by 古賀(2009-04-18 09:14:08)
古賀です。
相変わらず、散々に書いて頂きましたね。
先ずIDE「現代の高等教育」は、論文集ではありません。(ご存知の事かもしれませんが、)毎号高等教育に関するテーマを設定して、そのテーマの関係者等の記事が掲載さているものです。
IDE大学協会は、天野郁夫氏や絹川正吉氏等が理事を務める協会で、「現代の高等教育」は、高等教育に関心のある多くの方々が読んでいるものです。(専門学校関係者で読んでいる人は少ないようですが、)前号、前々号の2回にわたって、広島大学小方准教授も、「アウトカムアセスメント」について書いていました。
広島大学松永征夫氏の記事を福岡先生と芦田先生に、ご紹介したのは、お二人が「問題解決能力」について、意見を闘わせている場面をよく拝見したので、他校の取り組みが何かの参考になるのでは思ったからです。(福岡先生からのメールの「酒の肴」にしようとする程、悪気はありません。)また、私自身が、広島大学の取組みに特別関心がある訳ではありません。(カバンに入れていたのは、IDEの今月号で広島大学松永征夫氏の記事だけを入れていたのではありせん。)
そうしたこともですが、以前「大学と専門学校への進学率」に関する芦田先生の記事のなかでに、重回帰分析の目的変数と説明変数の取扱いに関する基本的な誤りがあるのを指摘させて頂きました。その誤りの訂正を含めた、同テーマのその後の記事の掲載を期待して待っていたのですが、如何なものでしょうか。(既に掲載されていたのでしょうか)
by ashida(2009-04-18 11:18:39)
古賀校長、どうしたんですか。私は送っていただいた「論文」について感想を書いただけです。
IDEの松永のものが「論文」かどうかは、私の議論と何の関係もありません。そんなことを古賀先生なら言い出すかもしれないと思い、昨夜のUPして間もない時間に、「この論文(レポート)はくだらない。レポートでさえない」と書き換えておきました。
しかし、得てして教育関係の「学会」の「論文」もこの松永程度のものです。松永が悪いのではありません。そもそも「論文」とそれ以外を古賀先生はどう分けていますか。詳細な「引用文献」(特に未邦訳の)と「註」があれば論文ですか? 「権威ある学会誌」に載れば「論文」ですか。
そんな区別あるわけがないではないですか。雑談やちょっとしたレポートの中にこそ、その当人の実力は現れるものです。学会誌の「論文」はむしろそういった実力(のなさ)を覆い隠すためのレトリックを磨くためのものです。
進学率の件に関しては、訂正するほどのこともないと思いそのままにしておきました(もちろん訂正してもいいのですが)。私のあの場所での関心は、専門学校マーケットは、大学マーケットほど明確な変数を持っていないということです。
大学進学率、専門学校進学率、就職の三つは、高校卒業の従属変数ですが、所得、偏差値はそうではない。だから5つの変数を同列に扱うのはおかしい。従属変数同士の相関が高いのは当たり前じゃないか、というのが古賀先生の指摘ですが、それは全く正しい。
しかし、大学はその従属変数なみに所得や偏差値と強い相関を示すマーケットが存在している。専門学校はその従属変数の相関さえもない、マーケットの混沌がある、というのが私の指摘です。専門学校は従属変数である就職率との相関よりも所得や偏差値との相関の方が強い。それでも大学よりも相関は低い。マーケットが読めないのです。それが私の指摘です。以下が私の結論部でした。
「大学進学率は専門学校進学率、就職率、所得、偏差値の三要素ともそれぞれ、0.65、0.68、0.67と非常に高い相関があるが、専門学校は、就職率、所得、偏差値とも、それぞれ0.20(正相関),0.47(負相関)、0.41(負相関)と大学ほど高い相関はない。全体的に言ってやはり専門学校のマーケットが見えない状況にある」。
そもそも「従属変数」か「独立変数」かは意味論解析です。形式的な相関分析をまずやって、この相関が強いのは、「従属変数」だから、といった意味論的な説明を加えるわけです。そうやって分析要素を正しい解を求めるためにどんどん減らしていく過程のひとつにすぎません。私はその一番最初の(素朴な)形式的な相関を見ただけのことです。従属変数だから(独立変数よりも)相関が強いとは限りません。現に専門学校の方は大学よりも、従属変数、独立変数の意味論アプローチが意味をなさない結果になっています(従属変数よりも独立変数の方が相関が高いものがいくつもある)。まさに「専門学校のマーケットが見えない状況にある」のです。
だからあえて訂正していません。所得相関が、大学進学や専門学校進学を決めているという古賀校長の立論は、いくつかの同様の主張をする学者がいるのは百も承知していますが、ほとんど意味をなしません。もし所得相関が一番強いというのなら、90年代〜現在に至る女子短大層の、4大への大移動は全く説明出来ないからです。
でも、こんな議論はすでに私は何度もやっています。広島大学の今回の記事とは何の関係がありません(苦笑)。そもそも古賀校長は「問題解決能力」育成について(それを教育のテーマとすることについて)、どうお考えですか。人に読めと勧めておいて、一切コメントがない。その上、「論文」」じゃないよ、と訳のわからないコメントを返すのはおかしいよ(笑)。
「他校の取り組みが何かの参考になるのでは思ったから」、私に紹介した、とありますが、こんな記事を私の「参考になる」と思われるのは、私への、これまでの大学論、専門学校論に対する冒涜です(笑)。私はこの種の議論(コミュニケーション論、問題発見・解決能力などの)をうんざりするほど聞かされてきました。特色GP、現代GP、教育GPはほとんどこの種の教育改革の申請ばかりです。東大なんかはそれに加えて「討議力」とさえ言い出しました。
だから、広島大学などはまだましな方かもしれません。その意味では、この議論を再度展開できる機会を与えていただいて感謝しています。メールで返信しようかとも思いましたが、そんなことをしたら、公開コメントをメールで返しやがって、と元気な古賀校長にまた言われそうですからあえて公開コメントで返しておきます(苦笑)。
追伸
それはそうと、福岡校長が、ゴールデンウイーク後にでも一度三者で会いましょう、と言っています。日程調整しましょう。楽しみにしています。
by イクヤマ(2009-04-18 14:20:07)
生山です。
ご無沙汰しています。
古賀校長が芦田先生にIDEの記事を紹介したのは2つの目的があったのだと思います。
◆目的1
古賀校長はコメントで『福岡先生からのメールの「酒の肴」にしようとする程、悪気はありません』と否定していますが、間違いなく「酒の肴」にするつもりです(笑)。悪気もあります(笑)。
『広島大学松永征夫氏の記事を福岡先生と芦田先生に、ご紹介したのは、お二人が「問題解決能力」について、意見を闘わせている場面をよく拝見…』
古賀校長は笑顔でその場面の報告をしてくれます(間違いなく楽しんでいます)。
『他校の取り組みが何かの参考になるのでは思ったから』の「参考になる」は「議論の火種になる」と置き換えたほうが正しいと思います。
◆目的2
『そもそも古賀校長は「問題解決能力」育成について(それを教育のテーマとすることについて)、どうお考えですか。』と言う議論を古賀校長もしたいのだと思います。
古賀校長の「問題解決能力」育成についての考えは芦田先生のお考えとほとんど同じなのだと思います(生山の私見ですが)。
それでも、本校にも他校にも「問題解決能力育成」についての必要性(重要性)を主張される先生がいるのも確かです(芦田先生もうんざりされているようですが)。
中野で実施したパネルディスカッションでもその議論を期待されていた方も多かったのではないかと思いますし、芦田先生のセミナーに参加された先生方の中にも未だに芦田先生の意見に納得していない先生もいるのだと思います。
そのような方々は「問題解決能力育成」が専門学校教育でのテーマとなることについての是か非かの結論を求めているのではなく、議論の中でそれぞれの主張を確立するための何か(意見)を見つけたいと思っている方もいるのではないかと思います。
そんな議論を3人だけでせずに、オープンな場で議論されることを期待しています。
by 古賀(2009-04-18 15:26:13)
古賀です。
書き換えてあったんですね。昨日は、感想の最初で「この論文はくだらない。論文でさえない。自分たちのやっていることを紹介しているだけです。」っと書いてあったので、芦田先生が「論文」とそれ以外の文章にこだわっているのだな、っと思い「論文ではありません。」と書きました。私も特別区別はしておりません。
中身については、先にも書きましたが特別な関心はありません。あの記事をご紹介したことが、芦田先生を冒涜したのであれば、素直に謝ります。済みませんでした。
専門学校のカリキュラムで、「問題解決能力」などのような抽象的な教育目標を設定することは、私もよいとは思っておりません。もっと的を絞った、具体的なものであるべきだと思っています。学科に相応しい企業への就職のような。
進学率に関する芦田先生の結論は、以前は少し違っていたように記憶していました。(私の記憶違いかもしれませんが、)進学率が何か一つだけの要素で決まるわけではありまでんが、所得の0.47(負相関)は、大学程ではないにしても、影響のある値だと思います。
ゴールデンウイーク後の件、福岡先生が東京に出てこられるときにでも、3人でお会いしましょう。
by ashida(2009-04-18 17:10:12)
生山先生、お久し振りです。
芦澤は、迷惑おかけしていませんか。昨日も古賀校長から、芦澤先生は「1日で80枚の教材を書いてきてくれています(張り切っています)」と報告を受けました。嬉しい限りです。
芦澤は、間違いなく、御校を日本一の(世界一の)学校に出来ると思います。こき使ってやって下さい。
この記事の件ですが、さすがに生山さん、古賀校長への愛を感じます(笑)。私もこんな優秀な部下がいればどんなに楽が出来たことか。
では、その古賀校長への愛に免じて、もう少し「問題発見・解決能力」について議論しておきます。
「問題発見・解決能力」論者が言うのは、教科書的な既存の問題や既存の答えが用意されているフレームで学生を育てるのではなく、新しい「問題」や新しい「解」を積極的に見出すような学生を作るべきだというものです。
これにはおまけが付いていて、特に現代の情報社会、グローバル社会では変化が早く、その変化に対応するためにも教科書的な教育には限界があるというものです。
私は、この主張の限りは、全く正しい認識だと思います。
しかし、この認識をうのみにして学校授業の場にこの「教育」を移す場合、いくつかの課題があります。私は、どんな教育テーマも、授業の現場で教員がそれをどう担えるのか、そのイメージがわかないものを採用しはしません。経営者や文部科学省などのお役人にはそれがわからないのです。
1)何をもって「新しい」問題というのか、「新しい」解というのか。誰がそれを「新しい」と判断するのか。教員の無知が「新しい」と思わせているだけのことがたくさんある。「日の下に新しいものは何もない」(聖書)という教えもある。「温故知新」(論語)という教えもある。
2)教科書的な知識・技術というのは、言わば「日の下に新しいものは何もない」(聖書)、「温故知新」(論語)という立場に立っています。その立場を否定するほどの「新しさ」があるという場合、その教員要件は何か? 誰が教えるのか? ということです。というか、教材開発の動機は、先の聖書と論語の精神無しには
あり得ないものです。まともな教材開発はほとんど汎神論的です。
3)私が危惧するのは、教科書もまともに教えることが出来ない、ましてや教材開発もまともに出来ない教員に包囲されている情況で、「新しい」問題と解を「教える」教員がどこにいるのか、ということです。
4)認識が元々抽象的な幼児段階(や初等教育の前段階)であれば、まだイメージはつきそうですが、高等教育の段階では、「新しい」問題や解は抽象的にとどまるわけにはいきません。認識の抽象段階はむしろ認識の低次段階であって、高度認識はむしろ具体性を求めるからです。絵画を見ればわかります。子どもの絵は抽象的です。目と耳とがあっても、彼らの認識は見えるものと違うものを見ているのです。社会人の実務活動でも「出来ない部下」や「上司」ほど抽象的なことを言います。現実から逃避しているのです。
5)もちろん幼児が見るべきものを見ていないというのは、単に「低次」と言って批判されるべき問題ではありません。その抽象性が「新しさ」の起源であることはいくらでもあります(見ていないということも能力の一つなのです)。
6)しかし、そう言うからには、あの抽象性のモデルの中に、「新しさ」(デタラメではなく)を読みとる教員が必ず必要になります。この教員は、その道の専門教員でなければなりません(そうは言ってもえせフロイト的なニセ指導者が多いのですが)。そんな先生は専門学校にはいません(日本にはほとんどいません)。自分の専門分野さえもまともに教えられない先生がいる中で、その抽象性を読みほどく教員をどうやって用意するのですか。
7)またそれは幼児段階での話しです。18才以上の高等教育の対象者はすでに具体的な言葉や具体的なイメージを持ち始めている「学生」です。この学生達に、原始の抽象性を喚起しながら「新しい」創造性教育を開始する言葉は、それ自体具体的な言葉です。具体的なイメージや具体的な実践です。もはや幼児的な抽象性ではありません。つまり学生教育の本来の創造性喚起は、中等教育までの教科書を超えた具体的な専門性教育以外にあり得ない。高等教育の段階では、専門性教育の外に「問題発見・解決」教育があるのではなくて、専門性教育の掘り下げ以外に「問題発見・解決」教育を体系化する方法がないからです。
8)専門学校の教員や教務たち(や経営者)が、「問題発見・解決」教育に飛びつきがちなのは、単調な資格教育、単調な実習教育に飽きているからです(大学の場合と事情が少し違います)。しかし、それらを単調なものにしているのは、専門学校の教員自身が単調な実務経験しか持ち合わせていないからです。キャリアパスを描けない。原因は専門性の無さにあるのであって、専門性にあるのではありません。それをごまかすための教育テーマが「問題発見・解決」教育です。
9)生山さんの学校で、そういった主張を積極的に行う教員をよくよく思い浮かべて下さい。その教員の専門性はどうですか。深い、高い専門性を身に付けていますか。あるいは4年制のカリキュラムを作っても、インターンシップなどに逃げずに、あるいはプロジェクトマネージメント(「基本情報」)などに逃げずに専門教育のコマシラバスが書ける教員ですか。そんなことは絶対にないと思います。まともな教員であれば、一時間でも10分でも専門技術について「時間をくれ」と言うに決まっています。それは詰め込みのための知識・技術なのではなくて、まさに高度な「問題・解決」のための教育に配慮しているからです。芦澤にはこのことを徹底的に仕込みました。もし芦澤の育てる学生に「問題発見・解決能力」がないとしたら、私は自分の首を掻き切ってもいい。
10)その点では「問題発見・解決」教育は、マナー教育必要論と似ています。専門性のない教員や専門学校ほど「マナー教育」に走る。そんな程度の教員しかいないからです。もちろんそんな教員しかいない学校でマナー教育を施してもろくなマナーは身につかない。
以上、思いつくままに書きましたが、ぜひ校内で議論してみて下さい。御校ほどの伝統のある学校であれば、まずは具体的な目標のしっかりしたカリキュラム(専門性カリキュラム)を編成できるはず。それを期待しています。古賀校長によろしく。