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180 8/12(火)
23:57:07
 今日は、私の49歳の誕生日。  メール転送 芦田宏直  3084 

 
 今日は私の49歳の誕生日。49歳と言えば、私の好きな織田信長が本能寺で死んだ歳だ。私の49歳は、私が倒れずに家内が倒れたが、それはまだまだ私がやるべきことがあるという“神”のお告げだということにしておきましょう。たしかに最近の仕事は、最高に面白い。多くの大学、短大、専門学校がつぶれ、日本の高等教育全体が大きく変化しようとしている。戦後、一番つぶれない組織の二つが銀行と学校だったが、その二つが崩壊する、ということは、どんな会社もつぶれてもおかしくないということだ。この二つの組織に共通することは、どちらも高学歴者(専門学校はそうでもないが)が占める組織だということだった。その組織が崩壊しつつあるということは、学歴社会の崩壊とほとんど同じことを意味している。学歴社会のおこぼれをあつめてきたに過ぎない専門学校も同じように崩壊しつつある。

 学歴社会は、終身雇用の崩壊と共に崩壊しつつある。学校以前と学校以後とは、これまで一回の仕切で分けられれていた。就職の手がかりは、その場合〈学歴〉しかなかったのである。しかし学校以後の雇用が雇用の流動化と共に複数回にわたって経験されることになると、就職の手がかりは〈学歴〉だけではなく、前社の仕事の実績が問われることになる。〈実力〉が問われるというのは、そういうことだ。

 そうなると一回目の手がかりとしての〈学歴〉も意味が変わってくる。終身雇用は、社内教育を想定していた。したがって、新入社員の人材像は、「素直で、何事にも前向きで、好奇心があり … 」という無垢な積極性とでもいうべきものが求められていた。後は会社で教育する、という人材像である。しかし社内教育というものはもはや存在しない。社内教育の体系は、かっては主任、課長補佐、課長、部長といったポストの体系だったが、そういった重層的な体系は“情報化”にともないどんどんフラットになりつつある。単にフラットになるだけではなく、大きな会社も事業部単位で“カンパニー”になり、すべての会社が小さくなりつつある。そうでなければ、この時代の〈変化〉(の速さ)について行けないからだ。

 小さくなればなるほど、〈個人〉の力が問われるようになる。〈学歴〉のような抽象的な能力は、もはや〈個人〉を形成する動力にはならない。かつての大企業に勤める高学歴の人材は、大企業の一部分を占める存在に過ぎなかったが、小さな組織では、何でもできる人材として、全体を担う〈個人〉でなければならない。企画もし、営業やマーケティングもし、経理・財務さえできる〈個人〉でなければならない。この時代においては、すべての社会人は、事業家なのである。こういったトータリティや自立性に大学の人材教育はまったく役に立たない。相変わらず、教授単位の講座制によってカリキュラムは科目相互に分断され、総合的な教育はできないままだ。大学教授自身が単なる(部品としての)スペシャリストに過ぎないからである。

 専門学校は、理美容や調理の世界、いわば〈職人〉になりたい若者たちの特殊な領域だった。この領域の特徴は、30歳にもなれば、自立する存在であるという点で、大企業の部品になっていた高学歴者とは別の人格、人材像を形成していた。専門学校の学生は昔から事業家志望の人材を集めてきたのである。この傾向は今日の人材像に結果的にかなうものであったと言える。そこに積極的な意味を見出すことを専門学校関係者自身が怠ってきただけのことだ。

 残念なのは、専門学校の内部に本格的な事業家教育のカリキュラムが存在していないことだ。「職業教育」と言いながらも、単に「マニュアル職」の枠に過ぎない「職業」教育、つまり大学生の手足になる「職業」市場に学生たちを送り込んできたに過ぎない。しかし、「マニュアル職」程度なら、“外国人労働者”で充分だろうし、国内市場としてはどんどん縮小していくに違いない。事業家形成としての新しい職業教育なしには、専門学校の存在する意味はない。もはや、大学をライバルとする職業教育であってはいけない。

 私は、毎年3月に入学前の保護者を招いて学校説明会を開催し、学校方針なり時代認識を開陳することにしているが、保護者の顔つきは真剣そのものだ。大学に行けなかったから、わが校を選んだという消極的な選択をする保護者は年々減っている。もはや大学の時代ではない、という認識は、私より世間の方がはるかに先に行っているような気がする。リクルートは「学歴社会の崩壊」「スペシャリストの時代」「実力の時代」と言いながら、社員の多くは息子や娘を名門私立学校に入学させているが(文科省の役人も同じ)、私も含めて、こういった教育関係者自身がもっとも保守的な人種であるのかもしれない。世の中は、私(たち)の“認識”よりももっともっと急激に変わりつつあるのである。

 銀行よりも、大学よりも、そしてどんな専門学校よりも、真っ先に私の学校は変わってみせる。グローバルに変わってみせる。それが、私の49歳の決意だ。


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