大学の先生なしには読めないものを〈本〉と言う ― 〈古典〉は、人を差別する 2025年03月06日
実際、すべての本やエッセイ(とりあえず、書棚を必要とするハードカバーの本)は、先生なしには読めるものではありません。
私なんか高校まで勝手に読んでいた本の諸々の解釈を大学の先生の逐語的、逐行的な指導を受けてボロボロにされました。それ以来、大学とは、若者の青臭い自尊心を破壊するところと認識しました。
単なる〝知ったかぶりな奴〟だったのです。当時現代フランス思想とリアルタイムに同期した『現代思想』(青土社)青年でした。10年ほどして、書物のページのそこかしこに引いていたアンダーライン(サイドライン)を消しゴムで消しまくったくらいです。高校の先生の指導もあやしかったと思います。
読むことはまともな(大学の)先生がそばにいないと無理なのです。逆に先生がいないと読めないものこそを〈文献〉と言うのです。それ以外のものを何千冊一人で読んでも意味がない。読んだ気になっているだけです。一行を読むときに、千の知識がある人と100の知識がある人では解釈が異なるものを〈文献〉というのですから。
文献とは、そこにアプローチする人の多様性(いわゆる〝程度〟)を反射するから文献なのです。文献(古典)はあまねく人を受け入れるが故にこそ、人を差別します。
そういうことを〈学ぶ〉のが、〈大学〉というところでは。本を読みたいのなら、大学へ行かないと。いい歳して本を読み始めても遅いのです。勉強するのに早いも遅いもない、というのは、嘘です。
逆に〈大学〉は、旬の若者を受け入れている緊張をもっと持つべきなのです。「大学全入時代」とは言え、〈国民〉の半分は、〈文献〉というものに出会ったことのない人たちなのだから。

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