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 昨夜は、20年前の作品『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)全11話を一晩で全話見た。 2024年08月17日

昨夜は、20年前の作品『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)全11話を一晩で全話見た。主人公の悲劇的な死をからませればなんでもこれぐらいの作品にはなるよ、と思いながら見続けてしまった。お盆の時節にも適していた。

ついでに言えば、綾瀬はるかの眉毛がヤンキーのように細くしすぎとずっと思いながら。ついでに言えば、三浦友和は息子(三浦貴大)の演技より大根になっていて、蓮舫のあざとい表情と逆で顔の表現が全くできない人になっていたので残念だった(そんなに下手な役者ではないのだが)。さらについでに言えば、松下由樹が脚本に生かされて時として痩せて見えた。やはり役者は脚本あっての役者。

今から半世紀以上前の『太陽にほえろ』というTVドラマを思い出す。あれは、いつも無名の役者が主人公になって一話完結のドラマになっていたが、脚本がとてもよくできていて、その無名の役者の実力をうまく引き出していた。よくとれば、色の付いていない無名役者こそ脚本が生きるとも言えたが、たぶん大半の役者コストを石原裕次郎が占めていただろうから、というのもその理由だったかも。。

私はこの作品(『世界の中心で、愛をさけぶ』)が発表された最初、タイトルをみて、「〈世界〉は〈中心〉がないからこそ、〈世界〉」と思いながら、見るのを避けていたし、この片山恭一という作者を人気が出る前からよく知っていたので、それも避けていた理由だった。

今回、初めて全話をみて印象深い箇所があった。

〈世界〉は、愛し合う人に出会うまでの不在の時間、愛し合う人のいずれかが先に亡くなってしまう不在の時間の交差点で成立しているという観点だ(まるでハイデガーとハンナ・アーレントとを足して二で割ったような世界観)。

言い換えれば、愛し合う人に会うまでの(不在の)世界を〝客観的な〟世界だとすると、愛し合う人に出会って以後の世界を〝主観的な〟世界(一挙に世界が違って見える世界)だと言える。そうした、客観的な世界と主観的な世界が、どちらでもなく、かつどちらとも顕在化する時間(=空間)が、「世界の中心」としての〈不在〉だということだ。この作品で言う〈中心〉とはその不在の交差点を意味している。だから、世界の「中心」なのだ。

そこで、なぜ、「さけぶ」のか、なぜ「愛を」さけぶのかは明白だ。この「中心」は、決して共有できない不在の交差点だからだ。著者は、「世界とは愛のことだ」とも言っているが、この愛は、不在が生じさせる愛のこと。その意味で、著者は死すべき人間を主人公に据えるが、この作品が本格的な文学になれないのは、この〈不在〉をリアルな死としてしか隠喩できていないところにある。そこだけが残念だったが、若き(ヤンキー眉毛の)綾瀬はるかと山田孝之の迫真の演技を見るだけでも価値があったかと。

※なお映画版(長澤まさみ版)より、ドラマ版の方がはるかにましかと

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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