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75 | 11/28(木) 10:59:33 |
校長の仕事(今日の朝礼より) | 芦田宏直 | 0 | 10641 |
今日の朝礼は、学園内を支配している「ヒューマニズム」について話しました。 まず、担任主義。 担任は、学生を専門知識、専門技術を学ぶ学生と見なさない。だから、学生が欠席したり、不合格点を取るとその「学生の努力が足りない」というふうに見て、学生の人間的素質(家庭要因、生活要因、基礎学力要因などなど)にばかり言及し始める。しかし学校は教会でも宗教団体でも何でもない。その学生を人間的な要素で指導する“資格”をもった教員など一人もいない。そもそも人間的な要素を"指導"することなど誰にできるというのだろうか。神のみぞ可能といった難題事だ。一体わが教員はどんな顔をして“生活”指導をしているのだろう。どんな生活指導も、自分の生活慣習を押しつけるか、棚に上げるかのどちらかにしかすぎないくせに。 欠席や欠席兆候の最大要因は学校にとっては、授業指導の不備にあるということでしかない。一言で言えば、授業がつまらないから(授業指導に問題があるから)欠席するのである。ここにメスを入れることなしに出席率は(根本的には)上がらない。逆に学校がメスを入れることができるのは、ここにしかない。ところが、〈担任〉は学生から授業不満を聞いても教科指導には走らない。担当する専門が違う場合には、口を出せないからである。さらには、同僚の教員を指導、批判することなどできないからだ。だから、学生の不満を担任が"親代わりになって"聞いてやる体制は、授業改善に向かわずに、学生の個人問題(ほとんどの場合は生活問題や家庭問題)にすり替わる。結局は、学生批判や父兄批判を繰り返す。何一つ自分たちの教育を反省しようとしない。担任主義というヒューマニズムは教育改革に逆行するのである。 次に、組織問題。 昨日の、科長による授業評価レポートで「以前よりもわかりやすくなっている」という評価があった。こんなものは〈評価〉ではない。重要なことは、この先生の授業のやり方で、このままいくと科目目標が達成できるかどうかであって、その先生がよくなっているかどうかは、その先生の個人的な問題にすぎない。よくなっていても、科目目標が達成できないのなら、その先生は"危険"と見なすのが、評価の基本にならなくてはならない。私は(私もこの授業を見たが)どうみてもこの先生が落伍者を出さないとは思えない。「以前よりもわかりやすくなっている」という文言は、ヒューマンで個人的な評価にすぎない。要するに努力はしている、ということだ。 もしそのレベルで評価ということを言うとすれば、私は、努力をしていない人間などこの世にはいないと思うし、悪い人間もいないと思う。というより、人間は努力するときもあるし、しないときもある。悪いときもあるし、良いときもある。それだけのことだ。どんな侵略戦争だって、そこには必ず英雄がいる。心暖まる人間関係がどんなに無惨な戦争であっても必ず生じる。だから、人間というフェーズで見れば、肯定も否定もない。つまり、人間など評価の対象にはならない。人間はそれ自体で肯定されるべきであって、評価の対象ではない。 したがって、授業評価や教員評価を人間性を形成するタームを使ってやってはいけない。 組織が人材(スタッフ)を評価するというのは、組織の目標からの評価であって、それ以外にはない。それ以外にはすべて個人干渉だ。どんなに(組織的に)無能な人間であっても家庭に帰れば頼られるお父さんであったり、愛される夫であったりもする。あるいは、ボランティア活動や地域の活動では尊敬されるリーダーかもしれない。組織・会社があろうがなかろうが、そういったことはそれ自体で尊重されるべき事態であって、評価の対象ではない。ファシズムの歴史的な失敗もヒューマニズムにあったのであって、ヒューマニズムを阻害したからではない。彼ら(スターリンも金日成も)は、"心温まる"国家を作ろうとしたからこそ、ファシストになったのであって、その逆ではない。これは20世紀最大の思想的悲喜劇だった。 要するに、組織内では個人評価(ヒューマンな評価)はやってはいけないということだ。なぜ、組織は時として(「以前よりもわかりやすくなっている」「以前よりも努力している」というような)個人評価に走るのか。答えは簡単なことだ。その組織が目標のない組織になっているからである。 評価の基本は、目標からの距離を測定することでなくてはならない(これが組織に於ける"現状認識"ということでなければならない)。つまり〈未来〉から〈現在〉を見るということでなければならない。どこに目標達成を阻害する要因があるのかを発見することが評価の基本だ。したがって「以前よりもわかりやすくなっている」「以前よりも努力している」というのは〈評価〉ではない。これらは過去からの現在評価にすぎない。つまり、累積的な努力が目標を達成するという立場に立っている。これは大きな間違い。〈目標〉というのは、過去(実績)からの連続性の中では達成できないものを掲げたときにはじめて、目標になるのであって、言い換えれば、それは"努力"しても不可能なものを掲げたときにこそ〈目標〉なのである。"努力"する人間に目標は達成できない。目標達成できるのは〈変化〉できる人間だけなのである。組織に〈美〉や〈倫理〉があるとすれば、それは目標に向かって〈変化〉するときにだけなのである。 こたつのサーモスタット(のバイメタル)は、目標(温度の高、中、低)設定がされると、そのずれに応じて作動するようになっている。どんなにこたつ内の温度が(予期できない偶然な要素で)乱されようと即座にその差異を関知して、設定された温度に復帰しようとする。つまりサーモスタットは〈現状認識〉を〈未来〉から行っている。こたつという機械が歴史上はじめて〈目的〉を持った瞬間だったのである。これがサイバネティクスが画期的な思想であった所以だ。 つまり「以前よりもわかりやすくなっている」「以前よりも努力している」という〈評価〉は、こたつのサーモスタット以前である。機械でさえ〈目的〉を持てるのに、なぜ、組織が目的を持てないのか。まことに情けない事態だ。ぜひ、個人評価にならない授業評価、〈目的〉からする授業評価に取り組んでもらいたい。 (2002.11.28.,am.9:00〜9:12 朝礼より 於:テラハウス309号室) |
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