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355 10/19(火)
23:43:37
 デリダ追悼(4) ― フォネーロゴス中心主義  メール転送 芦田宏直  3055 

 
デリダ思想の原型をなす言語=記号論は以下のようなものです。

たとえば、〈言葉〉、あるいは〈記号〉というものは、それでもって〈意味されるもの(シニフィエ:所記)〉と「それでもって」の「それ」にあたる〈意味するもの(シニフィアン:能記)〉とに分かれます。〈犬〉という言葉自体はほえたりはしない。赤信号の赤そのものは、止まったり、歩いたりはしない。この場合のほえない〈犬〉、止まらない〈赤〉を〈意味するもの(シニフィアン:能記)〉といい、ほえる犬や止まれという命令を〈意味されるもの(シニフィエ:所記)〉と言います(そんなに簡単な話ではないのですが、デリダさえも時々こんな説明の仕方をするので私もここではそうしておきます)。とすると、能記と所記との間には、直接の関係がない。ほえる犬そのものを〈猫〉と呼んでもかまわないし、「止まれ」は別に〈緑(青)〉でもよかった。「ほえる犬」を「犬」と呼んだり、「止まれ」を〈赤〉で表現する(=能記する)ことは、それ自体個人的な約束事ではないにしても、〈犬〉という文字(能記)、〈赤〉というしるし(能記)と直接的な関係をもたない。ソシュール(http://members.at.infoseek.co.jp/serpent_owl/arch-text/saussure.htm)はそれを能記と所記との関係の「恣意性」と呼んだ。

ヨーロッパの言語学者・ソシュールがそのときに念頭に置いていたのは、アルファベットという表音文字でした。日本語の場合は表意文字ですから、大なり小なり〈意味されるもの(所記)〉の“かたち”の影響を〈意味するもの(能記)〉は受けています。わかりやすい例で言えば、木という能記は、木によって意味されるもの、つまり“本物の”木(=所記としての木)の“形”に似ています。象形文字、あるいは象徴(シンボル)と言われるものなどはもっとそうです。

ソシュールと同じように、表音文字としてのアルファベットを言語の「雛形」に置いたヘーゲル(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB)は(というより、それは〈記号学〉を〈心理学〉に従属させるアリストテレス以来の形而上学の伝統にソシュールもヘーゲルもしたがっているにすぎないわけですが)、したがって、象形文字や表意文字をアルファベット言語よりも(歴史的に)劣る言語と考えました。というのも、具体的な形の影響を受けた言語は、純粋にその所記を表現することができないからです。「木」と一般に呼ばれているもの(所記としての木)は、すべて木の形(能記としての木の形)をしているわけではありません。あるいはトラやライオンが強さの〈象徴〉だったとしても、すべての(あるいは具体的な個々の)トラやライオンが強いとは限らない。だからそれらは、〈木〉そのもの、〈強さ〉そのものを表すにはふさわしくない言語や記号なわけです。

音声としての言語、つまりアルファベット言語、というよりも音声という媒体は、より精神的なもの(〈心理学〉的なもの)だとヘーゲルは考えました。〈音〉というのは聴覚としての五感の一つですが、たとえば、《味覚》は対象を食べ尽くすという意味で主観的です(主観的すぎる)。逆に《視覚》は、対象に対して傍観的であり客観的(客観的すぎる)。《音》というのは、その意味で、対象性(客観性)と主観性を両者兼ね備えた媒体です。「音が聞こえる」という事態は、単に対象的な遠隔性を意味するわけではないし、単に主観的な消尽を意味するわけでもない。音は外部でもあり、内部でもある。音は自己消去的に客観的な媒体であって、したがって〈意味されるもの(所期)〉を純粋に〈意味する〉ことができる。表意文字や象徴は、客観化(空間的な像形化)度が高い分、不純な媒体なのです。同じようにヘーゲルは、〈建築〉や〈美術〉を空間化度(媒体としての不純性)の高い芸術とみなし評価しない。朗読される詩歌(話される言語芸術)こそを最高の芸術と見なしていました。

そういった声の優位性に基づく「純粋」主義、あるいは「理性(ロゴス)」主義とでもいうものを、デリダは「フォネーロゴス中心主義」と呼んだ。「フォネーロゴス中心主義」の究極は「自分が話すのを聞くこと」であり、それは「語のテロス」そのものなのです。デリダは次のように言っていました。


●(以下引用)話し手が自分を聞くということ、話し手が諸現象の感性的形式を知覚すると同時に自分の表現的志向を理解するということが、言(パロール)の構造そのもののうちに含まれている。(…)話せない者(聾唖者)と耳が聞こえない者(聾唖者)は互いに伴いあうわけである。聞こえない者が対話に参加できるには彼は彼の諸作用を語の形式の中へ差し込まねばならない。語はそれを発する者によって聞かれる、ということを、語のテロスは含んでいるのだから。(『声と現象』邦訳148頁)

(この項まだまだ続く)


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