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1104 | 10/16(日) 21:23:42 |
大学生と専門学校生との違いだって? ― リクルート「IT業界研究会」に参加して | 芦田宏直 | 0 | 4360 |
先週の金曜日(7日)は、例の国立がんセンター(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=1103)の後、ホテルヴィラフォンテーヌ汐留(http://www.villa-fontaine.co.jp/shiodome/)での、リクルート社主催の「学びワークショップ『IT業界研究会』」に参加してきた。 リクルート社いわく「ご参加いただく学校関係者様各位におかれましては、今回のワークショップを通じて今後IT業界において必要とされる人材像をより具体的にイメージ・共有頂ける機会にして頂くべく、IT業界の有力企業人事セクションの皆様をお招きしての情報交換会など、人材開発現場の活きた情報満載の企画をご用意して当日のご参加をお待ちしております」とのこと。 参加企業は、 リコーテクノシステムズ(http://www.r-ts.co.jp/) DTS(http://www.dts.co.jp/corp/01.html) J−COMテクノロジー(http://www.csec.co.jp/) テンアートニ(http://www.10art-ni.co.jp/) セゾン情報システムズ(http://home.saison.co.jp/SIS/) 伊勢丹データーセンター(http://www.isetan-data.co.jp/) の各社。 参加する専門学校は わが東京工科専門学校 日本工学院専門学校 日本電子専門学校 情報科学専門学校 読売東京理工専門学校 大原情報ビジネス専門学校 の各校。 企業も学校も2名以上の単位で来ているため、参加者25名を越える“ワークショップ”になり、しかも、机配置が長方形であったため(そのうえ、中途半端に大きな会議室であったため)、私は会場に入った途端に、「今日はダメだ」と直観した。案の定、司会者がマイクを握って、一人一人にあてて意見を聴取することになったこともあって、形式張った会議になった。面白くも何ともない“ワークショップ”になった。 この種の会議で議論される人材像については、ほとんど接客対応能力やコミュニケーション能力(あるいはヒューマンスキル)という言葉が前面化する。この言葉を直接使った企業がやはりこの会議でも4社あった。 専門学校の関係者の方も、それに対応しようと努力している、と応えるのが精一杯。これでは面白くも何ともない。 具体的な職業能力(職業的な専門能力)という点では、入社してからでもどうにでもなるから、接客対応能力やコミュニケーション能力(あるいはヒューマンスキル)の基本を植え付けておいて欲しいという“要望”が企業側からよく上がる。 私は、この言い方は半分ウソだと思う。もしこの言い方を倣うとすれば、接客対応能力やコミュニケーション能力こそ、入社してからのon the job教育の方がはるかに効果的な成果を上げられるものであって、学校教育の方がはるかに不得手なものであるにちがいない。 学校時代、遅刻だらけで、まともな会話一つできなかった学生も社会人になると見違えるように一人前の社会人になっている。これは、企業が育て上げたというよりは、社員として関係を持つ教育の強さにすぎない。現に、学生であってもアルバイトなどに精を出す学生の方がはるかに「接客対応能力やコミュニケーション能力」に長けている。時間割やカリキュラムに余裕のある大学生の方がはるかにアルバイトに精を出す率が高いし、また本格的なクラブ活動によって先輩・後輩の“主従”関係(=“組織論”)から「接客対応能力やコミュニケーション能力」という点で大学生が専門学校生よりもはるかに優位にあるのははっきりしている。 しかし私は、こんな能力こそ入社してからの年月でどうにでもなる“能力”だと思う。大学は、大学のカリキュラムや教育体制が解体している分、むしろ専門学校生よりも、学校外で(=社会で)学ぶチャンスが多い。その分、結果的には専門学校生よりも先に“社会人”になっている。そのうえ、一般的には2才年上になる。20歳前後の2年間というのは、どこで学ぼうが、どんな教育を受けようがかなりの違いが出る2年間だ。 この間も、I.I.I(インテリア・インターンシップ・インコーポレーション)の第6回平成17年度企業研修報告会がわが校で行われ、大学、短大、専門学校などの10名(10組)を超える学生たちが企業研修報告を行ったが、聞いていて「なかなか立派なものだ」と思えるものは、そのすべてが新卒の学生の発表ではなく、20才を優に超えた既卒者ばかりのもの。いずれも20代半ばの社会人経験者(あるいは大学卒業後の専門学校生)。だから、これは学校や教育の能力というよりは、発表者本人の経験に負うところが多い。 大概の学校の、こういった他流試合の場面では、学校の教育色というよりは、学生本人の能力や経験(あるいはそうでない場合には指導教員の個人的な趣味)が前面化し、カリキュラムや教育全体の特徴をはかる成果指標にはならない。 現在の面接試験で表れる能力もまたほとんどの場合、そういった個人的な“能力”(年齢と経験)の諸指標にすぎない。パーソナリティやヒューマンスキルといったものに集約される人材像は、学校の能力を超えているものがほとんどなのである。厳密に言えば、学校の教育力が個人的なパーソナリティやヒューマンスキルに打ち勝つだけのパワーを持ち得ていない、というのが私の反省だ。年齢や経験に勝る教育が存在していないのである。 もう一つの反省は、大学も専門学校も、まともな専門性教育(職業的で実践的な専門教育)を一切やってこなかったということ。だから企業の人事部の、パーソナリティやヒューマンスキルに関する要求は、せめてそれくらいはまともであってほしい、という消極的な要求だと私は“解釈”している。 たとえば、リクルート(進学情報DV.ソリューション推進室)は「高等教育機関はIT業界のニーズに対応する教育コンテンツを提供してきた」という(“自ら”が作った)パワーポイントスライドの一枚で、80年代は「メインフレーム」の時代、90年代は「クライアント/サーバー」の時代、00年代(現代)は「サーバー統合・メインフレーム復活?(?はリクルート)」の時代と分類しているが、これは一体どこの誰に聞いて、こんな分類になったのだろうか。 ここに致命的に欠けているのは、インターネットの普及という観点だ。90年代を「クライアント/サーバー」の時代というのなら、00年代は「WEBアプリケーション」(インターネットの全面的な開花)の時代に決まっている。もう少し厳密な言い方をすれば、90年代以前の「クライアント/サーバー」は特定者のネットワーク技術の世界だったが、00年代では不特定多数がぶらさがるネットワーク技術(=インターネット)の時代になったということだ。今では社内外のネットワークがWEBアプリケーションで構成されている(20世紀最後のIT用語は、「イントラネット」という言葉だった)。 だからこの「サーバー統合・メインフレーム復活?」という言い方は、古い技術を延命させるための名称(分類)にすぎない。たぶん銀行の基幹業務など古い時代から大型汎用機やオフコンを使っている分野の更新技術だけを睨んだ、後ろ向きな分類がこの分類であって、さすがに、言い過ぎかなという迷いが「?」に表れている。 大概の大学や専門学校の情報系教員の分類が、この分類の仕方だと言える。古いC言語しかできない連中が、「IT業界のニーズ」を語ると必ずこうなるという分類にすぎない。だから、この連中の描く「サーバー統合・メインフレーム復活?」の時代の人材像は「業務改善的なメンテ」用員(リクルート)でしかない。これが、どう新しい時代のIT技術者像なのか? 現在の大学や専門学校で、WEBアプリケーションを作成できるカリキュラムを有しているところは皆無だ。理由は簡単。JAVA(あるいはPHP http://www.php.gr.jp/#php)やオブジェクト指向(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kitada/3H/tv.htm )、UML(http://www.ogis-ri.co.jp/otc/hiroba/technical/Jouhoushori-UML/UML1.html)などを本格的に教えることのできる技術者など、教員なんかやる暇はなく、現役の技術者であってもそう多くはない状況だからだ。というか、ひっぱりだこの人材なのである。 われわれの学校でもJAVA言語の科目はいくつもあったが、それを古い世代のC言語の教員が自習して教えるため、新しい、オブジェクト指向のJAVA言語を教えながらも、手続き型(構造化設計)で(=C言語を教えるようにして)、それを教えてしまう、というバカなことをやっている。つい最近までそうだった。 たぶんほとんどの専門学校・大学では、本格的なオブジェクト指向の世界を教えることができていない。科目が散漫に配置してあるだけで、まともに教えようとするだけの時間数が決定的に不足している。 専門学校の情報系のほとんどは、どんなに専門的に分化した多様な科を有した学校であっても、旧通産省時代に起源を持つ「基本情報技術者」(http://www.jitec.jp/1_17skill/pdf20040329/FE0329.pdf)資格に汚染されている。 この資格試験は、二つの特徴がある。一つはC言語はもちろんのこと、COBOL(http://e-words.jp/w/COBOL.html)、CASL http://d.hatena.ne.jp/keyword/CASL(=アセンブラ)、JAVAの4つの言語から選択して受験できること。二つ目は、ビジネス系の内容が10%〜20%くらいは試験に出ること。 この二つの特徴が、「基本情報技術者」に走った専門学校の悲劇の始まりだった。 受験言語(古い言語)が選べるために、いつまでの旧タイプの言語しか知らない教員の延命に手を貸したことが第1の悲劇。さすがにFORTRAN(http://e-words.jp/w/fortran.html)は、平成13年度に試験科目としては廃止されたが、JAVA以外の言語は、専門学校の古い技術者が昔取った杵柄(きねづか)のままで教えられる言語にすぎない。C言語の先端活用は、極端に言えば、ゲーム分野においてくらいのことだ。 もっとひどいことに、「基本情報技術者」で扱われるJAVA言語の試験問題自身がまるでC言語の技術者が作ったようにして非オブジェクト的な設問になっている。それにまともなJAVA技術者が継続的に関与しておらず、JAVA言語問題だけは毎年設問の難易度レベルが上下するため専門学校関係者もJAVAで受験させようとしない。“現代の”プログラマーと言えば、JAVA(やPHP)のオブジェクト指向プログラマーであるにもかかわらずである。今やC言語でさえ、オブジェクト指向に転換しつつあるにもかかわらずだ。社団法人(あるいは独立行政法人)の天下りのように、古き技術者の天下りのような問題の集積が「基本情報技術者」試験なのである。 第2の悲劇は、「情報戦略(経営戦略、マーケティング、行動科学、業務改善・分析・設計など)」「企業会計(会計基準、財務諸表、ファイナンスなど)」「経営工学(IEやORなど)」「関連法規(情報通信事業法、著作権法、労働基本法、PL法、刑法、商法など)」「監査(システム監査基準、監査調書、業務監査、会計監査など)」などなど、情報技術系に直接関わりのない、しかも情報系の専門学校にはそれを本格的に教えることのできない科目を用意しなければならなかったこと。 これらの授業は、情報系常勤教員の非専門的な一夜漬け授業か、非常勤外部教員の紋切り型授業のどちらかになるから、学生は退屈きわまりない授業を受けることになる。もともと財務会計とかORの授業自身が、大学の商学部の授業であっても半分以上破綻しているのに、専門学校の情報系で、こんな授業が成功するはずがない。成功している学校があるとすれば、完全な受験対策と割り切って、すべて「(試験に出でるから)暗記しろ」で通している場合だけだ(地方の専門学校に一部存在している)。しかしそれでは基本情報技術者試験の“精神”に反する。 それもあって、都内の大手専門学校の情報系で、「基本情報技術者」試験の合格者数や合格率を表示している学校はない。ほとんど合格させることができない。 にもかかわらず、ビジネス系の「その他」授業科目がカリキュラム全体の30%以上を占めている学校(情報系専門学校)がなんと多いことか。これは科名(情報処理科、ネットワーク科、システムエンジニア科、情報システム科などなど)にかかわらず共通している特徴だ。 この“おかげ”で、現在の情報系カリキュラムは、ほとんどまともに情報技術を教えることができていない。基本技術や新技術に対応しているかに見えるカリキュラムも、科目名で名前を追うことができるだけで、時間数やシラバスを詳細にたどるとほとんど実体のないものであることがわかる。どの科も科名が違うだけで、中身はほとんど同じ。数科目だけを科目に見合った内容にしているだけ。それもこれも「基本情報技術者」の負の遺物なのである。 私は、ビジネス教養のない情報処理技術者は役に立たない、という考え方を否定する気はない。情報技術だけでは、仕事ができない。これは役人やそれにぶら下がっている大学教授たちが考えやすい発想で、たしかに“間違ってはいない”。しかしまともなプログラミング技術さえ教え切れていないカリキュラムで、どうやって財務会計やORを教えるというのだろうか。 このリクルートのIT業界研究会で、ある会社の人事担当者は、パーソナリティやヒューマンスキルを専門学校の教育に求めるというのはある意味でお門違いなことだと私が発言したことを受けて、「私どもはパーソナリティやヒューマンスキルだけではなく、『基本情報技術者』資格を有しているということを前提にしています。あくまでも専門性あってのパーソナリティやヒューマンスキルです」と議論をし向けていたが、私は、そのときにこう再反論した。 「その『基本情報技術者』こそが、何の専門性も意味しはしない諸悪の根元です。『基本情報技術者』ではこれからのプログラミングの専門家を作ることはできない。まるで「国語、算数、理科、社会」というように勉強しなければならない。学生たちはこの勉強をやればやるほど自分が技術者であることの実感から遠ざかっていく。『基本情報技術者』に意味があるとすれば、それが合格するのに難しいということだけであって、それは専門性の指標ではなく、むしろパーソナリティやヒューマンスキルの徴表にすぎない。よくがんばって受験勉強ができましたというように。ちょうど一年遅れて受験勉強しているかのようなものだ」。 それもこれも、専門学校(や大学)が何一つ具体的で専門的、実践的な人材像を提案できてこなかったことに原因がある。情報化時代と言われていく久しいにもかかわらず、専門学校の情報系は旧態依然。せいぜい古いマシンの「メンテ」用員(リクルート)しか作ることができない。インターネット技術者(=WEBアプリケーションプログラマー)を輩出出来るだけのカリキュラムが存在していないのだから。 そういった現状で、企業がパーソナリティやヒューマンスキルに人材要求を旋回させるのは不可避だったとも言える。 リクルートは、研究会の中で「専門学校が企業に求めることは何ですか」と聞いてきたが、私は、こう応えた。「パーソナリティやヒューマンスキルなどと言わずに、カリキュラムを見せろ、何をどのくらい教えているのか、こんな時間数で教えきれるのか、どうやってその実力を判定しているのか(試験を見せろ)、くらいのことは聞いて欲しい。その中で、『こんなことをまだやっているのか、とか、こんなことを専門的には教えておいて欲しい、新しい技術動向のこんなものに注目している』といった批判、要求、情報をどんどんもらいたい、そうでないと産学連携の実のある発展はあり得ない」と。 ちなみに(この研究会では発言しなかったが)、わが校の(私たちが手塩にかけて作った)インターネットプログラミング科(http://www.tera-house.ac.jp/course/it/program/index.html)は、 JAVA言語関連で、1155時間(475時間) オブジェクト指向+UML関連で、315時間(57時間) WEBアプリケーション関連で、450時間(120時間) ORACLEデータベース関連で、540時間(180時間) ※45分を1時間と換算、一部関連重複時間を含みます。 の授業時間を有しており、全国の専門学校で唯一、現代のプログラマー=WEBプログラマー(WEBシステムエンジニア)を輩出できるカリキュラムになっている。括弧内の時間数は同項目の、わが校に次ぐ時間数を有している専門学校の数字だから(これでも、複数の大手情報系専門学校から項目毎に一番時間数の多い学校のものを取り出している)、情報系専門学校がインターネット社会の情報技術者人材を輩出出来ない理由がよくわかるはず。 わが校は(さすがにここまでやれば)サンマイクロ社のJAVA認定試験も在籍数比で90%の今年度合格実績を出しており(一般的には社会人受験がほとんどのこの試験の合格率は20%前後と言われている)、しかもその中には中国留学生2名、フィリピン留学生1名、韓国留学生1名も含まれている。就職率は、その留学生も含めて今年度すでに100%(9月22日に100%を達成)。おそらく情報系では全国で一番の早期就職を達成しているはず。 カリキュラムの人材像が(企業の専門的なニーズに沿って)明確になり、日本語の決して得意ではない留学生であっても高度資格が取得出来るほどの専門的な教育力をもてば、就職実績(企業評価)は自ずと高まる。こういった実績を一つ一つの学校が重ねていけば、「パーソナリティやヒューマンスキル」を超えた産学連携の道が開けるに違いない。 もう一つ大きな問題を指摘しておきたい。私は、大学生と専門学校生との違いは、受験勉強の有無にあると考えている。実質のところ専門学校生には受験勉強の経験がない。 受験勉強の基本は、計画性や評価能力に基づいている。そして、二契機に緊張感を与えているのが、競争性だ。競争性の基本概念は相対的な他者評価(他者の有り様を意識して自分の態度を決めるという他者―自己評価。もちろん、この概念の中には試験設問評価、それにかかわる読解力などが含まれている)である。たぶん実務社会のプレ経験としては、これほどまでに類似した体験はない、と私は思う。 ほとんどの専門学校生は、その意味で受験勉強“経験”に欠けている分、計画性や自己評価・他者評価の意識に欠けている。大手企業の、出身大学を隠した面接でも(リクルートもそうだが)、結果的には早稲田や慶應以上の学生が選ばれてしまうのは、早稲田や慶應が優れた教育を行っているからではなくて、激烈な受験勉強によって、計画性、自己評価、競争性(他者評価)など、パーソナリティやヒューマンスキルを形成する指標を彼らが無意識にクリアしているからである。 私は、その意味では、学歴社会(=受験勉強社会)は、パーソナリティやヒューマンスキル社会のことだと思う。抽象的な資質や能力を揃えるだけで何とかやっていけた社会のことを言うのだ。それは企業社会の幼年期(=高度成長期)の人材像なのである。 専門学校の一部の関係者は、企業(一部の企業)の「パーソナリティやヒューマンスキル」必要論を真に受けて、「コミュニケーション論」や「自己表現論」、「ビジネスマナー講座」などを「その他」科目で重点化しているが、そんなことは自らが大学にはかないませんと告白しているのと同じことだ。その上、この種の授業は講師自身が「コミュニケーション」能力や「自己表現」能力に欠けるものが多い。ほとんどの学生は授業を聞いていないからである。二重三重にこの種の試みは挫折している。 昔の若者や子供文化には、〈他者〉が自然に日常的に存在していた。〈離れのトイレの恐怖〉 ― 昔は夜、トイレに行くのさえ怖かった。家空間自体に亀裂が存在していた、〈鎮守の森の神秘性〉 ― 森の中に何かがあるという誘惑とその森の中に入っていくともう帰れないのではないか、という恐怖心が同時にあった、〈神棚(の扉)の内部〉への好奇心 ― 中に何が入っているのかぶるぶる手が震えながらのぞこうとしたことがあった ― などなど。 あるいは、柳田国男(http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/kunio/)が指摘したような“軒先遊び”が今ではない。家の〈内部〉での遊び、〈外部〉での遊び、それの中間の〈軒先遊び〉。母親の気配を感じつつの外部の遊び。それが軒先遊びだ。軒先は内と外とのちょうど中間。この意識が幼児を安定的に大人にする契機を形成していた。マンションと都市生活がそれを解体させた。最近では、家の内部にも外部にも母親が付きっきり。そして小学校高学年からは携帯電話とパソコン。〈内部〉から、一気に外部(=インターネットを中心とした)にさらされる個人が露呈する。その結果、柳田の言う“中間”や他者を経ないまま一気にほとんどのものが明るみに出てしまい、表にさらされてしまった。 さらに携帯電話は、時間をすべて〈現在〉(現在という明るみ)に集約するため、約束や将来という“計画”意識を希薄化している。その意味で、現代は〈他者〉や〈時間〉を配慮することのないパーソナリティやヒューマンスキルの希薄化にまみれている。特に若者はそうだ。 もしそうだとすれば、受験勉強は、近代的な鎮守の森のように立ちはだかっている若者たちの他者性や時間性経験の数少ない契機の一つなのである。嫌いな野菜は、軟弱化した(=白日化した)家庭のしつけの中で嫌いなままでいられるが、受験勉強に好き嫌いはありえない。 〈大学受験〉は近代的な“我慢”や“社会性”の契機なのだ。〈他者〉への遭遇の度合いは、偏差値の高低とそのまま比例する。この〈他者〉が本物の他者であるかどうかは別にして(それはそれで大問題だが)、受験勉強は、超近代的な日本に於ける通過儀礼とも言える。現代の日本の子供たちは、大学の受験勉強ではじめて、オトナになる端緒を見出す。近代的な鎮守の森に出会うのには18才にもなってからのことなのである。 そういった通過儀礼さえない専門学校生(あるいは誰でも入ることのできるほとんどの大学の学生たち)が、もしそのまま社会に出るとすれば、“名門”大学生にパーソナリティやヒューマンスキルの面で劣るのは目に見えている。逆に言えば、「パーソナリティやヒューマンスキル」を持ち出すことは、いの一番に「専門学校生は要らないよ」と言われていることと同じなのである。それは大学派(受験熾烈大学派)の嫌みな文句にすぎない。 私は大学でも専門学校でも教育の経験があるが、専門学校生と“名門”大学生との実際の差異は、こんなものだ。私が、「新宿においしいラーメン屋がある。授業が終わったら、食べに行こうよ」と数人の学生を誘う。大学生:「何ラーメンですか、醤油ですか、豚骨ですか」くらいは聞いてくる。専門学校生:「ラーメンのために、わざわざ新宿へ出るの? 先生、おごってくれる?」。これは何回かの私の複数の実際あった経験だ。 他者性の通過儀礼がないと関心の範囲がいつも狭い。自分の好きなことしかやろうとしないからだ。携帯電話が知っている人としか話さないツールになっているように、今の若者は、誰と話していても自分にしか話しかけていない。だから「ラーメンのために、わざわざ新宿へ出るの?」になってしまう。 そしてこういった若者の傾向にベタベタに迎合するように、職業教育の専門学校すら選択講座を増やしたり、コース制で細分化しようとする。一般的な勉強ができていない(勉強のスタイルがまだ出来上がっていない)専門学校生に、(選択的に)好きな勉強をさせるということがどんなに無謀なことか、まともな人材育成を考えている者なら誰でもわかるはず。 高等教育機関はどんな人材を作りたいのか、ということを理念としては語ったとしてもそれをカリキュラムに体現したことなど一度もなかった。20歳前後の学生に選択科目を用意してどんなカリキュラムや授業管理ができるというのか。ありえないことだ。 職業人材像を明確化し、それに沿ってカリキュラムを整備し、そのための勉強の“必要”(“好き嫌い”ではなく)を授業を経るたびに亢進させるような教育体制を構築する必要が急務だと思う。それさえできれば、高校の先生たちが気づきもしなかった学生(生徒)たちの才能や能力は様々な仕方で開花する。あるいはわざわざ受験勉強を経なくても、新しいタイプのヒューマンスキルが必ず生まれる。まさに職業的に専門的で実践的な通過儀礼を成立させることこそが、専門学校のカリキュラム課題なのである。それさえできれば、企業側の凡庸な「パーソナリティやヒューマンスキル」論は自然に消滅するに違いない。 大学生の質は、(残念ながら)ほとんどが受験勉強の資質で形成されている。この勉強は、受験後には学校歴(大学の偏差値評価)か抽象的な資質(パーソナリティやヒューマンスキル)しか残らない。彼らの能力は、せいぜいラーメン屋に黙って付いてくるだけのことである。しかし専門学校生が同じように1年遅れながらも学ぶ勉強の質は、具体的な専門性の能力だ(またそのことによって生まれるパーソナリティやヒューマンスキルだ)。これは学べば学ぶほど、将来の自分に備える具体的な能力である。そして単に具体的ではなく、全体的でもある。 先に示したわがインターネットプログラミング科のカリキュラムのような社員教育や新人研修を行っている企業がどこにあるというのか。10年経っても、実務現場のon the job教育では、われわれのカリキュラム以上の効果など期待できるはずがない。実務現場は何でもありのように見えて、実は断片(狭い必要)の連続であるようなこともたびたび、だろう。それが有為な〈人材〉を摩滅させていることもしばしばだ。その人たちは、大学教育や専門学校教育が全く役に立たなかったところで実務的な(断片の連続の中で)エキスパートになったため、「いつかはもう一度きちんと勉強したい」と思い続けている。体系的な教育を受けていないため、自分の仕事に限界を感じることがしばしばなのだ。ヒューマンスキルに“体系的な”教育などありえないが(だからこそ、ヒューマンスキル教育はどこまでいっても、on the job的な経験の中でこそ洗練されるものなのだが)、職業専門的な体系教育は実務現場には“存在”しない。 全体的にトータルに、そして一挙に、そして単に概論的にではなく専門的に学べるということは、実は専門学校教育の特権だ。大学はもちろん、大学院でも(修士課程でも博士課程でも)、そんな体験はできない。どちらにも〈カリキュラム〉というものがほとんど存在していない。大学も大学院も一人の教授の講座、あるいは科目の中では“体系”的であることもあるが、講座と講座との連関はほとんど考慮されていない。学生も院生もしたがって科目を経る毎に自分がだんだん専門家(たとえば、自立した技術者)になっていくという自覚に乏しい。大学院というのはその意味で単に知的になった実務現場と変わらない。 だから、学校教育本来の体系的な教育など現在の高等教育全般に存在していない。学問の体系、理論の体系、というようにわれわれは、“体系”という言葉をまるで象牙の塔の専売特許のように使うが、決定的に不足していたのは、実務の専門性に関わる体系的な教育だ。この学生時代の体系的な教育こそが、実務の火急性やローカリティに紛れてこなごなになっている〈人材〉を新たに蘇生させる基盤になるのである。 というようなことを、この日の研究会にしびれを切らしながら考えていたが、こんなことは、発言してもしようがない。専門学校の当事者も、実は自分たちの教育の内実を理解している者などほとんどいない。私たちの学校も79年に「デジタル科」を作って以来25年経つが、カリキュラムと言えるものが出来上がったのは、つい最近のことだ。だからリクルートにわかるはずもない。募集の調子のいい学校というのは、ほとんどが募集力がある学校であって、教育力評価(あるいはカリキュラム評価)とはほとんど関係がない。しかし、私はその意味でなら出口評価としての就職評価に期待している。企業ははるかに内容的な評価を重視するからだ。「ヒューマンスキル」と声高に言いながらも、企業ははるかに専門的な能力に俊敏だ、と私は思っている。特に情報系はそうだ。 今日(15日土曜日)もわが校の学生が他社の内定を勝ち取りながらも、「豆蔵」(http://www.mamezou.com/)の3次面接まで通過した。「豆蔵」は、(名前は変だが)オブジェクト指向分野のトップコンサルタント企業(情報業界で知らない人はいない)。しかもこの会社は大学生も含めて新卒は採らない。採らないというより(実力がないため)採ったことがない。わがインターネットプログラミング科(http://www.tera-house.ac.jp/course/it/program/index.html)の科長が、直接採用担当に電話をし、当科のカリキュラム編成と科目の時間数を説明。応募学生はサンマイクロ社の認定試験にも高得点で合格している、と説明し、「それなら一度お会いしましょう」と、今日の三次面接まで進んだ。 その「豆蔵」での二次試験はUML設計書を見ながらプログラムを書くというもの。今日の三次試験の面接では、「社員でも2割かけるかどうか」のプログラム試験をわが学生O君は見事に正解していたらしい。「中途採用募集のエンジニアよりも点数が高かった」とのこと。 この学生は、北海道の農業高校から新卒で入学してきた学生。パソコンもプログラミングも何も知らない学生だった。来年やっと成人式だ。それでも社会人のITエンジニアに伍して、トップ企業の面接で〈人材〉評価されるように成長した。合格を願うばかりだ。 だからこそ、企業の言う「パーソナリティやヒューマンスキル」を真に受けてはいけない。この研究会でもDTS(http://www.dts.co.jp/corp/01.html)社やテンアートニ(http://www.10art-ni.co.jp/)社は、オブジェクト指向の情報技術で仕事をしている会社。私は研究会の終了後、すぐさま名刺交換をして、わが校のカリキュラムと時間数を説明し、学生たちを来年度採用に向けて是非面接してほしい、とお願いをしておいた。また、教員を差し向けるから最近の技術動向の勉強をぜひさせてほしい、ともお願いした。快く引き受けていただいた。企業も変わりつつある。変わらなくてはいけないのは、自立的な人材目標を作らないまま何を教えたいのかわからないカリキュラムと教育を反省できないでいる専門学校の方だ。いろいろなことを考えさせる「IT業界研究会」だった。 |
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