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184 8/27(水)
01:04:28
 久米宏の降板と横山やすし、みのもんたと佐々木信也。  メール転送 芦田宏直  10111 

 
久米宏が『ニュースステーション』を降板するらしい(今日26日、ニュースステーションでその会見を流していた)。1985年に始まった、この番組だが、彼のトークを支えていたのは、78年に始まった『ベストテン』(TBS)の生放送のトークだった。そう普通思われているが、私には彼に影響を与えたのは、横山やすしだったと思う。『久米宏のテレビスクランブル』(日テレ)という番組(同じく生番組)が83年から2年間続いたが、この番組でたまたま特別ゲストに登場した横山やすしが決定的だった。とにかくすでにこの当時から横山やすしはハチャメチャで、「まだ横山やすしさんはスタジオに来ていません」なんていうのは当たり前。登場しても完全に酔っぱらっていた。それが話題になり、横山やすしは「特別ゲスト」ではなく、いつのまにかレギュラーになっていた(いつくるかわからない「レギュラー」というのもおかしなものだが)。生放送で横山やすし(それも酔っぱらった横山やすし)は何をしゃべり出すかわからない。それは黒柳徹子を相手にするよりははるかに自らのトークに芸や技を要求されることだった。それを乗り切ったすえの『ニュースステーション』だったのである。久米宏は生放送の久米宏だった。横山やすしなしには、『ニュースステーション』は存在し得なかったのである。

こういった変化というのは、みのもんた(http://www.sponichi.co.jp/entertainment/meikan/ma/minomonta.htm)も同じである。彼に影響を与えたのは、佐々木信也(http://www.ask.ne.jp/~raffina/)だ。佐々木信也が『プロ野球ニュース』(http://www.fujitv.co.jp/jp/cs/program/7393_005.html)で切り開いたトークは絶品だった。軽い笑みを浮かべながらのソフトな野球解説(ソフトでありながらも元プロ野球選手としての実績に基づいた専門的な解説)でもって、野球解説を完全なエンターテイメントに変化させた。今の野球解説のスタイル(=パラダイム)は、すべて佐々木信也に負っている。

この後任の司会者になったのが、みのもんた。ラジオでしか記憶のなかったみのもんただったが、彼が『プロ野球ニュース』の佐々木信也の後任でテレビマイクの前に立ったとき、軽い笑みのソフトな語りをべたべたに真似たトークでそれを引き継いでしまった。私は、そのとき、アナウンサー(司会)として素人の佐々木信也をなぜ長年プロでやってきたみのもんた(「セイヤング」でDJとしてのしゃべりを確立していた彼)が猿真似のように真似なきゃいけないんだ、とみのもんた(のアナウンサーとしての職歴)を軽蔑したことを今でもよく覚えている。最初は気持ち悪くて聞いていられなかった。その後「珍プレー・好プレー」のナレーションで、徐々にみのもんた風にトークが洗練され(それでも佐々木信也がきりひらいたトークの体裁を前提にしている)、いまのみのもんたのトークが確立する。しかしみのもんたがどんなに成長しても金持ちになって銀座を豪遊しようが、佐々木信也なしには今のみのもんたは存在していない。

私には、久米宏のような修練の仕方は好きだが(渡辺真理http://www.oto.co.jp/otowatamari.htmlを入れた時から『ニュースステーション』はすでに終わっていたが)、みのもんたの変化はやはり許せない。みのもんたの変化はトーク芸の進化とは言えないからだ。そういった自分を捨てる変化の仕方は、それ以後どんなふうに自分のトークを確立しようと信じる気になれない。その意味では人間は変化すべきではない。そういったものを「成長」を呼ぶべきではない。

ジャーナリストや評論家がそれなりの年季を経て大学教授になるような変化の仕方にそれは似ている。私は宮崎哲弥(http://justice.i-mediatv.co.jp/miyazaki/index/01.htmlhttp://www.shobunsha.co.jp/html/tyosya/tyosya-03-1.html)もそうだと思うし(最近『朝まで生テレビ』http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/に似合いもしないスーツ姿で出てくるときがあるのがその証拠)、朝日新聞の石川真澄(http://www.sakuhokusha.co.jp/shohyo/25sengo.htm)もいまや地方大学(新潟国際情報大学)の“教授” 、岩波書店の『思想』編集長の合庭淳も今では静岡大学の教授に“成長”している。こういった人たちの最大の問題は、自分単独で何一つ切り開けもしないのにいつのまにか与党に回るという世渡りの仕方だ。佐々木信也や横山やすしには、単独で歴史を切り開いたという、単独でも与党(与党というの本来は単独なものだ)というプライドがあったが、今のマスコミ人には、そういった単独性を担いうる人材がいない。私には、かつての久米宏や佐々木信也に、はるかにインテリジェンスの本性や良質な孤独を感じ取れる。

むろん筑紫哲也(http://www.tbs.co.jp/news23/)なんかどうでもいい人材だし、田原総一郎(http://www.sakushin.ac.jp/21st/koushi/tahara.html)は、マスコミを信じすぎている。宮沢喜一を自分のインタビューで総理の座から引き下ろして得々としているが、宮沢喜一が総理大臣であろうがなかろうが、世の中は何も変わっていないということになぜ彼は気づかないのだろうか。一日1回は必ず総理インタビューをやるという歴代の総理が一回もやらなかった小泉のマスコミ操作(たぶん、田中秀征http://www.shuusei.com/あたりの入れ知恵だろうが)が、支持率を降下させない最大の貢献役だったとしても、それは小泉が佐々木信也や久米宏(=横山やすし)のようなトークの与党性(歴史性)を有していることとは何の関係もないことだ。小泉や宮沢は、単にいつでも節約をしたがる大蔵省に過ぎない。宮沢の方は少しはケインジアン(http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/Nenpo/vol9/suzuki.pdf)ふうなところがあるが、それでも大蔵省に過ぎない。だから彼らが辞めようが辞めまいが世の中は田原が考えているほど変わりはしない。佐々木信也や久米宏が世の中を変えたほどには変えはしない。そういった社会的に微細な変化については田原やマスコミはいつも鈍感だ。


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