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377 12/16(木)
23:57:44
 校長の仕事(17) ― ユニバーサルデザインとは何か@  メール転送 芦田宏直  9804 

 
今日は、職員室に立ち寄ったときに、建築工学科の高瀬先生(施工)、小林先生(福祉住環境)、建築科の鈴木先生(設計)と、ユニバーサルデザインについての話になった。高瀬先生が「あの話は本当ですか」と切り出した。「あの話って?」と私。「音が出ないって」(高瀬)。「そうなのよ。本当なんだよ」。例のオーディオ騒動(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=371)のことだった。

「オーディオはデリケートなのよ」と私が追加。そう言えば、と思い出したことがあった。むかし、ナカミチ(http://www.nakamichi.co.jp/)のカーオーディオに凝ったことがあって、その話をSONYの品川本社のカーオーディオ事業部(?)の課長(部長? 忘れた)と話したことを思い出した(ほぼ20年前)。

「ナカミチのオーディオは高いけれでも、それは少量生産だからであって、SONYが作れば、同じ音を出したとしても半額以下で作れるよね」(私)。

「それが無理なんですよ」(SONY)

「何で?」(私)

「ナカミチの製品作りは、ねじ止めの行程(といった単純作業)を受け持っている人でも“音がわかる”人が作業している。それだけでも音が変わる」(SONY)。

「部品がまったく同じでも?」(私)

「そうです。同じでも。たぶん、ナカミチの工場で、SONYの組み立て工が“同じ”商品を組み立てたら、ナカミチの音は出ない」(SONY)

「愛情の差?」(私)

「そうです。音作りに対する愛情の差が必ず最後の音を変えてくる」(SONY)

この話が説得力があったのは、その部長さんは自宅ではナカミチのカセットデッキをお使いだったからだ。「実は私は“ナカミチ”ファン」なんてあっけらかんと言われる。

だからこの話はかなり正しい。ねじを締めるだけでもそうなのだから、機械が暖まらないといい音が出ないなんて、それに比べれば、はるかに当たり前の話なんですよ、高瀬先生。

という話から、そう言えば、ナカミチは昔ほどの元気がないけれども(いつのまにか普及機にシフトしていったけれども)、ナカミチと言えばRECARO(http://www.recaro.jp/)。

「RECAROというカーシートのメーカーは、ふざけたTOYATAのシートと違って、体型に合わせる調整ノブがほとんどない。TOYOTAのシートなんて、10も20も調整組み合わせがあるから、調整している内にどのシフトが自分の背中やお尻にあっているのかわからなくなって、もうどうにでもなれ、と調整を諦めてしまう。そしてしばらく運転していると腰をはじめあちこちが痛くなってくる。ところがRECAROにはそういった調整ノブがほとんどないのに何時間走り続けても疲れない。これぞ、ユニバーサルデザイン」と私は、高瀬先生や横にいた小林先生に(この先生たちは建築の先生たちだから、オーディオの話をしてもしようがないと思って)、RECAROユニバーサルデザイン論を切り出した。

そもそも、と私は続ける

「そもそも、マーケティングでもデザインでも、セグメント主義は間違い。これは老人用、これは若者向き。これは女性用、これは熟年夫婦、これは障害者用なんて、そんなに割り切れるくらいなら、誰だって営業できるし、デザインできる。デザインやマーケティングがその真骨頂を示すのは、セグメント以前、あるいはセグメントを超えて意味をもつときだ。そうでなければ、“売り上げ”は拡大しない。家族が歩けなくなったら、『手すりは、この高さで、こんなふうに付けるんだよ』なんて授業を(福祉住環境の)小林先生はよくやっていますが、何で『手すり』すりなの? 

僕は家内が歩けなくなっても絶対手すりなんて付けない。廊下は狭くなるし、突起物だからあぶないし、壁や廊下の造形が台無しになるし、ろくなことはない。壁に手がかかる切り込みを高さ10センチくらい(奥行き5センチくらいかな)いれて、ちょっとした小物がおける飾り棚ふうに、手をかける場所を作ればいい。突起させるのではなく、へこませればいい。廊下も狭くならず危なくもない。内部に間接照明でも入れればもっと素敵になる。障害者のため、という姑息な、押しつけがましい民主主義を突破できる。

「バリアフリー」なんて言葉を使わないようになったのは、セグメントされた(押しつけがましい)デザインを突破するためだ。家中手すりの家なんて快適なはずがない。快適さは何も機能だけではないからだ。機能だらけの空間がどれほど不快な空間であるかは、人工的な“公園”では誰も遊ばないことからもはっきりしている。ユニバーサルデザインというのは、「ユニ」という言葉が意味しているように、〈一つ〉のデザインが〈すべて〉のデザインでもあること。そのようにしてRECAROシートは、〈一つ〉のポジションで〈すべて〉の体型にあうように作られている。だから、小林先生も手すりの授業なんてやる必要ないんだよ。福祉といえば手すり、なんて、こんなばからしい“福祉住環境”はない」(私)

「でも、手すりをつけるのが一番安く済む。壁をあとから細工するのは大変だよ」(小林先生)

「なんで後からなんだよ。壁というものをデザインすることの中に最初から、その切り込みは入っているべきだよ。壁デザインの建築家の偏差値が低いのよ。壁とは何か、という思想がないのよ」(私)。

「だって、すべての人が足の悪い人ではないから」(小林先生)。

「でもいつでも(たとえば)交通事故でも、若くして足は悪くなったりもする。足のアクシデントは目のアクシデントのようにユニバーサルなんだよ。何も年老いた人たち、あるいは身障者たちだけのために備えるわけではない。アクシデント自体がユニバーサルなんだよ。セグメント主義(バリアフリー思想)は、デザインや想像力の衰退の兆候にすぎない。」(私)

(このまだ続く)。


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