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343 9/20(月)
03:15:27
 またSONYは間違った ― 根源的「電子手帳」論。  メール転送 芦田宏直  4101 

 
CLIEの新製品が出た。TEG-VZ90(http://www.sony.jp/products/Consumer/PEG/PEG-VZ90/index.html)。

SONYは、また間違ってしまった。これはもはやCLIE(=「デジタル手帳」)ではない。外形寸法 約 幅109×高さ87×奥行き23mm、質量 約270g。重すぎる。私は、以前の記事で(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=336)、PDA(Personal Digital Assistant)は150グラム以下が必須の条件と言ったが、100グラム以上も重い。これでは胸ポケットに入れることができない。現行ザウルスよりも重いから、使いものにならない。

よく、電子手帳を買って専用カバーやサードパーティのケースに入れて持ち歩いている人を見るが、そんな人は電子手帳を持つ資格はない。技術者が技術の粋を結集してコンマ単位で軽く、薄く作っているにもかかわらず、全体を(本体を超えて)10 mm近く厚くしたり100グラムも重くしたりするカバー類を付けるとはどういうことだ。そもそもそんなに大きくしてしまうと常時携帯、つまりカバンなしの携帯が不可能だ。カバン携行が可能ならば、PDAにこだわる必要はない。カバンを携行しない場合の携行(ポケット携行)が、PDAか、モバイルパソコンかの生死を分けている。

そう考えると、150グラムが限界。厚さ(奥行き)も、TEG-VZ90は20 mmを超えている。20 mmを超えるとワイシャツの胸ポケットには入らない(入れる気がしない)。要するに、PDAは携帯電話の大きさと重さを意識しなければ存在する意味がない。

SONYは、PEG-UX50(http://www.jp.sonystyle.com/peg/Store/Clie/Ux50/index.html)において、 NXシリーズが間違って方向付けた(PEG-NX80V (http://www.jp.sonystyle.com/peg/Store/Clie/Nx80v73v/index.htmlなど)なんでもありの巨大機路線を大転換し、もう一度小型機路線へと正当にも復帰した。PEG-UX50は、当時(2003年8月発売)ザウルスのSL-C700(http://www.sharp.co.jp/products/slc700/index.html)の横型キーボード付きPDAの路線を踏襲していたため、人気が盛り上がらなかったが、SONYにとっては、結構真剣な路線転換だったのである(今から考えれば、フルキーボードを付けて、しかも無線LAN、Bluetoothモジュールも内蔵して外形寸法 約幅103×高さ86.5×奥行き17.9mm 、質量 約175gは、ザウルスが足元にも及ばない画期的な小型化技術だったのである)。その後TJシリーズ(http://www.jp.sonystyle.com/peg/Store/Clie/Tj25/index.htmlhttp://www.jp.sonystyle.com/peg/Store/Clie/Tj37/index.html)、TH55(http://www.sony.jp/products/Consumer/PEG/PEG-TH55/index.html)は、その小型化路線を踏襲したものになっていた。PEG-UX50とTJ 、THシリーズとの一番大きな違いはキーボードを付けているかどうかの違いである。2004年2月発売のTH55(http://www.sony.jp/products/Consumer/PEG/PEG-TH55/index.html)は、フルキーボードが付いているPEG-UX50(http://www.jp.sonystyle.com/peg/Store/Clie/Ux50/index.html)よりも10グラム重い(PEG-UX50=175グラム、TH55=185グラム)。

私はTH55は全く認めない。キーボードは付いていたほうがいいに決まっている。手書き認識がいくら精度が高いからといっても、本気で“書く”気が起こるかどうかはキーボードのあるなしに関わっている。そして書く気(書き込む気)が起こるPDAは、それに応じて愛着のわく度合いも大きい。

結局キーボードを付けるか付けないかの決断は、重さと大きさを犠牲にするかどうかだが、キーボードを付けていないにもかかわらず、全体に大きく重くなったTH55の歴史的な意味はほとんどない。今から思えば、すでにこのTH55(2004年2月発売)において、SONYの変節(小型化へ最新技術を集約することからの変節)は始まっていた(http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200402/04-0203/)。

その変節の結果が、今回のTEG-VZ90。こんなものを(カバンなしで)持ち歩きはしない。私は、この新製品が発表された途端に、1年以上も前に発表されたPEG-UX50(http://www.jp.sonystyle.com/peg/Store/Clie/Ux50/index.html)を先週の土曜日に買ってしまった。これから年末にかけてのCLIEの新製品は大型機路線の再復活でしかないとがっかりしたからである(それもあって、TEG-VZ90の発表日の翌日のPEG-UX50の実売価格は下がるどころか100円ばかり跳ね上がっていた)。

現在のところキーボード付きで200グラムを切るものはPEG-UX50しかない(ザウルスは250グラムもあるから胸ポケットに入れる気がしない)。PEG-UX50は、重さは私基準で25グラム重いし(175グラム)、大きさ(厚さ)は私基準で2.9ミリ厚いが(17.9ミリ)、フルキーボードが付いていて、このくらいなら充分に耐えられる。価格コムで現在最安値が税込み44800円(http://www.kakaku.com/prdsearch/detail.asp?ItemCD=003032&MakerCD=76&Product=CLIE+PEG%2DUX50)。出た当時は8万円近くしていたから割安感は充分だ。

CLIEの本来の新製品は、このUX50の延長上にあるべきだった。VGAの液晶モニタを付けて、CFカードが実装できるような新UX50(重さは150グラム以下、厚さは15ミリ以下)が本来のCLIEの新製品であるべきだったが、TEG-VZ90(http://www.sony.jp/products/Consumer/PEG/PEG-VZ90/index.html)は完全にこの期待を裏切った。たぶんUX50は近々「生産終了」になるだろうから、PDAを何にしようか迷っている人は、UX50を早めに買っておいてほうがいい。

PEG-UX50(http://www.jp.sonystyle.com/peg/Store/Clie/Ux50/index.html)の最大の弱点は、それ自体でインターネットができないということだが、無線LAN(http://e-words.jp/?w=%96%B3%90%FC%82k%82%60%82m)とBluetooth(http://e-words.jp/w/Bluetooth.html)が内蔵されている(これを経由すればインターネットはできる)。もちろん、無線LANとBluetoothも使用できる場所は限られているが、私が期待しているのは、Bluetoothの携帯電話。現在FOMAのF900iT(http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0407/01/news100.html)が代表的存在。これを使えば、そのままPEG-UX50でインターネットが利用できるはず。

ただ、F900iT (http://foma.nttdocomo.co.jp/terminal/cell/f900it/index.html)は、重さが154グラムもある。大きくて重すぎる。最近、Bluetoothは人気復活の気配があるから、この秋以降のFOMAの新製品に搭載されるのを期待するしかない。PDAをもって歩かないことはあっても、携帯電話を持って歩かないことはない。だから携帯電話のインターネット接続を無線で利用できるということは、これ以上にないPDAインターネット利用なのだ。そうすれば、PEG-UX50は、最強のPDA(フルキーボードPDA+インターネットPDA)になる。

PDA(電子手帳)は、なぜ、こうも(飽きもせず懲りずに)繰り返し購入されてしまうのか(これは単に購買欲が強い人の嗜好品ということではない)。それはたぶん、携帯電話と同じように、それらが携帯ツールだからである。

携帯ツールの根源の欲望は、その機能の身体化ということである。〈身体〉こそが、究極の携帯“ツール”だからである。結局のところ、それらは、身体に同化するところまで“小型化”しなければならない。世界(=世界史)中のすべての情報を手元に集めたい(=身体化したい)、記憶の代わり、目の代わり、手の代わり、足の代わりのようにして携帯電話=PDAを身体化したい。そういった根源の欲望がいまだに(あるいはどこまでも?)追いつかない技術の進化を半ば諦め気に追い求めているのである。カミュ(http://ww2.enjoy.ne.jp/~ajo/Albert%20Camus-1.html)のシジフォスの神話の主人公のように。

これらの携行ツールが身体化を志向しているように、それと並行して身体は薬物と医学によって道具化している。携行ツールの身体化の究極は、身体を結局のところ、脳の思考活動の道具のように切り離すことを含んでいる。たぶん携帯電話=PDAは最後には、“現在の”身体活動のすべてを計測するセンサーとその記録情報を含み、刻々と死を予言する装置に変貌するに違いない(最大の〈情報〉は自分がいつ死ぬのかということだから)。またその予言に応じて医師や同胞を呼びつける装置になるに違いない。医師や親族というのは、会いたくもないのに会わなければならない世俗的な他者=神なのである。病院というのは、近代的な村落だと思えばいい。

会いたくもないのに会わなければならない他者。それが、PDAや携帯電話が出現させている徒労のすべてである。それは自分がいつ死ぬのかを“知る”ことがほとんど徒労であること(=意味のないこと)と同じことだ。


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