[一覧へ戻る

 番号 日付  題名 投稿者 返信元  読出数
386 12/24(金)
00:04:12
 信心は生死を超える…  メール転送 芦田宏直  No.385  3080 

 
私の母などは人からは信心深いと思われているが、手を合わせながら「お願い」ばかり続けている。息子の私が「親孝行でありますように」とか、息子の私に季節の食べ物を送ったら「ありがとう」の電話の一つくらいかけてくるように、とか、いちいちうるさい。私は彼女から物が送られてくると、たまには「電話を下さい」というシグナルだと思っている(それがわかっていてもなかなか電話をできないが)。だから、本当は受け取らないほうがいい。

本当の贈答とは、感謝を期待しないことだろうが、彼女の贈り物は、したがって贈り物ではない。自分の(不肖の)息子に電話を期待するというのはまだまだ煩悩が深い。しかし母の煩悩は、生命力そのものだ。人間、煩悩がなくなれば、生きていけない。煩悩に高尚な煩悩、欲深い煩悩なんて区別があるわけがない。

本来の信心は、反生命的なものだ。生きることとは何の関係もないし、ましてや「良く生きる」こととは何の関係もない。仏教というのは、特にそうで、だからオウム事件も起こる。オウム事件は麻原が仏教的だからこそ起こったのであって、その逆ではない。輪廻転生なんて、生命(あるいは生死)を拒否している概念だ。信心は、いつでも生死を超えている。


385 「煩悩が消えて願いが叶う」 ― そんなバカな… メール転送 芦田宏直 ↑この記事を引用して返信を書く
    ┣ 386 信心は生死を超える… by 芦田宏直


 [一覧へ戻る]

386番まで読んだとして記録しました。[新着]モードで未読を表示します。