by 神谷健一(2019-05-27 13:29:16)
コマシラバスは全ての学生が1から学習する分野であり、なおかつ90分丸々講義(教員が一方的に話す)型の授業では有効なのかもしれない。
しかし少なくとも私が担当するような大学英語教育にはほとんど使えないように感じる。
既に大学入学前に大きな差がついている。
by うつ病ニート(2019-05-27 15:15:43)
芦田先生が教育者に伝えたい根本的なことは、甘えるなということですよね。
シラバスの詳細化さえしなければ、教員はどのような(低レベルな)講義を行っても、この講義を選んだあなたが悪いでしょと責任を負わずはぐらかすことができてしまう。
「後がない」社会人への教育(具体的な成果を出さなければならない教育)を、曖昧でレベルの低いシラバスを用いて行えば、たとえそれが一応シラバス通りだとしても返金を求められてもおかしくない。
一方で学生のように未熟な主体性しかもっていない人へ手抜き講義を行ったとしても、学生は大学なのに程度なのかと静かに落胆するだけで抗議まではしてこない。
私は受講アンケートに文句を書きまくりましたが(笑)、それが何らかの変化を巻き起こしたことなど一度もありませんでした。
だからこそ、主体性を持っているはずの教員こそが、自主的にシラバスの解像度を高めなければならない。
コマシラバス作成に反対する教員は、レベルの低い(だからこそ切迫しているはずの)学生に甘えている。
少なくとも私の被教育体験は常にそうでした。
私は今からでも、まともな教育を受けたいです。
よい教育とは、もう学ぶ必要はないと思わせるほど高度な教育であるはずなのに。
by 芦田宏直(2019-05-27 16:16:05)
神谷健一さま
バカなことを言ってはいけません。コマシラバスが最初からターゲットにしているのは、「既に大学入学前に大きな差がついている」クラスのシラバスの在り方についてです。「多様な学生」の大学時代にこそ、まともなシラバスが必要という議論です。そんなことくらいは読めばすぐわかること。
ニートさん
「コマシラバス作成に反対する教員は、レベルの低い(だからこそ切迫しているはずの)学生に甘えている」。その通りだと思います。その学生達を代弁してこのシラバス論を一気に書き上げました。
by けんご(2019-05-29 14:59:21)
シラバスの総説論文ではないですが、非常に勉強になりました。
苅谷剛彦を読み直してみて、90年代からシラバス論が迷走していることがよく分かります。
形式や機能にばかり囚われた結果、本来の意味を失い仕事だけ増えたのが現在でしょうか・・・。
by 中原翔(2019-05-29 21:56:17)
「シラバスとは何かーコマシラバスはなぜ必要なのか」(ver. 65.0)を拝読させていただきました。
わたくしは、芦田先生と同じく大学教育に携わる人間ではございますが、自分のシラバスを改めて見直した際に「ここまで未熟だったのか」と痛感させられる内容でした。
大変、刺激を受けました。ありがとうございました。
まず、自分の「概念」型シラバスでは何が未熟だったのかと申しますと、結局のところコマ単位での時間化が不足しており、芦田先生が仰るような(主体間を超えたものとしての、かつ主体間に先んじて存在しているという意味での)契約書が不在になっていたということです。
コマ単位で何を、どこまで教えていくかという血の通った実体が先にないからこそ、いかようにも授業を進行できてしまう。
これでは大学入学前に差がついてしまっている学生に対しても、ますます分かりにくくなっていたと思います。
さらには教員自身の授業進行の結果も問われないために(つまり、授業が架空のものとなっている(「フィクションとしての授業」))、教員の自己中心的な授業も横行してしまうのだと思います。以上の理由から、私は自分が未熟であると考えました。
わたくしも、当初芦田先生は教員に「甘えるな」のメッセージを送っていらっしゃるのかと思っていたのですが、よくよく考えてみますとそうではない(それだけではない)と思います。
なぜなら、コマ毎にそのつど何を話すかを考えなければならない方が、かえって教員に厳しいと思うからです。前回のコマ内容を踏まえた上で、そこから発展した内容を前回と重複せずに話すのは、どの教員であっても至難の業だと思います(それを目指している教員がいれば、の話ですが)。
であるならば、シラバス作成の段階から、コマ単位でインカネーションしておく方が実は教員にとって(も学生にとっても)優しいわけです。そこからの差分でさえも、次回のコマシラバスに反映させていくことで(一回きりの授業ではない(もちろん、コマを切り売りできるという意味では一回きりですが))反復可能性を生んだ頑強なもの(授業や理論)になっていくのだと思います。
先日読んだ論文の中で、計画概念(L. M. Lachmann)について研究する研究者(小川智健)がとても面白いことに言及していました。
「計画とは、書き換え(revise)なければならないが、それは従来的な修正を意味するのではなく、行為の可能性を拡張する基点としての計画を書き足して(overwite)していく作業を意味する」。こんな内容だったと思います。
つまり、授業するという行為、学習するという行為の相互参照点である計画としてのシラバスを絶えず書き足していくことが教育にも求められているのだと思います。
最後になりますが、今回のシラバス論はわが国における大学教育と職業教育の在り方を高い水準へと引き上げてくれる非常に重要な装置であると考えております。
ぜひ、芦田先生のご納得いくまで書き足していただければと思います。出版も楽しみにしております。