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15 6/29(土)
19:47:20
 東京工科専門学校の教育改革(2)  メール転送 芦田宏直  2460 

 
先の「芦田の毎日」(9)の記事 (http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=9 )につづく。


●東京工科専門学校の教育改革(2)

 ところで、「授業評価」とは、一体何か? 評価のためには、目標がなければならない。その授業が“いい”授業か、“悪い”授業かを評価するためには、いったいその授業が何を目標にしてなされているのかがはっきりしていなければならない。「シラバス」は、その意味で、一つの目標提示にはなっていたが、それが「授業評価」に何の役にも立たないのは、実際の授業は、一つ一つの時間割の中で展開していくものであり、そして授業評価は実際の授業に向けられなければ意味がないからである。シラバスをいくら詳細に検討しても授業評価にはならない。そんなことは文献学者に任せておけばいい(「文献」にすらならないかもしれないが)。

 われわれの教育改革が始まったのは98年だったが、机上の論議は止めて実際の授業の中に入り込むことにした。他の科長や教員、総務のスタッフなど“異分野”のスタッフも含めて、50クラス以上の授業で、一授業に10人くらいが授業見学し、その日の内に担当教員を交えた授業評価会を実施した。この授業評価会をやってはじめて(今更のようにでもあるが)わかったことは、評価がばらばらだったということだ。「この授業はダメだ」という人もいれば、「そんなに悪くないじゃないか」という人もいる。

 なぜ、そんなことになってしまうのか。理由ははっきりしていた。まずまともなシラバスが存在していない。あったとしてもほとんどが抽象的。また具体的に書かれているものでも、コマ展開毎(時間割展開毎)の内容になっていないので、実際の授業評価に入った“その”授業(“その”時間)で何を教えるべきなのかを示すものがどこにもない。科長さえそれをつかんでいない。“その”授業で何が教えられるべきかがわかりもしないのに、授業評価ができるわけがない。せいぜいのところ、教員の声が小さい、板書の字が乱雑、学生が寝ているのに注意をしないといったことしか言えない。これでは、授業評価にならない。

 実際の授業に入って、その同じ授業を同時に見学しながらも、参加者が行う授業評価がバラバラだということは、その学校が学校として学生を受け入れる体制になっていないということである。教員が個人的に授業を行っているだけの学校だということだ。

 少子化問題における入り口側(入学時)での“基礎学力”低下。インターネット時代における出口側(卒業時)での即戦力養成、高度職業人養成。この矛盾した難問に答えるためには、もはや教員個人で学生に対応することは不可能だ。幾重にも教員や個々の授業をアシストする環境を形成する必要がある。もちろん、これは教員の個人的な能力の過不足の問題にとどまらない。

 そもそも、学校は、学校として学生を受け入れるのであって、個々の授業に向かって学生を受け入れるのではない。個々の授業は、学校としての人材形成を約束するための一ステップ、学校として卒業生を送り出すべき一ステップにすぎない。個々の授業評価にブレがあるということは、その学校が学校としての教育目標を持っていないということと同じことである。つまり、学校として入学生を受け入れ、学校として卒業生を送り出すという目標を有していないということである。授業評価にブレがある学校は学校ではない。こんな単純なことが今まで看過されていたのは、学校が学生を「選ぶ」ことのできる“幸福な“環境にあったからである。個人的にしか教えない先生と何もしない名誉職的な校長先生という幸福な環境に長らくあったからである。(次号につづく)


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