番号 | 日付 | 題名 | 投稿者 | 返信数 | 読出数 |
5 | 6/11(火) 09:04:39 |
何のための授業評価か ― 授業評価を妨げるもの | 芦田宏直 | 0 | 6310 |
リクルートの『カレッジマネジメント』 ― 「大学・短大・専修学校のための」という副題がついているリクルートの高等教育経営雑誌。私学経営者はよく読んでいる雑誌 ― 編集長:中津井泉(なかついいずみ)さんに依頼され(中津井女史は、リクルートの生き字引のような方、「教育改革にもう“論”はいらないのよ(実践とその具体的な成果が必要)」が口癖)、授業評価にかかわる小論を書いてみた。実はこの依頼、本当は、教員評価の依頼だったらしいが、私が勘違いして授業評価の内容になってしまった。『カレッジマネジメント』次回特集は教員評価の特集だったらしいが、予定していた私の論考がすっかり抜けてしまった(「芦田さんも結構思いこみが激しい人なのかしら」とたしなめられた)。迷惑をかけてしまったが、この授業評価の小論も結構おもしろいので、「次々回に特別枠でのせます」、とのこと。ありがたいお言葉を頂いた。以下は、その草稿である。 ●何のための授業評価か ― 授業評価を妨げるもの 教育評価の実体は、授業評価にある。しかし授業評価ほど難しいものはない。教員が授業を公開したがらないからだ。高等教育ならば、そこに専門性の壁が重なって、公開されても評価できないということもある。 しかし従来、授業評価が進まなかった原因には、別の要因がある。「授業評価」と一口に言っても、評価の基準自体が曖昧なままになっていたからである。教員が授業評価を敬遠するのも、評価基準が曖昧なままになっていることに原因の一つがある。 以下、授業評価が曖昧になる要素をあげてみる。 @補習・追再試・課題提出 時間割が比較的密な専門学校や短大に多い問題だが、「補習(補講)」「追再試」「課題提出」といった履修判定のサブシステムが日常的に慢性化しているということ。 これらは、正規の試験期間中の「試験」で落第点を取った場合、“再試験”や“課題提出”の機会を与えて学生を救ったり、あるいは資格試験による官許的規制などで出席数(受講時間)が足らない学生に「時間補習」などで出席数を補うといった処置を意味している。 これらの処置は、言うまでもなく履修判定のダブルスタンダードを形成しており、履修評価を曖昧にしている。それ以上に、こういった救済処置こそがむしろ落伍者の輩出を慢性化させている。落第点をとっても“再試験”や“課題提出”で何とかなる、出席しなくても「時間補習」で補えばいいという後退した意識が、本試験の評価や個々のそのつどそのつどの授業時間に集中する学生の気持ちを殺いでいる。 これは、学生だけの意識ではない。授業時間中、寝ている学生を注意しない。理解の遅い学生を置き去りにする。出席率の悪い学生に出席指導をしない。教員がそういった授業努力をしないのは、教員側の意識にも、そういった学生の発見=「補習」「再試」、要するに授業外指導という図式が成り立ってしまうからである。 評価のダブルスタンダードは、授業時間の教育を極めて平板なものにしてしまう。できない学生(授業に参加しない学生)がその授業から自ら離れていくだけではなく、教員もまたその学生を授業内の教育対象から外してしまう。両者とも“あとで”何とかなるというふうに思いこむことによって、授業時間の中での努力に集中しなくなるのだ。 授業中寝てしまう、理解が遅い、出席しない。これらは、学生の素質でもあるが、一方では、教員の授業運営に問題があることの兆候でもある。むしろこういった兆候(を受け止めること)こそが、授業改善の契機にもなっていた。教材開発などは、こういった、学生が授業を否定する傾向に教員が直接向かい合うことにこそ動機を持っていたわけである。ところが、補習や追再試は、授業改善に教員を向かわせない。そういった学生を補習・追再試があるために“授業外学生”と早々と見なしてしまうからである。評価の(公然、非公然な)ダブルスタンダードは、単に評価を曖昧にするだけではなく、教育活動の本道としての授業活動そのものを形骸化してしまう。 しかもこれらのサブシステムは本来的には救助システムであるため、事実上、本試験の目標レベル(=履修目標)よりは下がってしまう傾向にある。先にも触れたとおり、科目再履修(落第生を出すこと)が、時間割の緊密さのために事実上留年になりやすく、留年が退学につながりやすい専門学校や短大では、「補習(補講)」「追再試」「課題提出」などは教務的というよりは、経営上の逃げ道になっている。目標達成できないままの卒業生を送り出してしまっているのである。というより、目標達成しないままでも卒業生とみなすためのシステムが「補習(補講)」「追再試」「課題提出」といったサブシステムだと言った方がよい。授業評価という課題は、むしろ公然と捨て去られていると言った方がよい。 A試験の後追い作成 従来の試験作成は、授業進行に沿って試験日直前に作られるのが慣例であった。この作り方だと実際の授業の進行状況や学生の理解状況を“考慮”した試験になりやすい。ひどいときには、「シラバス」と全く別の内容を試験している場合もある。後追い作成は、評価基準を相対化し、授業運営の問題点を覆い隠してしまう。目標低下を学生の基礎学力の所為にして、「それなりの」学生しか育てることができない。これでは、いつまでたっても教育力は向上しない。授業計画を立てた段階での履修目標を反映した試験を実行するためには、実施する試験を授業開始の前に(期開始の前に)、具体的には「シラバス」作成時に同時に作成しておく必要がある。 B担任制 最近、大学でも担任制を強化する動きがある。短大や専門学校ではその傾向はもっと強い。しかし担任制もまた、授業評価の阻害要因になっている。 たとえば〈担任〉主導で学生指導を行うと、最後には、学生の素質としての基礎学力、性格、家庭環境などが必ず前面化し、担任の個人的な個人指導にとどまってしまう。学生が「学校が面白くない」と感じはじめる局面を最初から最後まで学生の素質の所為にする傾向が、担任主導の学生指導の最大の問題点なのである。なぜ、問題なのか。 一つには、この“指導”は、結局のところ“心理主義”的なものになり、〈担任〉は教員としてよりも一個人(一人格)として学生の前に露呈してしまい、最後には性格的ないがみあい(好き嫌い)に終わってしまうことが多いからである。 もう一つは(これが大事なことなのだが)、〈担任〉は、学生から授業についての不満を聞いてもその授業の科目指導へとは進まない。同僚の教員の科目指導について積極的に動ける立場ではないからである。どんな学生の不満も科目不満(授業不満)に始まり、科目不満(授業不満)に終わる。授業が楽しいのに、担任課題が山積するということはありえない。つまり担任の抱える問題のほとんどは、科目問題なのである。ところが〈担任〉はそこに口を出せない。むしろ担任制は、科目問題(授業問題)を学生素因論にすり替えてしまい、科目改善が進まない要因の一つになっている。 〈担任〉は、宗教家でも哲学者でも心理学者でもない。人格としての学生、生活者としての学生を指導する資格など〈担任〉にはない。高等教育への負託の意味は、専門教育にある。専門教育の成功のないところに、人格指導、生活指導などあるはずがない。 C学年制、および卒業判定 学年における進級判定、卒業判定も、科目判定を曖昧にしている。全体の点数がそこそこ取れていれば、一科目ぐらい落としていても“許す”というのが、“学年判定”という仕組みである。もっとひどい許し方は、「あの子は出席だけはきちんとしているから、少しくらい成績は悪くても」などという“人間的な”発言が、〈担任〉から出てきたりする。こういった会話がなされる場が、“判定会議”という仕組みである。〈学年〉、〈学校〉という括りによって、科目の実体、授業の実体に自ら目を瞑ろうとしてしまう。だから個々の授業で学生が寝ていても、試験で落伍者が出ても誰も深刻な事態だと思わない。〈学年〉という単位で、ごまかすことが出来るからである。そうやって教育的な神経が麻痺していく。これもまた、一つ一つの科目の評価を曖昧にし、教育力改善がすすまない要因の一つになっている。先の〈担任制〉と〈学年制〉とは、対になって、科目評価、つまり授業評価を曖昧にしている。 Dシラバス主義 シラバスの詳細化は、1990年を前後して大学改革の目玉になってきた。年々厚くなって、授業公開が進んできたと思われている。この運動が評価されるべきなのは、〈科目〉(あるいは科目名)という単位で教育を見ているということだ。 しかし〈科目〉は、それ自体日々の授業ではない。たとえば、前期15コマで完結する科目があったとしたら、その科目シラバスは、15コマ全体の目標を指示しているのであって、日々の授業を公開しているわけではない。いわば“大目標”を明示しているにすぎない。シラバスの元に展開される実際の授業は、シラバスをいかに詳細に展開しても見えてはこない。あるいは、シラバスをいくら詳細化したところで、その内容が実際に展開されたり、あるいは展開されているにしても学生がその内容を確実に履修したかどうかは見えてこない。シラバスが授業実体であるかのように錯覚するからこそ、シラバスが年々厚くなるのである。シラバスの充実化は、ちょうどカリキュラム改革に走るのと同じくらいに、日々の授業評価や履修評価に目を閉ざす契機となっている。 最近では、したがって、15コマの一コマ、一コマについての内容を詳細化したシラバスが(日本でも)登場し始めている(私は、それを「コマシラバス」と呼んでいる)。「コマシラバス」がなければ、授業評価は存在し得ない。「シラバス」だけでは、個々の授業を参観に行っても、何を参照しながら評価すればいいのかわからないからだ。〈科目〉という概念は抽象物にすぎない。同じように「シラバス」も抽象物だ。評価の対象であるべきものは、具体的な〈授業〉であって、それに対応するシラバスとしての「コマシラバス」なしには、授業評価は意味をなさない。 E実習オブジェクト主義 実習授業は具体的な技術や知識を身につける工学系の大学、一部の短大や専門学校教育の生命線である。これまで、実習授業の履修評価は課題物(オブジェクト)の作成、提出という形で行われてきた。 たとえば、学生が建築図面を作成するという授業では、その図面の完成物が履修評価の対象となる。授業中は学生が図面を書いているところを先生が周りながら、ときには立ち寄り、指示を与える。「こう書きなさい」、「そんなことをしては駄目です」というように。そんな指導を繰り返しながら、授業を重ねる毎に〈作品〉は完成に近づいていく。そうして出来上がった〈作品〉を評価することが、実習授業の履修評価(=試験)になっている。 これはおかしい。この〈作品〉は、厳密に言えば教員と学生との共同作品であって、学生の能力評価とは言えない。実習授業は、課題物さえ提出すれば全員合格になっている。なぜか。それは指導した教員の自己評価だからである。落第生を出すということは、教員の自己否定を意味することだからだ。たぶん落とされた学生も、「だって先生の言うとおりにしたのに」と言うに違いない。 能力の育成の基本は自立的な能力の育成にある。われわれは学生と一体になって付き添いながら学生を卒業させるのではなくて、学生を単独で社会に送り出すのである。その課題に対して、このような実習評価は評価ではない。教員自身が実際に“手を入れる”という形でオブジェクトに介入するため、学生の方も、先生が手を入れる〈意味〉がわからないままに終わってしまうことが多い。オブジェクトに〈意味〉が紛れ込んでしまうのである。〈作品〉は出来上がるが、〈作品〉の意味は理解できないままに終わっている。もう一度一人で作れと言っても作れないだろう。場合によっては、教えるのが(意味を理解させるのが)面倒くさくて、自分で8割方作ってしまう先生もいる。それが現状の実習教育の限界なのである。 実習教育の多い専門学校や短大の学生の能力評価が社会的に低い原因は、案外こういった実習評価のあり方に根があるのかもしれない。結果重視のオブジェクト主義を変換する必要がある。 F個性、創造性、総合性教育の問題 教育評価(あるいは授業評価)を厳密に行う、という方向性は、実習授業の多い学校、デザイン系の科をもつ学校、そして“研究”重視の大学などでは、対立的な意見がでてくることが多い。教育管理主義だ、という意見である。そんなことでは、個性的、創造的、総合的な能力を必要とされる今日の人材目標をクリアできない、というものだ。 “個性豊かな、創造性豊かな教育を行う”という教育目標があるとする。あるいは、最近で言えば、“総合主義”というカリキュラム編成が小中の学校では実際導入され始めており、高等教育でも“総合主義”(反知識主義としての)教育ははやり始めている。これらの目標自体に特に問題はない。重要なことは、その場合「個性」「創造性」「総合性」が何を意味するか、そして自分たちがそれを目標化して展開したカリキュラムの履修評価において、どんな状態に至ることが「個性」「創造性」「総合性」を伸ばした(=教育した)ことになると判断するのか、それをはっきりさせよう、というのが授業評価の重点化という課題である。目標を立てるということと評価の方法を明らかにすることとは同じである。評価方法のないところに目標はない。そして目標のないところに教育はない。 “個性”“創造性”“総合性”といった課題については、評価の一番難しい領域であることは誰も否定しないだろう。逆に言えば、そういった教育を本気でやろうとすれば、授業評価を曖昧にするノイズを取り払い、目標設定と評価方法についてのノウハウをしっかりと身につけるしかない。“個性”“創造性”“総合性”といった自由度の高い教育課題を選択すればするほど、緻密な計画や運営管理が必要になる。それなしに謳われる“個性、創造性、総合性豊かな教育を行う”というスローガンは、むしろ目標のない教育(無責任な教育)を行う広報的なキャッチにすぎない。 旧来の教育改革は、目標内容(個性、創造性、総合性、先進性などなど)ばかり議論されて、教育力向上の実体にかかわる授業評価、あるいは履修評価の改革(=履修改革)に手を付けなかった。むしろ教育目標としての教育内容を議論することは、履修改革に手を付けないための隠れ蓑だったのである。 目標設定や評価方法について、教育的にはどんな方法があり得るのか、そこが明らかになれば、教育目標は多様であってもかまわない。それは入り口顧客としての学生や出口顧客としての企業が最終的に選択することにすぎないからである。 以上7点のノイズが、高等教育の授業評価を妨げる大きな要因である。もちろん、大学の講座の独立性、“教授”マインドの問題など、こういったノイズはあげればきりがないだろうが、この7点のノイズを排除することが出来れば、授業評価の基盤は出来たことになる。 授業評価の動機は、従来から指摘されているように、@入り口における学生の基礎学力低下 A出口における人材要求の高度化という矛盾した要求が高等教育に突きつけられていることにある。これに対する回答は教育力自体を高めることしかない。 しかし一人の教員が一教室内で20人、40人の学生に対応するという体制では、教育力向上の限界は目に見えている。授業評価を進めることの今日的な意味は、単に授業評価(狭い意味での授業査定)を行うことにあるのではなくて、教室内の情報を出来うる限り公開して、教員をサポートする体制を構築することにある。 どんな教員も、最初から完成しているわけではない。どんなに経験を積んだ教員でも100%満足のいく授業を行うことなどめったにない。基礎学力低下対策と高度人材要求という敵対的で超人的な課題を突きつけられている教員を教室内で孤立させないこと、これが今日的な授業評価の真の意味なのである。 |
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