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19 | 7/8(月) 13:28:35 |
東京工科専門学校の教育改革(3) | 芦田宏直 | 0 | 3343 |
日本教育新聞社の連載、第三弾です。 「東京工科専門学校の教育改革」(1)は、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=9、 「東京工科専門学校の教育改革」(2)は、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=15 に掲載してあります。 ●東京工科専門学校の教育改革(3) 授業評価ができない学校は生き残れない。自己評価ができない学校が、学生や企業の声に耳を傾けることなどもっと出来ない。それがわれわれの“問題”の出発点だった。 ところがいざふたを開けてみると評価がバラバラ。シラバスはあるが、コマ単位の授業計画(授業時間毎のシラバス=コマシラバス)がない。だから評価できない。 なぜ、コマ単位の授業計画がないのか? これにはいくつかの理由があった。 最大の理由が、補習、追再試といった履修判定を曖昧にする“システム”が日常化していたことである。学生が授業を聞いていなくても、また授業を休んで試験が不合格になったとしても、補習か追再試で「なんとかなる」という“救済”システムが授業の背後で動いている。そうなると、“この”授業で何を教えなければならないのかという計画は精緻に立てても意味がない。補習は授業時間を任意に延長してしまう。追再試は授業目標そのものを相対化する。 元来、計画とは、限りあるものの中でしか意味をなさない。目標とはそもそも限界付けであり(英語で言えば、目標=end なのだからますますそうである)、限りある授業時間の中で、具体的に限定された目標を達成しようとする限り授業計画は意味を持つが、補習も追再試も、その限界を取っ払ってしまう。そもそも教材開発という動機も、限られた時間の中で教育目標を達成しようとするからこそ存在していた動機であって、「できない子は後の時間で」ということになると教材開発も停滞してしまう。またその“できない子”も、授業時間の中で少しでもわからないことが出てくると、「また補習か」と自ら早々と“その”授業に参加することを拒んでしまう(同じように教員もその学生を早々と授業対象から外してしまう)。 “その”授業(授業時間)の中で、“その”授業が目標としたことが達成されているかが、授業評価の要だが、補習のような授業の相対的な延長 ― しかもプログラム化されていない時間での、教員の個人的な判断による(個人的な“善意”)による時間延長 ― は、カリキュラム(授業目標やカリキュラムの時間割的な文節)に問題があるのか、担当教員の授業ノウハウに問題があるのかの判断を曖昧にしてしまう。そのうえ、肝心の履修判定試験が追再試で相対化される。授業評価もカリキュラム改革さえも一歩も先に進めない根深い構造が、ここにある。 次には、担任制の問題。最近、大学でも担任制を強化する動きがある。短大や専門学校ではその傾向はもっと強い。しかし担任制もまた、授業評価の阻害要因になっている。 たとえば〈担任〉主導で学生指導を行うと、最後には、学生の素質としての基礎学力、性格、家庭環境などが必ず前面化し、担任の個人指導にとどまってしまう。学生が「学校が面白くない」と感じはじめる局面を最初から最後まで学生の素質の所為にする傾向が、担任主導の学生指導の最大の問題点である。 なぜ、問題なのか。一つには、この“指導”は、結局のところ“心理主義”的なものになり、〈担任〉は教員としてよりも一個人(一人格)として学生の前に露呈してしまい、最後には性格的ないがみあい(好き嫌い)に終わってしまうことが多い。 もう一つは(これが大事なことなのだが)、〈担任〉は、学生から授業についての不満を聞いてもその授業の科目指導へとは進まない。同僚の教員の科目指導について積極的に動ける立場ではないからである。どんな学生の不満も科目不満(授業不満)に始まり、科目不満(授業不満)に終わる。授業が楽しいのに、担任課題が山積するということはありえない。 つまり担任の抱える問題のほとんどは、科目−授業問題なのである。ところが〈担任〉はそこに口を出せない。むしろ担任制は、科目問題(授業問題)を学生素因論にすり替えてしまい、授業評価や科目改善が進まない要因の一つになっている。〈担任〉は、宗教家でも哲学者でも心理学者でもない。人格としての学生、生活者としての学生を指導する資格など〈担任〉にはない。高等教育への負託の意味は、専門教育にある。専門教育の成功のないところに、人格指導、生活指導などあるはずがない。(次号に続く) |
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