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187 | 9/4(木) 01:28:26 |
校長の仕事 Part7 ― 授業を記録することの意義 | 芦田宏直 | 0 | 10707 |
その後(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=183)のエンジンメンテナンス科の授業。 K先生とH先生のパワーポイントは格段に進歩した。K先生のパワーポイントは、単に画像が張られているだけではなく、そこに解説文字までが記入されている。そのうえ、実物(マスタシリンダ)が持ち込まれ、大きさの実感も手に取るようにわかる。よく実物以上のものはないと思いこんでいる教員がいるが、こうやって、画像、文字、実物と三つのメディアを教室で見るとそれぞれの長所・短所がよくわかる。画像や図像(絵)では〈仕組み(構造)〉がわかる。特に分解しづらい部品(や分解に時間のかかる部品)などの場合はそうだ。それに解説文字が加われば、その構造の〈機能〉や〈目的〉がわかる。ただし、画像と文字の最大の欠陥は、特には大きさがわからないということだ。寸法が入ったとしても、それをイメージ(実感)にすることはむずかしい。〈構造〉と〈機能〉がわかれば、最後に〈大きさ(や形の実体=質感)〉をつかませる、これで〈理解〉は100%になる。 K先生の授業のいいところは、できうるかぎり、英語の意味を添えてカタカナ部品の説明をしようとしているところだ。プッシュロッド(押し棒)、インレットポート(inlet:吸入、port:口)などが授業シートに盛り込まれており、「タンデムマスタシリンダ」などの説明の時も、「tandemというのは2頭(以上)の縦並びの馬車なんて意味があるんですよ」と説明していた。「2系統ブレーキの一方が破損等しても(一方の馬が疲労で動けなくなっても)、残りの系統のブレーキ(=もう一方の馬の動力)だけは確保できるようにピストンを2個直列に配列した構造」を有しているものを「タンデム」(タンデムマスタシリンダ)と言う。「タ・ン・デ・ム」と教えるよりははるかに印象に残る説明だ。カタカナ部品の名称を〈音〉で覚えさせようとせず、〈意味〉で理解させようとしている。 自動車系の授業はもともとカタカナ名称(自動車部品の)が多い。英語を6年以上もやってきた学生にカタカナで意味もわからずに教えるというのは学生をばかにしている。それに英語で教えた方がはるかに〈理解〉は進む。〈意味〉がわかるからだ。意味もわからずにカタカナを列挙されると、それは単に物理的な音の連続にとどまり、〈理解〉ではなく、単なる〈記憶〉の課題に堕してしまう。面白くない授業だ。 英語ができない学生に、音で記憶させるというのは、単なる“しごき”に過ぎない。英語で教えた方がはるかに負担は低い。そうしないで、「日本語の常識も知らない学生に英語で教えるなんて、とんでもない」と言う教員は、単に自分もまたカタカナで覚えてきた、英語を知らない教員にすぎない。そんな状態を放置するから整備業界(自動車整備業界)のレベルも上がらないのだ。現にメーカーの配布する整備マニュアルは誰にでもわかるように工夫されている。要するに「整備工」というのは、労働社会学の用語で言えば、「マニュアル職」に過ぎず、〈意味〉を理解して働く職業扱い(=専門職扱い)されていない。だからこそ、カタカナがあふれた「マニュアル」や「教科書」になってしまうのである。そんなものにわが東京工科専門学校の自動車整備科は倣ってはいけない。 K先生の授業はその点で決意と工夫がある。自動車系の教員は、場合によってはクルマよりも英語に詳しくなければならない。英語の苦手な教員はすぐに「自動車用語辞典」などを引いて、そのままそこに書いてある英語用語を記載したりしているが、それではダメ。それは英語の苦手な教員のすること。まともな教員であれば、普通の英和辞書(「ジーニアス英和辞典」が抜群にいい)をひいて、“普通の”英語の意味を把握した上で説明を試みるものだ(したがって、机上に「自動車用語辞典」だけを置いて普通の英和辞書のない教員は減点だ)。たしかに「タンデムマスタシリンダ」は縦列に(=直列に)馬が並んだような構造をしている。専門用語辞典(「自動車用語辞典」)では、その意味がすでにテクニカルターム化(=硬直化)しており、日常的な意味が摩滅してしまって、理解に資する記述が少ない。特に自動車系の専門用語辞典にはろくなものがない。「マニュアル職」扱いされてきた“上級職”が書いている場合が多いからだ。 そもそも専門分野の教員で「専門用語辞典」を引くこと自体が素人の証拠。それは「教育」のことを知りたいから、「教育」という文字が背表紙に出ている本を捜して読む素人の本の読み方に似ている。そんなところに「教育」について大切なことなど書かれているわけがない。言葉の世界を馬鹿にしてはいけない。 H先生の授業も従来画像(写真)だけだったが、それに→(矢印)つきの解説文字(部品名称にとどまっているが)が加わった。しかも→はアニメーション付きだ(パワーポイント初中級)。最初、部品画像だけがでていて、解説とともに、→付き部品名称が出てくる。印象も強い。前回の授業の問題点が圧倒的に改善されている。次の注文をいえば、パワーポイントスライド内の文字だけにではなく、学生の手元の資料への参照(場合によってはノート筆記)も随時指導したほうがいい。学生を観客状態にしてはいけない。授業は講演ではない。もう一つ。H先生の授業では、K先生に見られた部品名称の英語説明について、まだカタカナ指導しかできていない。〈意味〉に踏み込んだ部品の説明をして欲しい。 T先生(『2輪車の構造特性』という科目の3コマ目「2輪車の燃料系統」という授業)は、授業シートと授業内容が一致し始めたところに進歩が見られるが、やはりパワーポイントを使っていない分、授業の内容に任意性(恣意性)が高い。典型的な板書依存+トーク依存型の授業。これでは本人も進行上不安定感を覚えるのではないだろうか。最初のうちは、文字だけでもいいからパワーポイントに言いたいこと(教えたいこと、理解してほしいこと)のストーリーを書き込んで展開した方がいい。 講演であってもよほどの名手でない限り、パワーポイント(別にパワーポイントでなくてもいいが、とにもかくにもメディア)を使った方が話すことの内容は安定する。聞き手も安心して聞いていられる。何よりも復習できる。それにトークでは、何が重要な内容で、何が伏線の情報なのかを見極めるのが難しいが、パワーポイントなどで主要な内容を文字にしておくと何が要点なのかを把握しやすい。 もう一つ、パワーポイント化(=メディア化)の重要な要素は、自分の授業記録になるため、次回や次年度の同種の授業を担当したときに次の展開(内容の高度化、授業方法の進化・深化)を考える資料になる。トークと物教材に頼る指導、あるいは教科書や雑誌の一部分を任意に切り取ってきて(コピーして)、それを「サブテキスト」などと言いながら教える指導(ようするに行き当たりばったりの教材指導)は、何年経っても腕前があがらない。 なぜか。それはその教員が無能力だからではなくて、指導の記録がないからだ。何を話したか、何を教えたかったのか、何を教材で使ったのかがわからない授業は何回、何年教壇に立っても進化・深化のない授業にすぎない。同じ失敗を繰り返している授業に過ぎない。工夫を一回ごとの使い捨ての工夫でしか行わないため(雑誌や教科書のコピー教材を保存して教材体系化している教員を私は見たことがない)、大概の失敗を学生の「基礎学力」不足のせいにして済ましているのである。 パワーポイント化のメリットは、もっとある。インターネットの情報を自由に取り込める。 たとえば、T先生の今回のコマ目標「2輪車の燃料系統」の重要用語「キャブレター」では以下のアドレスhttp://www.geocities.co.jp/MotorCity-Pit/4946/untiku12.html、http://www.st.rim.or.jp/~iwat/meiji-6/meiji-6.html、「可変ベンチュリ」という用語では以下のアドレスhttp://ww9.tiki.ne.jp/~nagayama/fcr1.htm、http://ww9.tiki.ne.jp/~nagayama/kcab.htm、などなど(適当に選んだので間違っているかもしれないが、これらは氷山の一角。専門のT先生が真剣に捜せば教科書よりははるかに面白い情報が転がっているはず)、これらの情報がたとえ教科書と同程度だったとしても決定的に有益なのは電子化(デジタル化)されているという点。自由に編集して自分のパワーポイントのスライドに取り込むことができる。板書に下手な絵を(時間を無駄にかけて)描くよりははるかに適した図像がインターネット上には転がっている。複合検索を重ねていけば、そのコマに適した教材情報を見つけるという点では、手元の雑誌や教科書をパラパラと捜すよりもはるかに速い。つまりパソコンを駆使できない教員は、この時代においてはもとから教材を作ろうとしていない教員なのだ。公立学校の教員には未だにワープロさえできない教員が多い(「学級通信」を未だに手書きで書いている教員がいる)。教材に対する関心が薄いのである。 建築工学科3年目の高瀬先生は初期の頃からパワーポイントで、授業展開を試みている。1年目はさすがに文字が多かったが、二年目には画像・図像が増え、三年目の今年には、教科書の中身(文字段落)をデジカメで撮り(文字の重要なポイントを赤枠で囲み編集し)それをスライドに貼り付けながら講義をし始めた。こうすると単にテキストを読み合うよりも参照指示性が高くなり、建築法規の退屈になりがちな授業も充実する。要するにすべての内容をスライドに集約し始めたのである。 この問題は、あれこれの授業法の問題なのではない。むしろ重要なことは、毎年毎年高瀬授業が高度化していることである。1年目、2年目、3年目と彼の授業には変化(進化)がある。授業そのものがそうだし、なによりもそれがスライド(パワーポイントの)の充実に現れている。パワーポイントスライドは単に授業方法や表現の媒体なのではなくて、授業記録なのである。記録があるから、変化もわかる。失敗の自覚もある。だから改善点もよく見える。それが次のスライド作りに役に立つ。 高瀬先生は、人一倍、いつも自分の授業を反省している。それはスライドに自分の授業を集約しているからだ。消え去る板書、消え去るトーク、消え去るコピー紙教材では、それができない。教員だけは、長年いるからと言って、良い教員とは言えない。学校は学生が変わるだけで先生は変わらない、そういう場所だった。先生だけが一番勉強しない人種だった。その最大の原因が、授業を記録しないことにあったのである。 T先生もその意味では、もっとパワーポイントやインターネットを使うべきだ。周りにH先生やK先生などその使い手の“名手”がいるのだから、すぐに教わればできるはず。それを今の内にやり始めないと、何年たっても同じ失敗を繰り返す、“古手”教員になってしまいますよ。 |
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