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「『存在と時間』と世界 − 世界と他者」― 辻村公一もレヴィナスもカッシーラーも広松渉もみんなハイデガーを誤読している。(2008-11-05 23:11:00)へのコメント

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by 匿名希望(2008-11-06 17:33:09)

ごぶさたしております。

もはや「若い」とは言えないし、ハイデガーのいい読者でもない(どちらかというと苦手)のですが、メモをとりながらたいへん興味深く拝読しました(レヴィナスからの引用箇所で、MiteinanderseinがMiteinenderseinとなっていました)。

芦田先生の論文のなかでは「わかりやすい」という印象です。

その「おもしろさ」が少しでも理解できるという意味で。

たぶんおもしろいことを言ってるんだろうけど、何がおもしろいのかはっきりわからないということも多いですから。

「実体主義から関係主義への転換」などといったキャッチフレーズってあまりピンとこなかったのですが、その理由がわかった気がしました。

ハイデガーも否応なく通俗化されてしまってるんですね。

私事ですが今朝、(人間関係上)とりかえしのつかない大失敗をやらかして、かなりへこんでいましたので、一時的な没頭(忘却)の機会を与えてくださってありがたかったです。

このような(いわば目的外)利用が可能だということは、このご論文自体の無意識的・開放的・全体的なumの指示連関(「論文」はそれ自体で「論文」であるのではない)を暴露しているのでしょうか。

だってそんな極私的な利用の仕方は決して予め「考えられはしない」でしょうから。などとくだらないことを考えたりしました。

つづきも楽しみにお待ちしています。

お仕事を辞められたとのことですが、次なる展開を楽しみにお待ちしております。


by ashida(2008-11-07 01:46:55)

>匿名希望さん

誤字訂正ありがとうございました。

早速訂正しておきました。

この時期の80年代後半から90年前半は、ハイデガー(とフッサール)に「没頭」していました。特にハイデガーの『存在と時間』前半の世界論はかなり読み込んだつもりです。

当時は辻村の世界の二義性論と広松渉の「関係」論が幅をきかしていて、なんかおかしいとずっと思っていましたが、その疑問を解くためにはハイデガーの「世界」論を自力で解きほぐすしかないと思っていました。

しかしハイデガー自身もかなり屈折しています。その原因はキリスト教的な創造論-終末論なしに〈世界〉概念を論じようとするハイデガーのもくろみ自体にあります。

ヘーゲルはもちろん、マルクスさえもキリスト教的な〈世界〉論から自由であり得なかったわけですから、ハイデガーの「世界-内-存在」が数々の困難にぶち当たらないわけがないのです。

だからこそハイデガーの「ケーレ(Kehre)」が起こったのです。この論文の続きは「ケーレ(Kehre)」論に繋がっています、が、まだ私にはこの続きを書く自信がありません。しばらくお待ちを。


by 野次馬根性(2008-11-07 05:54:34)

umとしての指示連関が「"考える"ことによって近付きうる『関係』ではない」ということで、自己論に還元できない世界性がすべて論じれたわけではないですよね?

クライマックスはこの後ですよね?

現在無職ということですが、今のうちに続きを書いてください。

死ぬまでに、ぜひ続きを読んでみたいと思いました。


by genkidatetugaku(2009-12-08 09:36:43)

有意義性について、芦田先生のご教示をお願いいたします。

有意義性とは世界の世界性とのことですが、指示連関を中心に説明がなされていますが、ものの存在(用在、物在)と現存在との関わりでの説明が主で、現存在と現存在との関わり、つまり、共存在との関わりでの有意義性の説明がなされている本、あるいは論を見たことがございません。

内世界存在者には、ものもひともいるわけですから、それらと現存在との関わりのあり方が「有意義性」だと思いますが、道具連関ばかりでなく、共存在である他人もきちんと含めた、有意義性の説明を、ぜひとも、芦田先生にお願いいたしたく存じます。

だれも教えていただけませんので。


by 母親(2010-01-19 19:55:43)

芦田さまになら答えていただけるのではないかと、書き込みいたします。

子供に障害があって、絵と具体物が結びつかないのです。

かなり精密に描かれた絵を見せてもわかりません。写真だと少しできます。

パズルをやっても輪郭線をつなげるとか頭の下に体のピースというようなことができません。でも線に沿って切るとか、簡単な人の顔を描くことはできます。

子供を理解したいために、ぜひお聞きしたいのは、具体物と写真、絵、シンボルとは、どうやって人はそれが同じだと認識できるのでしょうか。

コップは、色も形もすべて違うのにコップだとわかります。

それはなぜなのでしょうか。コップの形や色の違い(差異性)を抽象化して、コップ一般(同一性)の認識があるから、コップだとわかります。だから、同一性(抽象化)が成り立たないと、コップという概念は成り立ちません。そこがつながらないとわかりませんね。

子供は、定型発達者のような、差異性と同一性の二重性で、物事を捉える、ということはできていないんだと思うのです。

どんな本を読めばこうしたことが分かるるようになるのか、できましたら教えください。
よろしくおねがいいたします。


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