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242 12/8(月)
08:43:29
 e-ラーニング論 (その3)― 『カレッジマネッジメント』124号  メール転送 芦田宏直  2619 

 
連載中の『カレッジマネッジメント』(リクルート)原稿です。昨日書き上げました。

●「学びたいものを学ぶ」は学びではない。

「モバイル」、「ユビキタス」、「高度情報化社会」という言葉が並び始めると、教育の側でももはや「キャンパス教育」(場所を特定した教室教育)は古い、ということになりがちだ。その意味では、e-ラーニングは、教育そのものを売るメディア、純粋に知的なメディアだということになる。

「いつでもどこでも」の「ユビキタス」状態は、自然的な制約を除去した自由な主体(=時間・場所に制限されずに何でもできる主体)を形成する分、逆に何もする気にならない主体の生成でもあることは前号、前々号でも指摘した。自宅でも勉強できるというのは、逆に勉強以外の何でもできる私的な時空(=自宅)が存在しており、その中でことさらに勉強(だけ)をするというのは、極めて意志(選択的、排除的意志)の強い主体を想定しなければあり得ない学習状況なのである。行動の自由というのは、行動自身がある特定の時間と場所を必要とするから、その不自由さから解放されない限り(それはありえない)、「何でもできる」というのは「何もできない」ということとほとんど同義である。何か行動するというのは、他のことをしないということと同じことなのだから、できることが多くなればなるほど、人は観念的、人工的、内省的な意志を強く持つ必要がでてくる。IT時代というのは、その進展のスピードに目を奪われて技術の時代のように思われているが、もし、IT時代がモバイルやユビキタスの「いつでも・どこでも」を意味しているとすれば、それはむしろ内省的な意志を強要するきわめて観念的な時代に突入しはじめているということである。極端な自由は極端な強制を逆に必要とするのである。

だからこそ、e-ラーニングは、社員教育や社員研修、あるいは組織的な集団教育といった“上から”の指示や命令のあるシステムでないと有効に機能しないとも言われてきたわけだ。どういう仕方でか外在的な強制が加わらない限り、誰も何もできない時代がIT時代の“自由”の意味である。というよりも、〈行動〉とは元来そういうものなのである。

「フリータイムレッスン」「オンデマンドレッスン」もまたほとんどの場合、スクールに“通う”ことを前提に成り立っている。「いつでも」と「どこでも」を、同時に実現してしまうと、自由すぎる“危険”がつきまとうからだ。

しかし、e-ラーニングの課題はそれだけではない。社会人教育では、目的的な受講が多い。学生教育のように一からすべて体系的に知りたいという場合は、たぶん、MBA社会人大学院のような形態を取るだろうが、その手前の需要の方が遙かに高い。というよりも、1年間スケジュールの決まった“学生”生活を送れる社会人がこの流れの速いインターネット時代にどれだけいるだろうか。その意味では、限られた時間(短時間の集積態)に、目的のはっきりした学習を求める、というのは社会人学習の無視できない要求である。

既存の教室授業の形態(=“通学受講”の形態)では、スクールパンフレットやその中の「講義概要」でしか、講義の内容を事前に知ることができない。テラハウスのように90分単位で講義概要がある場合でも、実際に受講すると(たとえ、たしかに講義概要通りの授業が行われていたとしても)、やはり受講者が望んでいたものと「違っていた」ということが起こりうる。90分の一授業の中にでも“無駄”を感じてしまうのが“社会人”受講の特質の一つである。

したがって、e-ラーニングのようなメディアになったコンテンツ(=たとえばリアル授業が収録されて“デジャブー”になった状態)は、講義の全容が受講以前に露呈していることと同じことを意味しているはずであって、これは目的的な講座選択に大きく貢献できるはずである。E-ラーニングの本質の一つは、それがいつでもすでにアーカイブスになっているということである。秒単位、分単位で学習者が自分の学習体系を自分の流儀に沿って組み立てられなければ、e-ラーニングの社会人展開は進まない。ちょうどハイパーリンクをたどるように、講座の中身に入っていくことのできる体制(タイトル・講義概要・インデックスを超えた講座検索)を作ることが、e-ラーニングの、教室講座の限界を超えた固有の教育供給体制なのである。授業の中で講師が実際に話した言葉をフルテキストで検索できるテラハウスのストリーミング講座体制は、その一部をすでに実現している。

要するに、「いつでも」「どこでも」の、次段階は、「学びたいものを学ぶ」ということだ。これは、e-ラーニングでしかほとんど実現できないことだ。

この「学びたいものを学ぶ」というのは、従来の教室講座中心の講座供給では、ほとんど不可能であり、しかも教育の前払い主義(受講する前に契約すること)において、社会人は支払った受講料の全体を(後から)取り返すことなどほとんどできないでいた。「講義概要」だけでは、それをどんなに詳細化したところで、講座の全体評価などできるはずがない。またたとえ講義内容通りの授業が“客観的に”行われていたにせよ、講師のしゃべり方や授業の進め方が理解のノイズになって、受講全体が(コンテンツと関係なく)不快なままに終わることもある。

こういった失望が幾重にも重なって、社会人教育市場が傾向的に広がらない要因になっていたのである。安定していたのは、外からでも評価がしやすい資格中心のスクールだったと言える。

e-ラーニングは、講座コンテンツがすでにメディアになっているという意味で、講座評価がこれまでよりもはるかにやりやすくなっている。目的的な受講を好む社会人には適した形態だと言える。その意味では「学びたいものを学ぶ」「学びたいものを学べる」ということのe-ラーニングにおける潜在的な可能性は積極的に評価すべきだ。

しかしこれには、やはり課題が残る。「いつでも・どこでも」が、ありえない空虚な主体を想定していたように、「学びたいものを学ぶ」というのも、学びの本質を逸脱させてしまう可能性を有している。

というのも、学びの本質は一方では、非選択的な受容性や受動性にもあるからだ。現にテラハウスの受講生の動きを見ていても、学びながら、当初の目的とは全く違った分野の学習を始める受講者もたくさんいる。同じ分野の受講を進める場合でも、学ぶ前に持っていた目的を超えて学ぶ要求が拡大してくることがいくらでも生じている。学ぶということは、学び足りないと感じることとほとんど同義である。これらは、実際に受講してみないと“わからない”学びの局面なのである。極端な言い方をすれば、学びの本質は「学びたくないものを学ぶ」ことにあると言っても良い。ほとんどの場合、学びの足りない人は学びたいもの(=学ぶ目的)を間違っているのであって、だから学びが足りなくなる、いつも努力が空転する。初心者とは、単に知るべきことを知らない人なのではなくて、何を知るべきかを知らない人なのである。もちろんこれは当人にとっては“僭越”な言い方だろう。正確に言えば、“学びの足りない人”というのは実は存在しないのであって、本人はいつも学び続けていると思っている。ただ、学びのオブジェクトがずれているのである。

実際に受講してみないとわからないことは、他にもある。たとえば、自分より高齢(あるいは老齢)の人が熱心に受講している。キーボードでさえ自分より打つのが速い。そういった人がたまたま横に座るだけでも向学心が生まれる、ということもある。他人の質問を聞いていて覚醒することもある。そしてまた隣の人に質問されて教えたりすることの中で力が付くこともある。これらはすべて(その効果が)その逆の場合も起こりうるが、そういった危険性に隣接している分、逆にどんなものにも代え難い効果の高い“学習”の形なのである。

問題なのは、こういったことは実際の受講の“手前”ではわからないということだ。この局面は「デジャブー」のe-ラーニングでは、むしろその検索性の利便性によってこそ消えてしまう。E-ラーニングが拡大、発展すればするほど意のままに学ぶ人が増えていくというのは、むしろますます学びの持つ豊かさを細らせていくことにつながっていると言える。テッドネルソンが「ハイパーテキスト」論で指摘した事態は、学びの本質が線形的な体系性にないこと(=学びの順序は一様ではないということ)を言う点では意味があったが、非線形で一様ではないということと「学びたいことを学ぶ」ということとは似ているようで同じことではないのである。好きなように学ぶというのは、学んだことにはならない。

たとえば、最近の携帯電話では「着信表示」(誰が電話をかけてきたのかがわかるしかけ)が当たり前になっている。人によっては、「着信表示」のない着信は電話を取らないという人もいる。「着信表示」は、しかし決して自動的な表示機能ではない。あらかじめ自分の携帯電話の中で作られた名簿を参照しながら表示するため、その電話帳にない人の名前を出すことはできない。だから「着信表示」のない電話は取らないという人は、いつも自分の知っている人だけと“コミュニケーション”しているということだ。

「着信表示」はいわば半自動化された検索システムだが、このように検索性を利便化すると(「学びたいものを学ぶ」というのと同じように「話したい人と話す」状態を作ると)、むしろ知見は拡大しない。「いつでも・どこでも」の代表ツールである携帯電話は、むしろ話す人をローカルに固定してしまい“コミュニケーション”を閉ざしてしまうのである。結局のところ、それは拡大された自分と話しているだけの孤独なツールだということだ。

同じようにテレビもテレビリモコンによって手元で操作できるようになった分、チャンネルを秒単位で変えてしまい秒単位で見たいものだけを見る環境を形成してしまった。かつては、テレビに近づいてわざわざチャンネルを“回す”のが面倒くさい分(特に冬場はこたつの中から出るのがじゃまくさい分)、NHKのまじめな番組を見続けてしまって、「へぇーそんなこともあるのか」と“勉強”できたが、そんな学びのチャンスが今はない。

CS放送や地上派デジタル放送がいくら100チャンネル、200チャンネルと多チャンネルになったとしても、それは情報が増える、知見が拡大するということではなくて、見たいものが見られるということにすぎない。もし多チャンネルが文字通り知見の拡大を意味するのならば、それは一日24時間が50時間になるとか、平均寿命が200歳になるといった物理的“拡大”が前提されなければありえないことだ。一日24時間を前提にした多チャンネル化、インタラクティブ・オンデマンド化は、むしろ「見たいものを見る」という傾向を先鋭化させ、むしろ知見は縮小し、内閉していくのである。

e-ラーニングのそういった検索性が「学びたいものを学ぶ」究極の“選択”(無駄のない講座選択のための)を実現するにしても、それは、社会人がますます“必要”に迫られる学習を優先するだけのことだ。

私の考えでは、社会人こそ“必要”に迫られて勉強をしてはならないと思う。私の勤務する東京工科専門学校では、教員のほとんどは実務経験者だ。毎年何人かの“新人”教員面接を行っているが、私が必ず行う質問の一つは、「学校へ入ってから、どうやって勉強を続けますか」というものだ。ほとんどの人がこの質問の意味さえも理解していない。実務経験者の最大の欠陥は、実務を離れると勉強の仕方が分からなくなる、ということである。そのため、教員になって2,3年くらいは実務経験の新鮮さで学生を惹きつけることができるが、その時期を超えると学生に飽きられてくる。単なる“経験論”か“自慢話”にしか聞こえてこなくなるからである。丁度それは、現役を引退した野球解説者のようなものだ。自分が対戦した選手がまだプレイヤーとして残っているときは、“裏話”で興味を惹きつけることができるが、それができなくなってしまうと一般的な話しかできなくなる。野球に詳しい素人と代わり映えがしなくなる。

この人たちに共通することは、いつも“必要”に応じてしか勉強をしてこなかったということである。だから、“現場”を離れると勉強の仕方がわからない。必要がないところでの勉強の仕方がわからない。こういった人たちは、一つの会社の中でも“課長止まり”の人たちにすぎない。“新しい”ことを企画できる人、事業を“拡大”することができる人は、必要を超えた勉強の仕方を“知っている”。E-ラーニングのオンデマンドレッスン(=「学びたいもの学ぶ」)は、“オンデマンド”であるが故に、課長以下の教育を用意するにすぎない。(次号に続く)


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