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1011 2/6(日)
14:42:03
 永坂田津子5回忌と“底辺校”教員とB4版論争と  メール転送 芦田宏直  2571 

 
週末金曜日は、恩師山田先生(永坂田津子)の5回忌ということで(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?tw=&log=&search=%89i%8d%e2&mode=and&v=255&e=res&lp=249&st=0)、東陽町(江東区)のご自宅に行ってきた。今は長女の千果(ちか)さんが住んでおられる。ところが東陽町は依然とくらべておおきく変貌。地下ホームは以前の3倍の大きさ。登りも下りのホームにも上下のエスカレータができている。ほとんど最終便(深夜0時を超えていたが)になってしまった帰りのホームの風景にはもっと驚いた。たくさんのサラリーマン(しかも知的な)であふれている。考えられない。東陽町の海側と言えば、運転免許試験所くらいしかなかったのに、たくさんの企業の研究所などができているみたいだ。テレビ朝日の一部も来ている。

参加者は私を含めて6人。山田先生の間近で薫陶を受けた者(しかも千果さんを直接に知っている者)だけを中心に集まった。いつも私が山田宅にお邪魔するといただいていたネギトロ寿司が用意されていた(寿司を食べる場合、私はネギトロを“ごはん”、にぎりを“おかず”にして食べる)。私は当日、学校の組合の20周年記念式典に来賓で呼ばれていて5回忌参加が遅れたのだが、1時間以上遅れてもしっかりと私分のネギトロは“確保”されていた。それが心配で心配で駅からタクシーで駆けつけたが、さすが千果さん。

ところで、この集まりで大論争、勃発。某県立高校で教員をやっている参加者の一人の片岡がくだらないことを言い出した。

「底辺校では、授業に集中することなんかできない。授業中でも廊下に残って教室に入らない学生がいる。それを無視して授業をやるわけにはいかない」(片岡)

「それはあなた自身が教室に入ろうとしないからだよ。あなた自身が教室に入らないから、あなたが授業に集中しないから、廊下に残る学生がいる。その学生はあなたの授業自身が面白くないと叫んでいるだけだよ」(芦田)

「でも、実際に教室に入らない学生がいれば、入れようとするのが教員の役目でしょ」(片岡)

「たしかにそう。でもそれはあなたの役目じゃない。あなたは授業を担当しているのだから、教員室には他の教員もいる。学年主任もいるかもしれない。校長もいるでしょ」(芦田)

「いや、違うな。もうそういった生徒は、勉強をするというよりは、その子の生活そのものが問題で、生活自身の問題だ。勉強や授業の問題以前なんですよ」(片岡)

「僕もそう思うよ。でも、それを言うのなら、あなたも教室外(=授業外)で生徒を教室に入れようとしているのだから、あなた自身の生活が露呈しているのよ」(芦田)

「どういうことですか。わからないな」(片岡)

「だから、俺(片岡)って何でこんな学校で仕事してるのかな、と思いながら、“底辺”学生対応しているのよ。あなたは。でも自分には妻子がいるし、50歳近くにもなって今さら別の仕事に就くわけにもいかないし、仕方なく、生徒を“仕事上”(つまり“権力”として)教室に入れようとしている。“教員”ならそうすべきだというように。それは、あなた自身の生活(生活としての権力)でしかない。学生の生活が露呈しているように、あなたの生活も露呈している。その風景が廊下(=教室外)でのぶつかりあいだよ。両者の“立場”はその意味では対等だから絶対に解消しない」(芦田)

「僕だって、授業に集中したいですよ」(片岡)

「そうじゃない。授業に集中しないから、教室の外にいる生徒が存在するのであって、廊下外の生徒の存在は、あなたの授業を生徒が評価した結果に過ぎない。それは結果であって、あなたの授業の阻害要因ではない。そういう言い方は、私は(自分の学校の教員や他の学校の教員からも)山ほど聞いてきたけれども、問題を棚上げにして自己保身しているに過ぎない。生徒はあなたの授業が面白くない、つまらないと言っているんだよ。教室内でそのことが言えないのは、あなたが“国語”を正しく教えないからだけのこと」(芦田)

「そうかな。だって、ひらがなも読めない生徒なんですよ。そんなところでどうやって授業をやれと言うんですか」(片岡)

「ひらがなって?」(芦田)

「dとbとの区別が付かないんだから」(片岡)

「それはひらがなではなくて、英語だよ。dとbとの区別が付かないなんて、英語の不得意な生徒には十分あることで、そんなことは驚くことはない。それは充分にありうること。それにあなたは国語の教員でしょ。dとbとの区別が付かない、なんて関係ないじゃない。だからひらがなも読めない、なんていうのはあなたのレトリックに過ぎない。要するに、あなたは生徒が“できない”ということを単に頭から(観念的に)決めつけているだけで、いわゆる“差別”しているだけなんだよ。もしdとbとの区別が付かないことが致命的なことであるのなら(私にはそれが致命的なことだとは思えない)、それを教えればいいだけのことで、別に絶望的なことでも何でもない」(芦田)

「そもそも、あなたは昨年、どれだけの教材を作ったの」(芦田)。

「教材って? 授業のですか?」(片岡)

「そうだよ。教科書以外の自主教材だよ」(芦田)

「いっぱい、作りましたよ」(片岡)

「いっぱい、ってどれだけ?」(芦田)

「いっぱいですよ」(片岡)

「だから、A4で何枚くらい、作ったのよ」(芦田)

「A4ではないですよ。僕らはB4で作りますから」(片岡)

「バカだな。そもそもB版を使っていること自体が世界と社会から取り残されている証拠。今さら、書類をB版で作っている世界なんてないよ。それは昭和30年代、40年代の教育現場のガリ版印刷の名残でしかない。今はA版が世界標準。A4かA3しかない。第一、作られた文書をどうやってファイリングするの? たぶん、“dとbとの区別が付かない”生徒たちは捨てているでしょ」(芦田)。

「それに、あなたの自宅には、A3プリンタが存在しいているのですか?」(芦田)

「ないですよ。なんで?」(片岡)

「ということは、あなたは自宅では教材を一切作らないわけだ。だって、B4版教材を作るにはA3プリンタがないと作れないからね」(芦田)

「そんなことはないですよ。A4版で印刷したものを学校でB4に拡大して使っていますよ」(片岡)

「何言ってるのよ。そんな教材、間抜けそのものだよ。A4は、A4でしかない。そもそもできあがり(OUTPUT)の状態を確認しない教材作りなんて意味がない。あなたが自宅のプリンタのA4と学校のB4の落差を自覚していないのは、教材作りに敏感でないか、自宅での教材作りに時間を割いていないかのどちらか。教材作りなんて、自宅の時間を割かない限り絶対にできない。どちらにしてもあなたは教材作りなんかしていない。“B4”なんて間抜けたことを言っている限り、あなたは教材作りをやっていない」(芦田)

「私の息子が小学校のとき、手書きで作られた“学級通信”を送ってきた“担任”がいる。そのとき、何やってんの、この担任は、と思った。たぶん、この教員は自主教材を作ったことがない。教材なんて、手書きで作ったら、とんでもない労力(知的でない分に力を割かれるという意味で)だからだ。

しかも、手書きかワープロ(パソコン)か、という区別は、単に合理的(省力的)かそうでないかの区別に止まらない。教材の毎日、毎年の蓄積と更新に耐えられることが一番大きな利点。その上、教材の宝庫であるインターネットを利用できる。国語、英語なら、ほとんどの文学のフルテキストデータは世界中から無料で手に入る。

だから教材に関心のある教員は、真っ先にパソコンに関心を持つはず。学生に「わかる授業」「啓発する授業」をするための自分の苦労が一番わかっているからだ。流行(はやり)で、パソコンをやるのではない。パソコンを使えない教員は教員ではない。パソコンなしには“低学力化”に備えての微に入り細に入りの教材作りができないからだ。

私の学校では、96年に(それでも遅いと思ったが)すべての教員にパソコンを与え、それらをネットワークで繋げ、自由にインターネットできるようにした。もちろん学生にも同じ環境を与えたが、学校は学生がパソコンを使うことが大切なのではなくて、教員が使うことが先決。教員が使えば学生は使うようになるが、学生が使っても教員は使わない。だから“パソコン実習室”などを設備投資した学校の投資はほとんど無駄。公立高校でも文科省の指導でそんな投資を行っているが、教員は全くの無関心。パソコンを学ばなくてはならないのは学生ではなくて、教員の方だ。

教員に対する“IT教育”は時代の要請ではなくて、教育の要請なのよ。学校であれば、当然のこと。だから超ローカルなB4版で教材を配布する学校(のあなたたち)は、パソコンを使いこなしている教員が一人もいない学校だということ、つまり教材作りのない学校ということだ。教員がすべてパソコンを使うようになった私の学校では、毎日10万枚以上のA4自主教材を作成、印刷している」(芦田)

「生徒は勉強はできない、勉強以前、と二言目には言いながら、なぜ、教材作りをしない? 結局教える気がないんだよ。あるいは、自分の読書感想文みたいなことしかしゃべっていないから、本来の国語教育ができていない。しかも国語の教員のくせに、A4で作った書類を平気でB4出力する。作者の句読法や漢字やひらがなの配置自体に、あるいはそして余白の配置自体に留意しなければ文章を解読できない国語の教員が、自らA4で作った文書をなぜB4で出力する? それでどうして“国語”担当なの? そんな自己研鑽しない教員の授業に何で参加する必要がある。廊下にとどまる生徒の方が“正しい”生徒なんだよ」(芦田)

「結局、あなたの国語力が足りないのよ。生徒の能力が低いのではなくて、あなたの国語力が低い。生徒はあなたを見限っている。だから生徒は廊下にとどまる。それだけのこと」(芦田)

「教材って言ったって、国語は、読みながら理解を深化させていくものだし、学生の感受性も多様だから、前もって一般的な答えが書いてあるような教材を配るわけにはいかないでしょ」(片岡)

「バカだな。たとえば、接続詞を教えるときに、“だから”という文例を20年以上も高校教員をやっているあなたはどれくらい持っているの? 句読法を教えるときに(句読法に一般的規則はないから教えるのが一番難しい)、どれくらい多様な文例を持っているの? 国語の教員なら(英語もそうだが)、文例が教材のほとんどすべて。だから一人の作者の短編や断片を収集してあるだけの官許教科書では、国語なんて教えきれるわけがない。多様性や個性というのなら、文例収集は必須。あなた方は、多様性や個性を、教材を準備しない言い訳に使っているだけ。養老孟司が言うように、あなたの言う「多様性」「個性」はまさに『バカの壁』になっている」(芦田)。

なんて話をしていたら、深夜0:00直前。いつも時間を気にする柴崎(某大学フランス語・フランス哲学講師)が、「芦田さん、もう時間がないですよ」。柴崎は、いつも人間タイムキーパー。彼がいると終電遅れがない。片岡もダメだが、柴崎も、こんな時にしか役立たない。どうも私を含めて、山田門下生はダメな奴が多い。まあ、そんなこんなの『バカの壁』に囲まれて、天国の山田先生は「いつも変わらないわね。アシダ君」とほほえんでくれているだろう。

そう言えば、歓談の途中で、「私の父は、ピンクレディーを知らずに死んだけれども、山田先生は何を知らずに死んだといえばいいのかな」とみんなに振ったが、すぐに答えが返ってこなかったので、「iPodじゃないの?」と自答した。「山田先生にiPodを買わせるのは簡単」(私)。「小林秀雄講演集ライブ録音、吉本隆明講演集ライブ録音、ハイデガー講義ライブ録音など世界中の講演ライブがこれひとつですべて収録できますよ、と言えばいい」(私)。みんな、そうだよね、と意見がはじめて一致した瞬間だった。

それ以外は、とても5回忌とは思えない風情だった。私は、京都俵屋吉富(http://www.kyogashi.co.jp/top.html)の『雲龍(うんりゅう)』(私の大好物)を丁度当日の20:00くらいにつくように手配し(新鮮な雲龍が食べたかったので)、まさに山田宅に着いていたが、それを千果さんが熱いお茶と一緒に出してくれたのが、(片岡との議論に終始していたため)終電数分前。それに無粋な柴崎が『雲龍』の粒あんの味がわかるわけがない。みんな早口で食ったものだから、味わう暇もない。「千果さん、またね」と言って、大あわてで駅までのタクシーに乗り込んだ。もう二度と来るな、と思われているよね、と言いながら、サラリーマンで終電までにぎわう東陽町を後にした。教育の話は学校の外では話さないようにしよう、と誓うのであった。


1011 永坂田津子5回忌と“底辺校”教員とB4版論争と by 芦田宏直
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