高校教師』(真田広之・桜井幸子主演)http://www.ponycanyon.co.jp/video/koukoukyoushi/kk_kyoushi.htmlの再放送をやっていて(イヤな予感がした)、あどけない桜井幸子(http://www.nigun-niiba.co.jp/sakurai/)のセーラー服姿を見るとなぜか切ない。そこへ森田童子(http://www.gogorocket.jp/doji/h/m-cd1.html)の『僕たちの失敗』(http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?pdid=20114704)が流れてくるともっと切ない。論文を書いている場合ではない。今日は朝8:00前からテラハウスの校長室に籠もりきりで書いていた(といっても何人もの来客があったが、鍵をかけておきたいくらいだった)。この論文は、財団法人東京都私立学校教育振興会の「学校研究助成金の交付対象とした研究」になっています。


●なぜ教育改革は進まないのか ― 授業評価の停滞

1)教育評価は授業評価でなければならない
 高等教育(ポスト中等教育としての専門学校も含む)の教育改革は何度も叫ばれてきた。しかし一向に進まない。90年以降「少子化」が現実的に進行しても、結局閉鎖、統廃合される学校が生まれてきているだけであって教育改革が加速しているわけではない。勝ち残った学校が教育改革に先んじた学校というわけでもない。営業力がしっかりしていたり、立地条件がよかったりという場合も多い。

 なぜ、教育改革は進まなかったのか?

 それは教育評価が不在であったからだ。教育目標は何度も更新されながら存在してはいたが、評価不在の教育目標が空手形のように発行され続けていた。あるいは目先をごまかすように新学部、新科が設置され続けてきた。

 ところで、教育評価とは何か?

 これまで教育評価については、カリキュラム評価、教員評価、教材・設備評価、学生評価(学生による評価)、募集評価などが議論されてきた。しかしどれもこれも教育改革を前進させるものにはならなかった。

 カリキュラム評価は実行評価が伴わないというのが最大の難点だった。大学では「講義概要」「シラバス」の名の下にカリキュラム評価を可能にする情報が公開されている。特に90年代初頭以降、教育改革の名の下に「シラバス」詳細化は一つのブームにもなり、年々シラバスは分厚くなっていった。分厚くなって(詳細化して)いくことが、教育改革の進行度を表現するかのように分厚くなっていった。

 しかし本当にシラバスの詳細化は教育改革を前進させたのだろうか。「シラバス」は講義計画にすぎない。計画だからその通りいかないこともある。むしろその通りに行かないことの方が多いくらいだ。その通りには行かないだろうと思いながらシラバスを書いている教員も多い。しかしもともと計画というものはそういうものだ、というわけにもいかない。重要なことはシラバスの実行度を評価する体制がないということだ。だから一般論として「なかなかシラバス通りにはいかない」と言われることがあっても、どの講座が計画通り進んで、どの講座がうまくいかなかったのか、その原因は何かなどという具体的なことになるとほとんどの場合、何もわからないことになる。その意味でシラバスの詳細化は舞台評価(上演評価)のない脚本評価にとどまっている。

 脚本評価にしても、特に大学のシラバスは専門性の名を借りた講座の自立主義がなおはびこっており講座相互の関連性が薄い。大学4年間と言っても階層的に積み上がっていく講座は少なく(はっきりしているのは、語学くらいか)、諸講座全体(諸科目全体)を統括するマネージャーがいるわけでもない。そういうことができないのが、大学の専門性というものだと思っている教員もまだ多い。したがって実行評価をさしおいたとしても、一つのストーリーとしての脚本(要するにカリキュラム)すら存在していないというのが、「シラバス」改革の実体なのである。

 同じように教員評価も教員の何を評価するのかが定まっていなければ、単なる個人評価に終わってしまう。一体、教員は何をしたときに評価されるべき存在なのかがはっきりしていない教員評価は単なる差別評価にすぎない。

 学生アンケートに代表される学生評価も学生に何を評価させるのか、あるいは学生が学生として評価できるものは何なのかが定まっていなければ、ほとんど意味はない。それもあって、たいがいの「学生アンケート」は総務・学務系で活用が停滞し、肝心の教員へのフィードバックがない。なぜ、総務・学務室の中でアンケートが停滞するのか。それは、教員へ差し戻しても学生(による)評価をあれこれと逆論評しながら教員が受け付けないからである。結局のところ、学生評価は教員による学生批評に終わる。

 教材・教育設備評価も、シラバスやその実行計画と結びついていないと意味がない。教材や設備があるからといって、それが使われているとは限らない。使われているからと言ってもたまにしか使われていないのであれば意味がない。毎日使われていからと言っても、それが人材目標の高度化にどう寄与しているのかが説明できなければ、意味がない。学校案内のパンフレットを飾る程度のものでしかない、という場合も多い。

 募集による評価は、単年度でははかることができない。広報や募集活動の正否が大きく影響する場合があるからである。教育の中身が学生募集の増減に影響を与えるというのは疑い得ない事実だが、それには時間幅を考慮しなければならない。特に教育の質の低さや改革の停滞の影響はすぐにでも募集結果に現れるが、教育改革を前進させる場合の影響はなかなか伝わらない。教育改革は基本的には地味なものだからである。

 結局のところ従来のどんな教育評価も教育目標が空虚であるのと同じくらいにあてにならないものだった。むしろだからこそ教育目標も空転し続けたのである。

 原因は簡単なことだ。こういったすべての評価がそこに帰趨する〈授業評価〉がいつも忘れ去られていたからである。カリキュラムも教員も教材・設備も募集もすべては〈授業〉のためにある。有形、無形を問わず、授業評価から始まり授業評価に終わるのが教育評価の生命線だ。教室の中で何が起こっているのかを知らないまま、カリキュラム・教員・教材・募集などについて語ることは許されはしない。教室授業こそが学校が負託されている教育性の在処なのである。専門教育としてのポスト中等教育では、特にその点は際だっている。

 ところがこの授業評価こそが長い間不問にされてきた。ほとんどの学校では、カリキュラム、教員、教材が揃った段階で(そして募集が好調であれば)すべてが終わったかのような気になっているが、まだ教育は始まりすらしていない。

 人材育成の鍵は日々の授業の質にある。学生はカリキュラムを直接勉強するわけではないし、教員を人間的な目標にするわけでもない。まして教材は教育目標に対する単なる手段にすぎない。それらはすべて日々の授業の中においてこそ評価されるべきであり、学校が専門教育として社会的な負託を負っているのは教室の中の授業活動という教育活動なのである。

 従来この授業活動の評価は、試験というもはや後がない指標でしかはかることができなかった。学校に資料として存在しうるのは、「シラバス」のような科目目標とその履修判定のための「試験」、つまり単なる始め(シラバス)と単なる終わり(試験)だけであり、教育の実体をなす授業情報(中間としての授業情報)は皆無といってよい状況だった。

 授業情報がないとどうなるのか。一番の問題は落伍者問題である。ここで言う「落伍者」とは、試験で不合格を出した者、未受験者、長期欠席者を指す。「落伍者」は退学者に直結している。そして退学者は、その学校に入った学生による学校に対する最大の否定評価だ。退学者が多い、というのはどんなコメントや弁解も通用しない学校の恥辱なのである。

 遅刻が多い→欠席が多い→試験不合格→未受験→長期欠席→退学というのが学生による教育評価の行動現象である。退学率が低い=良い学校とは必ずしも言えないが、退学率が悪いにもかかわらず良い学校というのはあり得ない。

 授業情報がないとこの「落伍者」評価ができない。誰の、どんな原因による「落伍者」なのか、試験評価だけではわからない。試験自体が悪いのかもしれない。授業が良くないのかもしれない。カリキュラムに原因があったのかもしれない。そういった考えられ得る諸々の原因について何も特定できないまま期が終了する。

 落伍者問題は実は「問題」ですらなく、お手上げ状態なのである。結果が出ないとわからない状態になっている。どの科目、どの先生が何人の落伍者を出すのかは「やってみないとわからない」(「期が終わってみないとわからない」「試験結果次第」)ということだ。

 こういった場合、「落伍者」問題のほとんどは学生個人の理由にすりかわっている。「学生が勉強しなかったのが悪い」というふうに。仮にそれが(百歩譲って)正しかったとしよう。しかしそれがそうであるという資料は学校のどこにもない。あるのは、抽象的な「シラバス」と「試験」点数だけである。試験(の点数)がある場合はまだましで、課題提出やレポート提出など(大学や専門学校の試験によくある)評価が定めにくいものになった場合は、落伍者要因の特定はもっと難しいものになる。

 一般に“まじめに”授業を務めている教員ほど不合格者を出す場合が多く、いいかげんな授業ほど不合格者が少ない。不合格者を含む落伍者を大量に出して大騒ぎされたくないからである。特に“外部”の非常勤講師などが、常識的な水準の試験をして大量の落伍者を出したりした場合、“内部”の学校側は「非常勤講師だからしようがない」などといって、わけのわからない落伍者“処理”をやる場合も多い。外部の常識と学校の常識とが異なっているのである。

 しかしどちらの場合にも問題の所在ははっきりしている。評価が見えなくなっているということだ。専門性が高い場合にはそれも当然のことかもしれない。しかし教員は何に基づいてそう判断するのだろうか。試験がそのすべてだというのは、この場合答えにはならない。どんな授業をやったのか、という〈中間〉情報なしにはその答えは意味をなさないからである。

 授業評価とは、シラバス(始まり)と履修判定試験(終わり)との〈中間〉評価の意味を持つ。否定的にいえば、「落伍者」を出す場合の学校責任を問うもの。それが授業評価である。よくありがちな、授業評価を学生アンケート(=学生満足度)と同じものと見なすのは従って錯誤である。

 授業評価とは、学校の内外に示された教育目標が実現されうる状況にあるのか、ないのか、ないとすればそれにどう答えるのかについての“進捗管理”とでも言えるものである。教育を主宰する学校のリーダーシップの有無が、この授業評価体制の有無なのである。したがって授業評価を学生アンケートに委ねるというのは、教育目標を学生に聞くのと同じくらいに無責任な学校体制だと言える。落伍者評価がそうであったように、学生がその学校の教育に不満であっても良い教育をしているというのはあり得ない話だが、学生が満足しているから良い教育をしているというのは必ずしも真ではない。重要なことは、学生に裁かれる前に自らを裁く指標や体制を築くということである。それがなければ、いつまでたっても学生アンケートは総務(学務)室の倉庫にうずたかく埋もれるままになってしまう。

2)授業評価停滞の要因

 なぜ、ここまで授業評価はすすまなかったのか。理由はいくつかある。

 @専門性評価が難しいこと

 これは言うまでもない。高校までの授業であれば、ほとんどの人間が多かれ少なかれ経験しており一般的な感想くらいは口出しできるだろうが、大学や専門学校の諸科目について何か意見を言うというのは至難の業だ。また同僚の教員も専門的であればあるほど隣接分野の授業については何も言わなくなる。むしろ専門内部の微細な専攻上の差異の方が亀裂は深いくらいだ。まして教員同士は決して授業評価をやりたがらない。

 A出口の目標が受験目標のある中等教育に比べて曖昧なこと

 大学の出口は、就職がほとんど。しかし企業の大学評価は、(解消しつつあるとは言え今でもなお)ほとんどが“基礎学力”評価であったり、“人間性”評価である場合が多い。学校教育の連続性がそこで断たれてしまうのが大学や専門学校の出口特性であり、質の違った評価が存在するため ― 〈人材〉とは何かというのは企業自身にとっても難しい課題であることに変わりはない ― 、教育評価の客観性を維持するのが難しい。そのためもあって、在学中の教育目標設定や成果指標を見いだしづらい状況にある。結局、企業による大学評価も大学が何を教育したかよりは大学までの勉強のレベルを評価しているにすぎない(あるいは学生の個人評価をしているにすぎない)。というのも大学の空手形のような「優」の数よりは、大学受験の試験問題の方が(どちらかを選べというのなら)はるかに信頼のおける評価だからである。学歴社会とは高校卒業時の入学試験歴社会なのである。

 B補習(補講)や追再試などによって、科目の履修評価がダブルスタンダードになっていること

 補習や追再試が大学や専門学校では横行している。特に時間割のタイトな専門学校では常習化している。厳密な試験を遂行して不合格者を出しても専門学校の場合、簡単には不合格を公表できない。代替履修ができないくらいに時間割がタイトだからである。ほとんどすべての科目が必修のため一科目でも落とすと留年の危険性が出てくる。2年という(大学に比べて)短い年限の卒業が魅力の専門学校にとって、留年はほとんど退学を意味する。したがって落とすことはできない。知的な体罰のような補習や追・再試を繰り返すことになる。履修評価が結果的にダブルスタンダードに(曖昧に)なってしまう。このようなところでは、授業評価はほとんど意味がない。成果評価としての履修評価(試験)をずるずると後退させ続けているからである。

 C特に大学では選択科目の拡大(代替履修の拡大)が個々の科目評価の緊張性を殺いでいること

 大学では選択科目が多い。時間割も比較的空きがある。そのため科目単位(必修、選択を問わず)で落伍者を出しても、学生にとっては再履修のチャンスが与えられており大きな問題になりづらい。またそのことと関連して4年間のカリキュラムも厳密に階層的・体系的な科目配置になっておらず、前後の科目成果に神経質になる必要がない。そのため科目単位の「落伍者」問題に敏感になる必要がないのである。裏返せば、大学は4年間でないとできない高度な専門教育をやっているわけではないということである。

 D実習の多い学校では課題提出というオブジェクト評価(提出物評価)が成果評価を見えないものにしている

 実習の多い専門学校では履修判定を課題物評価(たとえば建築系であれば図面提出など)で代えるところが多い。課題物を見るだけでは、どんな授業をやれば、こんな課題物になるのかの道筋が見いだしづらい。課題物が同じものを作らせる場合はまだ見えやすいが、学生が個々に別のものを作り始めたときには同じ物差しではかることはほとんど不可能になる。実際の行動(作業)をさせて試験を行う実習試験でも、意味もわからずに「できる」ことで合格になる場合も多い。わかっていても「できない」場合も困るが、わからずに「できる」場合も評価が難しい。課題物評価も実習試験も最後は(ひどい場合には)「熱心さを評価して合格」などということが起こったりしている。これでは授業評価はできない。

 E基礎学力低下に対する諸対策がむしろ科目評価の契機を殺ぐものばかりであること
 
 a)担任制の強化
入学生の基礎学力低下(主には少子化による間口の広がり現象)による学校の指導力低下を科目指導、授業指導を超えた指導体制を取ることによってカバーしようとする動きがある。その主要な動きの一つが、(大学や専門学校に於ける)担任制の新設、あるいは強化である。担任主義の問題は、学生を家庭環境、社会環境の中で生活をする個人として見てしまうことにある。こうなると「落伍者」問題は、家庭環境、社会環境の中に見いだされるばかりになる。しかし担任(あるいは学校)は、家庭を変えることもできないし、社会を変えることもできない。そうすると指導は学生を(個人的に)変えることばかりに集中し始める。「生活態度を改めなさい」などというように。あとは、学生は、担任の、誰に公認されたわけでもない人生論や哲学の犠牲になっていく。担任主義は、担任が何の専門も持たない個人として学生に対峙せざるを得ないというところに最大の問題がある。だから学生も個人的にしか扱われない。個人的である限り、科目指導には繋がらない。肝心の“授業がつまらない”“授業がわからない”という声は担任主義的には、学生素因論のようなものに解消されていく。結局、教育不振の原因をすべて学生の所為にしてしまう。

b)総合教育(創造性、自主性、教養教育)の強化
総合教育や創造性・自主性教育も科目専門性教育が衰退してきている現象に対して、非科目的な授業を拡大することを意味している。これらに共通する傾向は、専門教育の授業評価を(学校が)断念するところから始まっている。しかし社会的な負託をもっとも負っている専門教育に対する評価ができないままの学校や教員が、誰も負託を受けたこともない「総合」「創造」「自主」教育(そもそもこんな教育に専門家はいない)をどう評価するというのだろうか。教員か学生の個人的な満足に終わるのがせいぜいのところである。専門の授業評価(教育的な進捗管理)ができないところにもっと評価が曖昧な非科目授業が拡大していくとどうなるか。答えは目に見えている。

 教室の授業風景に中に、こういった6つのノイズが入り込んでいる。授業が純粋な形で評価できなくなっている。教育改革に繋がる授業評価を開始するためには、まずこの種のノイズをすべて除去することから始めねばならない。


3)東京工科専門学校の試み
 
3−1)コマシラバスの存在
 
 さて、授業評価はどうすれば可能になるのだろうか。

 まず第一に、授業単位(時限単位、コマ単位)のシラバスを用意することだ ― 以後、この時限単位、コマ単位のシラバスを「コマシラバス」と呼ぶことにする 。シラバスを科目シラバスとすれば、このシラバスは授業シラバスとも言えるものだ。〈科目〉とは名称にすぎない。それはシラバスが計画にすぎないという意味で名称にすぎない。対照的に〈授業〉とは科目の実行形態である。〈科目〉は目に見えないが〈授業〉は教室に行けば見える。授業評価とは科目の実行性を評価するということである。その実行形態の科目シラバスを「コマシラバス」と言う。

 従来の授業評価が、教員の個人的、人格的評価、あるいは授業法評価にとどまっていたのは、この「コマシラバス」が存在していなかったからである。教育目標からする評価になっていなかったため評価が個人的になる。授業法評価も具体的な教育目標と切り離されれば単なる成功事例の押しつけにしかならない。教員は、教材や授業法が成功するのはそれらを自分が開発したときにだけだというのを一番よく知っている。

 そしてこの場合、教育目標は「シラバス」では足りない。この目の前に見える教室風景、授業風景を評価するためには「シラバス」は遠すぎる。一回、一回の授業からすれば「コマシラバス」自体が教育目標になる。この「コマシラバス」の継起的な累積が「シラバス」目標を実現するというふうに「シラバス」と「コマシラバス」は関係している。

 授業評価は、このコマシラバスの教育目標を担当教員が目指している限りにおいて可能になる。その授業が良い授業か悪い授業なのかは、教育目標(シラバス+コマシラバス)の達成が可能かどうかという観点からのみ可能になる。それ以外の授業評価は“内政干渉”にすぎない。その意味で「コマシラバス」は授業評価の“客観性”の鍵を握っている。「コマシラバス」こそがこれまで密室化していた教室の内外を架橋するのである。

3−2)授業計画
 
 私の勤務する東京工科専門学校では、99年から1)授業計画 2)実行計画という二つの側面から授業評価体制を築いてきた。

 1)の〈授業計画〉とは、シラバス、コマシラバス、履修判定試験の三つを指す。これらは、(少なくとも)期の授業が始まる前にすべて準備されていなければならない。東京工科専門学校の場合、自動車系(自動車整備科、自動車科、エンジンメンテナンス科)、建築系(建築科、建築工学科)、デザイン系(インテリア科、3Dデザイン科、WEBデザイン科、ゲームCG科)、情報系(情報処理科、インターネットプログラミング科、ゲームプログラミング科)、バイオ系(バイオテクノロジー科、環境テクノロジー科)と大きく分けて5つの系と14の科があるが、この系単位で、「カリキュラムリーダー」というポジション(科長の上位職)を設置し、授業計画(シラバス作成、コマシラバス作成、履修判定試験作成)は、この「カリキュラムリーダー」の管理下で作ることにした。

 ポスト中等教育における専門教育の停滞の要因の一つは、厳密な意味での〈カリキュラム〉が存在していないということだ。この場合、〈カリキュラム〉とは、科目間の関係(論理的、時間的先後関係)を編成したものを意味する。大学は4年間あっても科目間の緊密な連携がない。講座主義が各科目を孤立させてしまっている。4年間の専門教育とは言うが、まともなカリキュラムを組めば、実体は1年間くらいで済む教育を「それなりの」科目を配置してごまかしているにすぎない。科目の専門家はいても、カリキュラムの専門家(全体の人材目標を形成、管理する者)がいない。いないというより、“教授”の閉鎖的な専門性が同分野であってもカリキュラム的な融合(科目間融合)を拒んでいるのである。逆に“カリキュラムがある大学”というのは、むしろ専門家(研究者)のいない無名の(あるいは“三流”の)大学である場合が多い。カリキュラム主義は教育重視、講座主義は研究重視という風潮がまだまだ大学に残っている。

 だから、4年間という時間をフルに活用した専門教育の高度化がいつまでたっても進まない。“基礎学力”の低下など実は問題ではない。中途半端な研究主義と〈カリキュラム〉が存在しないことが教育力を殺いでいるのである。

 大学と比較的して〈カリキュラム〉が存在しているかのように見える専門学校もまた〈カリキュラム〉が存在していない。特に実習教育の多い専門学校では、〈カリキュラム〉は存在しない。実習という総合的な能力が要求される場面では、何をどんな順番で教えるべきかというカリキュラム問題と実物(オブジェクト)を扱うという総合的な技術・知識要求(順番や分析的な教育指標に抗う総合的な要求)との矛盾が露呈しがちで、1年生と2年生の実習教室を見回っても、一見しただけでは、どう上級クラスなのかわからないことも多い。実習学習は螺旋的でジグザグの試行錯誤を繰り返す、と良く言えば言えるが、悪く言えば、前へ進んでいるのか、後退しているのかわからない、教育の高度化や教育の目標化(と評価)になじまない要素を多く持っている学習の仕方だと言える。専門学校もまた2年間という時間をもてあましているのである。

 こういった専門教育の停滞を超え出ようとすれば、4年間、2年間全体の人材目標からする科目配置を考えるポジションが必要になってくる。それが〈カリキュラムリーダー〉である。

 〈カリキュラムリーダー〉の仕事は、学生の教育課程全体の統一的な人材目標を構想しなければならないる。その実現のために以下の4点の作業が必要になる。

 @諸科目を配置(狭義のカリキュラム作成)
 A諸科目の内容であるシラバスの作成・管理
 Bシラバスのコマ展開上の指針となるコマシラバスの作成・管理
 C科目目標(シラバス)の履修確認としての履修判定試験の作成・管理

 この4点全体が、学校に〈カリキュラム〉が存在するということの根本的な意味になる。

 Cの履修判定試験については、若干コメントが必要になる。従来(ほとんどの場合)、「試験」は授業の進行に応じて授業終了時に作られていた。これでは、授業が計画通り進まなかった場合も「それなり」の試験になってしまう。補習や追再試が授業の緊張感を殺いでいたように、授業進行の実際(実情)に応じて試験が相対化してしまうというのも授業の緊張感を殺いでいる。試験は、シラバスにおける教育目標の達成度評価を意味する。したがって授業進行に何らかの障害があって計画通りに授業が進まなかった場合、それに応じた試験を行うということは、看板(シラバス)に偽りありの授業をやったということを意味する。仮にその試験を満点の100点取っても、シラバス上の目標達成という点では100点ではないわけだ。そういったことがしかし平然と行われているのが、現状である。これは試験が公開されていないことの問題ではなくて、試験が授業開始前に作られていないことの弊害である。試験は、シラバスやコマシラバスが作られたときに同時に作成されていなければならない。“この”教育目標(シラバス)を“この”展開計画(コマシラバス)によって、“この”試験で達成評価するという体制こそが、諸授業計画の全体(カリキュラム)でなければならない。最後のラインが補習や追再試でズルズルと後退し始めると、どんなに立派な教育目標を立てても意味をなさない。目標はいくつも立てられたが、評価がなかったというのが、従来の教育改革が成功しなかった理由なのだから。

 もちろん、すべてが計画通りにいくことはない。授業は人間同士の関係を前提にした生き物だからである。しかし失敗はおろか、成功しているのかどうかもまったくわからないのが、これまでの教育の現状だ。教員の報告か、学生満足度程度の資料が若干存在しているだけで、それ以外に授業の成否を測るものは何もない。本来であれば、試験の合格状況がもっとも端的な成否を示すものであるはずなのに、そうなってはいない。計画としての試験ではなく、実情の反映(後追い)としての試験でしかなかったからである。計画の達成度を問う試験にはなっていない。要するに大学にも専門学校にも厳密な意味での試験というものは存在していなかったと言える。

 重要なことは成否が問える体制を整えることである。計画があることはただちに授業や教育の成功を意味しはしないが、失敗したとしても何をどう失敗したのかがわからなければ教育力の向上は望み得ない。計画がなければ、失敗も成功すらもない。個人的な評価だけが横行するいきあたりばったりの教育を毎年繰り返すことになる。学生数が右肩上がりであったときは、それでもよかったのだろう。しかし少子化による“競争”の激化においては、計画のない学校は生き残れない。学生は学校を選び始めるだろうし、学校を選ぶということは学校の志(=計画)をまず選ぶということだろうから。計画のある学校には反省がある、反省がある学校には前進があるだろうから、である。

 授業計画(シラバス、コマシラバス、試験)は、その意味で、学校の目標と評価にかかわる自己認識、および情報公開の基本となるものである。

3−3)授業シート
 
 授業計画は、しかしそれだけではまだ依然として計画にすぎない。コマシラバスや試験内容をいかに精査して整えてもまだ何も始まっていない。教育は授業から始まり授業に終わる。試験の時に落伍者を出してはもう後の祭り。日々の授業が計画通り進んでいるのかいないのかは、それを実行する科目担当者のコマシラバス解釈が決定的な要素になる。

 これまで授業改善が進まなかった要因のひとつは、コマシラバスという授業目標がなかったというのはもちろんのことだが、教員が授業イメージを(学生に)宣言してこなかったということも大きな原因の一つだ。

 つまり実行宣言とも言える資料が授業に必要なのである。この授業は何を学ばねばならない授業なのか、という授業概観とでも言える実行宣言が必要なのである。そうやって教員と学生とがコマシラバスの実現に向けて90分間の授業の組み立てを共有する場面が必要になる。

 従来、専門教育には教科書がない場合が多かった。どうしてもトークや板書中心。折に触れて配られる部分的な資料。実習授業の場合は、作業手順などのマニュアル。こういったものが専門教育の教室だった。その上、最近はノートを取る学生さえいなくなっている。要するに授業の全体を参照する記録が何処にもない。稀少である、まじめな学生のノートの中にしか授業の実体が存在していない。そのノートさえも“正しい”ノートかどうかわからない。

 コマシラバスの不在や判定試験の相対主義が、日々の授業の中に目標があるということを教員、学生ともども忘れさせ続けてきた。

 この“目標”は、単に進捗管理のためのものであるわけではない。トーク中心の授業は、終わらないと前半の意味がわからないように時間に追われた授業になっている。聞き逃すともう後の話はわからなくなる。それだけではない。時間は飛び越すことができない。だからトークにおいては前から順に聞くことになる。前に(前半に)話すことは、話者においては、後ろの内容を前提にしている。しかし聞き手にはそれはわからない。今の話の意味は、後半において意味を持つのであって、今の話を理解するには後半まで待機する必要がある。

 聞き逃せないこと、忘れ去らないこと(意味の遅延に耐えること)、この二つがトークを中心とした授業に無用な緊張感を強いている。

 板書もまたトークと同じように時間において書く点では変わらない。授業終了時に板書の全体が書き終えられるのだろうが、その全体は最後にしか露呈しない。書き始められた言葉の本来の意味は、最後にしか露呈しない。ノートを取るのが得意な学生は、したがって後から記される言葉をすでに書かれている言葉へと線や矢印を引いて(場合によっては文字に色を付けて)関連付けながら記録したりしている。トークと違うのは、最初の言葉が消えない分トークよりは安定しているということだが、中学校や高校の教員の板書に比べて大学や専門学校の教員は思いついたことを書き殴る場面も多く、これらを授業中にまとめるのはかなり高度な知的能力を要求される。

 その意味でも、目標を喚起しながら授業概観を(それが書き記された資料)において行うということは「わかる」授業を行うための必須の要件なのである。全体が見えていれば、前半の授業を後半まで安定して引っ張ることができる。何が学ぶべき要点で何が聞き逃した点なのかも明白になる。

 東京工科専門学校では、この概観のためにコマごとにA4版の「授業シート」というものを用意している。このシートは担当教員が授業開始時までに用意して、各時限毎(各コマ毎)授業開始時に教室で学生各自に配布することになっている。「授業シート」は、「今日の授業」「授業カルテ」「模範解答」の三つのA4版シートから成っている。

 「今日の授業」は90分の授業内容を10のポイントからまとめたもの(「今日の授業」シートは、全体目標であるその科目の「シラバス」、今日のコマの授業の内容を10の箇条書きでまとめた「今日の授業」、その内容を理解するための10の「キーポイント」、10の内容の典拠すべき「参照資料」、全体を理解するためのコツなどを記した「授業コメント」の5つの記述からなっている)。これは教員が、カリキュラムリーダーが管理しているコマシラバスを教室現場においてどう解釈したのかの実行解答書でもある。授業開始時には、(授業冒頭の5分から10分使って)10ポイントに分節された授業内容の全体を概観する。最初に何を学ばねばならないかを学生に提示すると共に、教員が授業の進行を自己目標化するということである。このシートを授業前に教員が作成することにおいて、教員は一度は授業の全体をシミュレーションして授業に挑むことになる。これがあることによって、授業の組み立ての失敗や成功がより具体的に自己把握できる。たとえば、どのポイントでは時間が足りなかった、どのポイントでは冗長すぎたというふうに。授業組み立て上の改善ポイントがより明確化することになる。

 「授業カルテ」は“小テスト”とでもいうもので、授業の最後に実施される。「今日の授業」で提示された10個の学習ポイントに沿って問題ができあがっており、100点満点で記録される。授業終了時、(「模範解答」の配布において)即時採点されるが、この点数は学生の自己反省点数であると共に、教員の授業の自己反省点数でもある。点数は校内のデータベースにおいて記録され、当日中に「今日の授業」の成否がこの点数によって(校内関係者の誰にでも)把握できるようになっており、「履修判定試験」1週間前には受講科目のすべてのカルテ点数が保護者にも通知される。「授業カルテ」は「履修判定試験」に至るまでの履修状況把握の鍵を握っており、科長や校長はこのカルテ点数を手がかりとした「落伍者」管理ができるようになっている。

 これらのシート類は実際の授業で学生に配られるために、教育上の資料であると共に日々の授業記録にもなっている。

 計画上の「シラバス」「コマシラバス」「履修判定試験」。実施上の「授業シート」。この二つがあってはじめて授業がどうあるべきなのか(目標)、どうなっているのか(現状把握)、成否はどうか(評価と対策)の三層からする〈授業評価〉ができる。逆に言えば、こういった計画上の資料、実施上の資料なしに、教室に入り込んでもほとんど意味はない。教育目標と教育評価の共有という観点からのみ、教室を共有できるのであって、それ以外に授業評価が教育を前進させる契機はない。

 東京工科専門学校では、すべての授業コマで科長、校長を中心とした授業評価を毎日実施している。評価ポイントは、@コマ目標(コマシラバス)を目指した授業になっているかどうか Aコマ目標を達成できる授業になっているかどうか B授業カルテはコマ目標の達成評価として適切かどうか C落伍者対策はどうなっているのかなど基本的には4点。これらの観点から授業評価を行い、科長日報として校内の掲示板データベースにupするようになっている。

4)評価と学校
 
 重要なことは、授業で寝ている学生がいないとか騒がしくないということではない。教育目標を忘れたり、教育評価のない授業を行わないということが重要なのであって、その結果が寝ている学生がいない、騒がしくないという授業現象でなければならない。

 授業評価を行うということは、学校が何をやりたいのか、その成果はどうなっているのかを明らかにすることである。しかし授業評価をやっているところなどほとんどない。まして毎日行われる授業の評価をやっている学校など皆無だ。もともと評価ということを嫌ってきたのが学校なのである。

 そう考えると、学校というところは奇妙なところだったと言える。誰がどんな教育をやるのか、その成否はどうであったのかというのは、学校の“説明責任”としては当然のことなのに、それを示す資料がどこにもない。退学率や就職率という指標はあるにはあるが、それらは必ずしも教育そのものの成果とは言えない。重要なことはそれらがよい数字であるにせよ、悪い数字であるにせよ、なぜそうであるのかを説明する資料がないということだ。教育のプロセスと成果を評価するミニマムの資料とも言える「コマシラバス」と試験評価の厳密性を保証する体制がないからだ。これがない学校というのは、誰ひとりとして自分たちが何をやろうとしているのかをわかっていない“危険な”学校だと言える。というか、不毛な教育の責任をすべて学生の所為にして、その学生たちが卒業生すればすべては終わりということを繰り返している学校なのである。

 高校までは、どんなに内部が悲惨であろうと出口のところで大学受験という尺度がまがりなりにも存在し、それなりの教育評価が存在していたが、ポスト中等教育においてはそれさえも存在していない。

 大学や専門学校に於ける情報公開の深刻さは、何を公開すればよいのかわからないという問題である。それは公開するものがわからないというよりは、わかっているのに公開できないという深刻さかもしれない。授業情報以外に教育的には公開すべきものはないに決まっているのに公開しようとしない。教員の“内政干渉”という声に押されて公開できない。しかしそれ以上に眠っていたり、携帯電話でメールのやりとりをし続けている学生の授業風景を見せることなどできない。それを放置している教員の授業指導を見せることができない。めいめいが勝手なことをやっている教室。長い間、教室授業は学校の“伏魔殿”だったのである。しかし教員の反抗や教室の“無政府状態”は、当然の現象とも言える。授業計画や授業評価の基準を学校全体が一体となって形成してこなかったからだ。目標や評価のない授業では、教えることもなければ、指導することもないからである。教員の勝手なおしゃべりと学生の勝手な感想(“満足度”)が支配しているだけなのである。「コマシラバス」や試験さえもが不在の学校で、授業評価が学校の外部からはもちろんのこと教室の外部からも可能になることはなかった。まともな教室授業情報が皆無な状態で、自分たちの教育を評価するすべをすべて失っていたのである。

 戦後、絶対つぶれないものと信じられてきた銀行と学校がつぶれ始めた。前者は不動産担保があれば、評価なしに融資してきた。後者は入学すれば(授業料を払ってさえくれれば)、評価なしに卒業させてきた。その大きな、致命的な手抜きの体制が崩壊しつつある。少子化現象以前に、やるべきことをやってこなかった学校は、早々につぶれるべきだったのである。(了)


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