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143 4/13(日)
21:48:12
 2003年度・東京工科専門学校入学式 「式辞」  メール転送 芦田宏直  10611 

 
4月7日(月)に東京工科専門学校グループ(東京工科専門学校、東京工科専門学校世田谷校、東京工科専門学校品川校、東京テクニカルカレッジ)合同の入学式が中野サンプラザ・大ホールで挙行されました。今年の入学生数は昨年の約20%アップ。わが学園の教育改革(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)が認められつつあるようです。

入学式式辞を4校を代表して話しましたが、式辞ばかりは、なんどやっても思い通りには話せません。3月の卒業式式辞に続いて、やはり話したいことの7割も話せませんでした。原稿を用意してそれを読めばもう少し様になるでしょうが、それは性に合わない。今回も原稿なしでしゃべり続けましたが、やはりうまくいかない。パワーポイントあたりを使って式辞を行うのも一つの手かもしれません。毎年、式辞の集中する3月4月は(めでたいことながらも)憂鬱なときです。今年は、昨年の式辞(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=612&e=msg&lp=612&st=)が「長すぎた」という不評を買っていましたので、意識して半分くらいに短くしました。以下は、補正を施した式辞の再録です。


●2003年度 東京工科専門学校グループ入学式式辞(於:中野サンプラザ・大ホール)

入学おめでとうございます。

校長がみなさんの前で話すとしたら、入学式と卒業式の時ぐらいですから、今日はみんさんに対する、わが学園の最初の授業だと思って、すこし私のお話を聞いてください。

実際ここ数年、私が講義をすることなどほとんどないのですが、最近、建築系の授業に飛び込み参加して、1時間授業を行いました。

私は、東京へ出てきてから4回マンションを引っ越ししていますから、ちょっとした、マンション「ユーザー」です。その立場から話をしてほしいと科長に頼まれまして、1時間授業を行いました。

そこでショックだったことがあります。私が、どんな間取りが生活しやすいのか、という話をしているときは、みんな学生たちは、関心をもって聞いていたのですが、どんなマンションが将来値上がりをするのか(最近は値上がりするマンションなどありませんが)、どんなマンションが値下がりが激しいのか、つまり資産価値があるのはどんなマンションなのか、という話をしているときは関心が薄そうに見えました。あとで科長に聞いてみたら、まだ自分でマンションを買うには年齢が若すぎて、実感がわかないというのです。何千万もするマンションの売り買いには二十歳にもならない若い皆さんには実感がないというのです。
 
もう一つの経験で、今度はエンジンメンテナンス科の学生の前で30分くらい話す機会があって、せっかくエンジンメンテの学生で、エンジンに関心のある学生なのでしょうから、BMWのチューニングメーカーで有名なアルピナのエンジンの話をしてみました。ところが、この話に誰も乗ってこない。後で、学生に聞いたら、「俺たちは外車は嫌いだ」と言う。「だって高くて買えないもん」とのこと。「BMWさえ買えないのに、アルピナの話なんかしやがって」。それでもう誰も私の話を聞いてくれない。
 
二つの話の共通点は自分の買えないものには関心を持たないということです。若い学生らしい素直な話です。高校生までは、そういった生活感の共同体のようなものが確かにありました。自分の家が金持ちの生徒は、携帯電話が出るたびに買い換えたり、モバイルパソコンを見せびらかしたりと、大概そういう「奴」は嫌われ者でした。その意味で、ある種の共同性の(違和感のある「奴」を追い出す)連帯があったわけです。それが学校の“共同性”というものでした。先生たちも、大学を出てすぐの新米の時から、「先生」なんて言われて、この人たちも、いわば学生の延長のような社会人として、そういった学生的・生徒的な“共同体”に馴染んでいる人たちでした。
 
しかし、大学や専門学校というところは、出口は(ふたたび)〈学校〉ではなく、〈社会〉です。〈社会〉だということは、子供から老人まで100年間の年齢の幅のある人たち、思想も、生き様も、性差も、経験も、生まれも、学歴も、職種も違う人たちを一気に相手にしなければならないということです。

あなた方自身は、お金を持ってはいないかもしれない。入るレストランもファミリーレストランが関の山かもしれない。友達もその程度かもしれない。先生も“学校”という世界しか知らない人たちだから、“世間知らず”かもしれない。そういった共同体を超えて、お金持ちから、お金のない人、生まれたての子供から、自分の身体(からだ)さえ動かせない年老いた人たちまでをも一気に相手にしなければならないそういった現実が、後2年後3年後にすぐにやってきます。そういった人たちと対等に話ができなければならない。対等に話すどころか、その人たちにあてにされるような仕事ができなければならない。自分の生活や経験の範囲を超えた人たちとの連携、あるいはその強いられた関係があるところ、それが〈社会〉であり、その社会人の世界にもう後一歩でみなさんは出ていく、それが専門学校という出口だということです。もはや学生時代のように友達や関係を選んでいればいい、気の合う人たちとの付き合いだけで事が済む時代は、卒業し始めねばならない、その場所が専門学校です。
 
専門学校は、その意味で、「実践的」なことを学ぶところです。「実践的」とは何か。それは、行動することではありません。「行動」なんて誰でもできます。自律神経なんて、ほおっておいても動いています。

「実践的」とは、自らが作者であると共に登場人物でもある関係の中に入ることを意味します。高校までの教科書には、できあがったストーリーがありました。「問題」も「答え」も用意されていました。できあがったシナリオを観客のようになぞっていたのが、みなさんの勉強の仕方でした。しかし、みなさんが2年、3年後に出ていく社会には、できあがったストーリーなどありません。自分自身が、もはや読者ではなく、登場人物であるのですから、自分がどんな態度を取るのかによって、相手の出方も変わってくる、自らがシナリオの作成者でもありながら、登場人物でもある。社会人になる、仕事をするというのは、そういった避けられない関係の中での作者であったり、登場人物になるということを意味します。

先のインテリ科の例でいえば、マンションを何千万円も払って買う人、一生に一度の買い物をする人を相手に、仕事をしなければならないということです。自分が買えるかどうかといった個人的な問題は社会や仕事の現場には一切存在していない。場合によっては自分が一生買えるものではないマンションであっても、あるいはクルマであっても人に売らなければならない。それが仕事というものです。それが「実践的」ということです。「実践的」とは、「理論的」の対立語なのではなくて、「個人的」の反対概念なのです。

ホンダのV-TECKエンジンがよく回るといっても、アルピナのエンジンはもっと気持ちよく回る、1速で回しても3速で回しているようなスムースさがある、そう言われたときに、それは「知りません」、「私の習った教科書には書いてありませんでした」と言うわけにはいきません。かといって、知ったかぶりをするわけにもいかない。さて、そんなとき、みなさんは、なんていう受け応えをしますか。それが〈社会〉という舞台での「試験問題」です。

こんな問題には、教科書がありません。専門学校が最後の勉強場所だということは、そういった自分の知識や経験を越えた難問に答える訓練をしなければならないということです。

専門学校の先生たちは、高校までの先生のように、学校を出て、すぐに「先生」になった人たちではなくて、社会に出て、仕事を重ねて、その経験や研鑽をもって、先生になった人たちです。本来の「先生」とは、単に先に生まれた人のことを言うのではなくて、先に社会に出た人たちのことを言うのです。教科書にはない多くの難問を解いてきた人たちが、みなさんのこれからの学習をリードしていきます。

もはや、みなさんは、社会を、教科書を読むようにして傍観するのではない。社会の登場人物に自らなりつつも、社会を作り、社会をリードする、そのための勉強を始めなくてはならないということです。そのことを一番よく知っているのが、みなさんが選択され、入学された東京工科専門学校であり、東京テクニカルカレッジだということです。

これからの2年間、3年間の、私どもの学校での勉強が実りあることをお約束し、かつまた期待して、私のお祝いの言葉に代えたいと思います。(了)


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