by 神谷健一(2019-06-05 14:35:02)
Ver.45.0の頃に書いた感想と現在の内容の感想を同じページにまとめられるのは反則ではないでしょうか。
芦田の回答
そのバージョンのときと、少なくともあなたの質問のために付加して書いた部分は何もないので、関係ありません。
by 中西(2019-06-16 22:16:04)
この芦田原稿 (以下、「本原稿」) は近々刊行予定の『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』に収録される書き下ろしのものだそうで、7万字を超える力作である。
なお、僕が2003年に北大に提出した博士論文 (200ページ弱) が8万字弱であることからその力作っぷりが分かる (しかし、そんなものと比べるなと芦田先生はお怒りであろう)。ここでは少し本原稿の内容をまとめながらコメントをしたい。
本原稿では1991年の大綱化によって開放された大学のカリキュラムにおけるシラバスのあり方を論じている。1年次から4年次まで科目を適切に配置し、学生を一定のレベルに仕上げるためにカリキュラムは存在する。しかし、自由選択科目や講座制といった反カリキュラム的システムが科目を講座や教授に従属させてしまっている。カリキュラムを階段状に構成した上で (選択科目を置かず積み上げ式で4年間を構成する)、それを構成するシラバスの履修前提 (入口) と履修判定 (出口) の管理を高い精度で行うために芦田式コマシラバスの導入を行うべきだ、というのが本原稿の大枠の主張となる。
科目が講座や教授に従属するとどうなるか。本来、カリキュラムというのは入口 (入学) から出口 (卒業) までを有機的に接続させるように構成されるべきであるが、それぞれの科目が独立してしまうことによって学生の履修過程を管理できなくなってしまう。例えば経済学Iと経済学IIはいったいどんな関係にあるか。当然後で学ぶIIはIの内容を受けた、より高度なものであるはずだが、それぞれの科目が別の教員によって独立して運営されているとIIよりIの方が難しい、という妙な状態に陥ってしまう。経済学Iと経済学II程度であれば管理している大学もあるかもしれない。しかし、膨大に存在する選択科目についてはどうだろう。学生によってどの科目をどの順序で履修するかが違う状況でどうやって学生を育てるのか、という批判である。
コマシラバスによる15コマ分のマイクロなレベルの積み上げ式カリキュラムと、124単位 (以上) からなるマクロなレベルの積み上げ式カリキュラムという入れ子式構造を持つ教育によって4年間かけて目標とするレベルまで学生を育てるというのが芦田式のカリキュラム論である。
もちろんカリキュラムを構成するというのは各科目の接続を管理するということでもあるので、カリキュラムの作成とコマシラバスによる履修前提、履修判定の管理は一体のものである。コマシラバスのないところにカリキュラムは存在しない。
本原稿ではコマシラバスについて予想される批判に対して抜かりなく議論が展開されている。芦田式コマシラバスは教案ではなく、「使う」シラバスである。内田樹の批判 (シラバスを前もって読んで授業の内容を判断できるのなら、学生はもともと授業を受ける必要などない) は「使う」シラバスに対する無理解から来ていると主張する。シラバスは受講前だけではなく、受講中、受講後評価が加わって初めて機能する、というわけである。
「シラバス」という用語を使ってはいるが、芦田式シラバスはもうほとんどそれ自体が教材である。そう考えると、添付されている詳細なコマシラバス案の見方も変わってくる。「こんなシラバスを作成するのは面倒だ」と思う大学関係者は多いだろうが (僕もそう思うが)、これが授業で「使う」ものだとしたらどうだろう。
「未知の発見」に出会うのが教育の場であるという内田の批判についても、「手品の種明かし論」に留まっていると厳しい。確かに「分厚い博士論文や分厚い著作 (あるいはたくさんの著作) を熟読しているからといって、その人の (今更の) 講義を聞く気にはならない」とはならないものである。純文学作品には反復して読む価値があるというのと同じような話だろう。
詳細なコマシラバスは生き物である授業を平板化する、というのも予想される批判である。しかし、芦田によればそれは書かれているシラバス自体が平板なのである。
非常に高い精度で論じられるコマシラバス論であり、極めて合理的である。とはいえ、こうしたコマシラバスが完全に機能するためにはいくつかの条件があるだろう。
まず、専門分野とは異なる科目を教えるような状況をなくさなければならない。芦田式コマシラバスを書くにはその分野で論文を1本書ける程度 (文科省的にはそれでよいのだろうが) ではなく、単著を1冊出せるだけの力が必要である。そこらへんの誰かが書いた教科書を使って即席で行う授業ではコマシラバスに耐えられない。書き下ろしの教科書が書けるだけの力が要請される。
「時間がない」と言い訳をさせないだけのゆとりのある教員の採用計画も必要になるだろう (ここらへんは僕の大学教員としてのポジショントークも含まれるが)。これは膨大な選択科目を減らすことで達成可能かもしれない。この点について芦田は科目の種類を20種類から30種類に減らすことを提案している。1週間に6科目を教えるのではなく、3科目を2回ずつ教えるようにすればいいというわけである。教員にとっても学生にとっても一度に教える (学ぶ) 種類が減るのでメリットは大きい。
なお、広島修道大学では最近4学期制を導入して1科目の授業を週に2回行うことになった。再履修クラスを設けることができたり、1週間に2回同じ科目を行うことによって集中して教えることができる、といった点はよいものの、問題がないわけではない。教養科目や外国語科目がこの制度を導入していないし、学科内でも演習 (いわゆる「ゼミ」) や卒論指導はやはり毎週行ったほうがいいだろう、という判断が働いた結果、2学期制と4学期制が並列して動くことになってしまったのである。しかも科目数は減らせなかった。4学期制を導入するなら一斉に導入しないとそのメリットは享受できないし、科目数は積極的に減らす必要がある。次のカリキュラム改定ではこの点を再度検討する必要がありそうだ。
いわゆるゼミと呼ばれている輪読形式の演習授業などの場合、コマシラバスはどのように作るべきか、ということは本原稿を読む限りは分からなかった。学生に論文を検索させて、その論文を順に発表したり、外国語で書かれた文献を一緒に読むような授業で精度の高いコマシラバスを作ることはできるだろうか。卒業論文ではどうだろう。そうした科目自体をそもそも廃止するべきだということなのかもしれない (がそういうことは特に書かれていないので想像である)。さらに言えば大学院での指導もこのような形で可能だろうか?
このようにいくつかの難しい点はあるものの、大学教員としてはなかなか反論できないのがコマシラバス論である。自分の授業が他者の作った履修判定試験によって評価されることを想像するとき、多くの大学教員は冷や汗をかくであろう。正直、つらい。
by 中原翔(2019-06-21 16:11:10)
「シラバスとは何かーコマシラバスはなぜ必要なのか」(ver. 250.0)を一読した。80,000字オーバーの力作である。到底、「読み終わった」という感覚を持てないが、それでも自分の感想(想い)を書き留めるべく、思いつくままに筆を進めてみたい。
まず取り上げたいのは、次の文章である(6-2)。
「〈カリキュラム〉とは、その種の長い時間に関わっている。大学であれば、四年間の時間にどんな階段(論理的な時間、あるいは知的な時間)を上らせることができるのかが知識フィルターの質を決める。子どもの文化性(まさに長い時間の環境)、つまり子どもと社会とのフィルターの最後のよりどころであった〈家庭〉も解体してしまった今、学校が社会的な家庭となる以外にどんな子どもたちの砦があるというのだろうか。」
芦田の議論には、いつも優しさを感じる。社会的・経済的格差の犠牲になってしまいそうな子どもたちを救い出すための〈カリキュラム〉であり、それを担う〈コマシラバス〉であるというわけである。この考えがどれだけ子どもたちの希望になり、明日を生きる糧になるのだろうと思うと、胸が締め付けられる。
こんなことを言っても仕方ないのだが、私自身も決して裕福な家庭の出身ではない。文中には「家庭の文化性」という概念が登場する。それで言えば、私の家庭の文化性はきっと低かったに違いない。あるいは、家庭でなくとも、「地域の文化性」も低かったかもしれない。だから、幼い頃の私の希望は〈学校〉や〈図書館〉にこそあり、〈学校〉や〈図書館〉があったからこそ目の前の世界が切り拓かれていった。そもそも自分自身が何をしていけばいいのかもわからなかった状況を〈学校〉や〈図書館〉が救ってくれたわけである。芦田が問題視する「インセンティブ・ディバイド」(苅谷剛彦)の問題も肌感覚で分かる。学べば学ぶほど、何事にも興味が湧いてきたし、意欲的になれたからである。
ただし、「学べば学ぶほど、何事にも興味が湧いてきた」というのは、裏を返すと「ある程度学ばなければ興味が湧いてこない」ということでもある(というより、これが「インセンティブ・ディバイド」問題である)。しかし、何事もそうではないか。私が教える大学生でも、「わからない」と思ったところで教室を出ていってしまう学生がいる。「わからない」「つまらない」に耐えられないのだろう。だが、「わからない」「つまらない」で、諦めずに我慢して学ぶからこそ、勉強は楽しくなる。最初は聞いてもわからないことは繰り返し聞けばわかるようになる。わかる・わからないというのは、慣れる・慣れないという意味でもあるからだ。決して、学生自身が悪いわけではない。芦田の言うような、〈理解〉を先行させた授業をやれば、すぐにわかるようになるし、慣れるようになる。
もしかすると、「わからない」と思ったところで教室を出ていってしまう学生でも戻って来れるようにするのが「コマシラバス」なのかもしれない。教員の〈遊動〉が許されている概念型シラバスでは、どこからどこまでが授業中に解説されたのかがわからず、一度聞き逃すと復習できない。しかしながら、「コマシラバス」があれば、休みがちな学生でも、あるいは勉強嫌いな学生でも、ある程度の道筋をつけることができる。つまり、学ぶためのトラックが見えている。ゴールが見えている。極端なことを言えば、独学でも単位が取れるような仕組みが「コマシラバス」である。もちろん、そこに教材は必要だろうが。
次に取り上げたいのは、以下の文章である(同じく、6-2)。
「格差社会とは、特に子供たちにとっては家庭の格差、家庭の属する階層の格差のことだ。個人が露呈すれば露呈するほど ― SNSなどで個人が剥き出しのまま露出すればするほど ― 、家庭格差は深刻化する。土井隆義は、剥き出しで断片化する自己を必死で繋ぎ止めようとする少女達の「濃密手帳」について言及しているが(『個性を煽られる子どもたち』岩波書店、2004年)、そんなときにこそ、家族の文化性とは同じでないにしても長い時間の累積と静かな滞留 ― 〈選択〉のない時間 ― が子供たちに必要なのである。それをカリキュラムの文化性と取りあえず呼んでおこう。〈カリキュラム〉とは知性化された「濃密手帳」のことだ。教養教育であれ、職業教育であれ、カリキュラムに文化性のないカリキュラムは、この時代には不毛でしかない。」
先ほどの引用文とも重なるが、家庭の文化性、そしてカリキュラムの文化性に対して時間性を前提させているところが芦田らしい。昨今の大学では、地域連携・社会連携が重要視されているが、芦田が言及するように格差が露呈した地域や社会が大学と連携することは果たして良いことなのだろうかと思えてくる。むしろ、大学は地域や社会を相対化し、そこに知の収蔵庫として存在することだけでも十分な機能を果たすのではなかろうか。
手前味噌ではあるが、私は経営学の研究者であり、不祥事や不正の研究をしている。不祥事や不正を研究していると、たいていの場合は企業に嫌われる(笑)。しかしながら、大学(の研究者)が企業と連携するのではなく、それを相対化し、批判し、提言することが非常に重要であるとも感じる。つまり、芦田と私に共通するのは(同列に並べるのは恐れ多いが)、地域や社会、そして企業の負の側面を危惧していることであり、その負の側面を是正することができるのは地域、社会、企業に劣らないパワーをもつ大学だけである、という見解である。連携しないことも、連携なのだろう。
最後に、私の好きな文章を取り上げて一先ずの終わりとしよう。芦田が入学式で行ったという挨拶の引用である。
「そこからは(特にテキストの読解においては)、教員も学生も、平等です。与えられているものは同じテキストだし、たくさん他の解説書を読もうが、同じテキストを何回も読もうが、まともな洞察をそのテキストに沿って示せば、それでいいわけです。テキストに背後はないのです。テキストそれ自体が背後を背負っているからです。その意味で、大学の勉強で大切なことは、自分の意見を言うことではなくて、何年、何十年、何百年、何千年の読解にも耐えた書物の具体的なページに基づいたテキスト、他者の言語について意見を(その他者のテキストへ返すように)言うことです。」
これだけ分かりやすく学問することの意義を伝えた文章が、そして古典を読むことの意義を伝えた文章が今まであっただろうか。ここにも大学(テキスト)が格差から人を解き放つことの重要性が述べられている。それは、つまり大学には大学の、テキストにはテキストの時間が流れているということである。私たちは今こそ大学の時間、テキストの時間に身を投じるべきである。