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 番号 日付  題名 投稿者 返信数  読出数
193 9/16(火)
23:08:03
 健康幻想と大病幻想  メール転送 芦田宏直  2594 

 
家内の大病を心配してくださる大病の大先輩の方へ(そんな方から励ましのお言葉をいただきましたが)。

K様

人間、大病にかかっていても、地震で死ぬときもあるし、別の病気で死ぬときもあります。健康であっても交通事故で死ぬ場合もある。

要するに、“死の原因”なんて、存在しないのです。
いつかは死ぬし、いつでも死ぬ。これしかありません。
したがって、死や大病を何かの欠如態と考える必要はないのです。

人は生きている限りは、いつもそれ自体で全体なのであって、「足りない」ことなどありえない。

病気になってできないことが多くなることは確かにありますが、一方、やれ、と言われることも少なくなるわけで、差し引きゼロです。

死に向かう病にかかっているとしても、生きることは、何よりもまずすべて死に向かうことですから、それ以上でも以下でもありません。

すべての身体は、死へ向かっているのですから、それは、生きることそのものの中に含まれていることです。もしすべての病の極値が死であるとすれば、健康であることと病を有することとは同じことを意味します。

人は、生きた結果死ぬわけではないのです。だから、生きることも死ぬことも大したことではないといってもいいかもしれない。

それもこれも含めて、人間は、どの時点であっても全体としてのみ存在する。だから、人生に短いも長いもありはしない。

そもそも“人生”、なんてもの自体、存在しはしない。〈現在〉をどう拡張するかだけが、〈生きる(あるいは死ぬ)〉ことの真の課題です。

言い換えれば、〈現在〉の中に、自分の生や死を読み込むことができること、それが、人間の生や死を動物の生や死から分け隔てている唯一の原理です。

だから、病気を悔やむことなどないのです。悔やむことを病気というのです。病人を“励ます”というのは、だから難しいことなのです。


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