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 大学の授業改革はなぜ進まないのか ― 大学における期末試験不正について 2021年11月29日

●大学教育(学校教育)のレベルを担保するのは、〈試験〉

1. 今日の大学の序列化は、入学時の偏差値(入学試験のレベルとその解答のレベル)で決まっており、残念ながら、在学四年間の教育力がその入口の偏差値を相対化するところにまでには至っていない。文字通り、東京大学の入学試験は「とても難しい」という評価に伴って(その入学試験を解ける大学生の〝基礎学力〟の高さによって)大学の教育評価の大半が決まっている。

2. その要因は、大学内期末試験(毎期の履修判定試験)が全国ほとんどの大学で杜撰だからだ。

3. 杜撰になる理由は、大学は〈学校教育〉最後の学校になり、上位接続がないため在学期間の教育の第三者評価(客観的な評価)が〈就職〉という、学校教育体系とは異質な評価で曖昧にされているからだ。

4. その分、大学の教育目標も形式的には立てられるが、それよりも入学時の学力(偏差値)の方がはるかに第三者的で当てになるため、企業の就職担当も卒業時においてさえ〈地頭〉とか〈性格〉とか ― 両者ともコンピテンシー能力の一部 ― を重視することになる。これは大学教育への根本的な不信と諦念から来ている。

5. 不信と諦念から来ているにもかかわらず、この不信と諦念に悪乗りして「アクティブ・ラーニング」とか「コミュニケーション」能力育成とかハイパーメリトクラシー能力育成 ― 教育目標が明確に定めづらい○○力という〈力(りょく)〉能力育成 ― に走るアホな大学も多々ある。不信と諦念はますます拡大するばかりだ。

6. さて、高校までの中等教育でも、授業を行う者(教員)と、試験を作り、採点を行ったりする者とは同一の場合も多いが、偏差値中位以上の高校では、不断に外部模擬試験も行われているために、期末試験の難易度の妥当性や学力測定を標準化する環境がそれなりに整っている。

7. また長い苛烈な受験競争の中で培われた有益で豊富な〈参考書〉や〈教材〉類が揃っており、予復習の環境も整っている。つまり大学受験を目標にしながら、高校の授業自体を生徒や保護者が評価できる環境が存在している。

8. しかし大学の授業は、教育目標はもちろんのこと、授業中の教科書、資料、教材評価という観点からも、学生が、教員の授業を評価できる環境は皆無に近い。事実上、日本の学校教育で一番信用できるのは高校歴(+まともな予備校)の学力(=大学受験時の能力)までで、入学後四年間の大学教育の実体を示すものは何もない(せいぜいオール英語の授業をやり、TOEICのスコアを競う程度のもの。しかしそれも資格教育だから、本来の大学教育ではない)。

そうなるのは、形骸化した試験を繰り返し、〈試験〉不在の教育をやっているのが一番の原因。それは、自分のやっている仕事に泥を塗っているようなもの。なぜなら教員は科目担当者として自分の名前の下(もと)に単位を認定しているからだ。共同研究の論文執筆において指導教授(first author)ともめる研究者もいるくせに、科目の単位認定のときには自分の名前を気にしない〈研究者〉がいるというのはいかがなものか。〈研究〉か〈教育〉か以前の問題だと言える。

9. 〈試験〉を杜撰に行うなら、シラバス(コマシラバス)を詳細化するのも、履修判定指標を詳細化するのも、小テストをコマ単位で行うのも、まったく無意味。そもそも自分で授業をやって、自分で試験や採点をやるのなら、目標の詳細化(シラバスの充実)やそれに対応する試験の詳細化(履修判定指標の充実)をやっても意味がないのだから。だから、ほとんどの教員はシラバスにも履修判定にも小テストにもまったく関心がない。「面倒くさい」と思っているだけだ。

10. しかし〈試験〉こそが学生の成長の可視化の根源にあるのだから、コマシラバスや履修判定指標を詳細化するくらいなら、〈試験〉の遂行と内容を客観的に(第三者的に)詳細化した方がいいに決まっている。今のままでは、試験自体としては難しい立派な試験に全員合格させても誰も信じない。「できない学生が本当にいるんですよ」と訴える教員に限って、標準偏差5.0、不合格者0名の試験をやり続けている。

そのような深刻な事態がどのようにして生じているのか、その原因はどこにあるのか。


●試験の出問調整と採点調整について

【出題箇所の事前開示】

1. 初回の授業から頻繁に「ここから試験に出る」「この個所は試験に出る」といったよう指示を何度も行う。
2. 試験直前の授業回などで、試験内容を圧縮したアンチョコプリントなどを学生に開示する。
3. 試験直前の授業回などで、出題内容を強く想起、暗示させるようなダイジェスト版授業を実施する。
4. 模擬試験のようなものを行い、同じか類似の問題を出すと暗示(あるいは明示)しつつ授業を行う。


【採点基準の事前・事後調整】

1. 短文記述解答の試験を(たとえば)10問出題し、(たとえば)一問配点を10点として、評価の厳密性や客観性が曖昧な問題を出してしまう。全問一応書いてあれば、60点の裁量評価(努力賞評価)を行ったりする場合もある。期末試験のレポート試験もその種の曖昧評価に満ちている。

2. 「自由記述欄」のようなものを設けておいて、60点に満たなかった学生などについて、その欄の記述内容に点数を与えて救済する。

3. 「持ち込み可」の試験を行い、ノートや資料類さえ持ちこめば、点数が取れる試験を行う。

4. 配点を明示しない出問を行い、試験結果に応じて点数調整する。

5. 配点に応じて、たとえば最高点60点~最低点20点で分布する試験の素点結果が出た場合、たとえば30点底上げして90点~50点で点数調整したものを教務に提出したりする。これほど極端にではないにしても、素点において大量落伍者が出た場合について、あるいは60点前後の学生については何らかの仕方で素点を個別に調整しながら単位認定を行う。平均点よりは中央値主義の教員によくある。

6. 非常勤教員に多いが、自分の本務校が「多様な評価」や「観点別評価」 ― 態度点やレポート・小テストの評価を履修判定点数に加点するなどの ― をやっているために、試験の点数を気にしないまま授業をやり、落伍者を出してから、形式的な補講や再試で学生を〝救う〟ケース。

7. その他


●これらの試験調整、採点調整が起こる要因について

1. 教員が自分の教育力をわかっていない。どんなことをどんなふうに語り、それについての資料や教材をどの程度用意すれば、自分が言いたいこと(教えたいこと)が学生に伝わるのかが認識できていないために、本格的な(学生の実力を測定できる)試験を実施できない。

2. あるいは、自分の教育力の実際(授業準備の貧弱さ)を棚に上げて、試験だけはまともな試験をしてしまう(非常勤に多い)。これは単に難易度調整に失敗しているのではなくて、むしろ試験が正しくて、やるべき授業がやれていないだけのこと。教員は「これくらいの試験は出来なきゃ、話にならない」と思ってその試験を作ったのだから。

3. そもそも試験問題を作れない教員がいる。特に適正な難易度割合を意識した試験問題を作れない。試験問題を作れない教員は、大概の場合、授業も下手な教員が多い。

4. 教員が自分の教育力の足りない部分をいい意味でも悪い意味でもよく心得ており(研究主義の場合もここに含まれる)、シラバスと試験まではまともに作って体裁を整えるが、授業実態(教育力)が伴わないため、アンチョコ開示や採点調整などでその不備を補ったりする。

5. 質問に来たり、研究室に訪ねてきたりする学生への個人的で熱心な対応はあるが、教育の単位が〈科目クラス(学生集団)〉であることに無自覚な教員が多い。したがって、点数分布(平均点82前後、標準偏差12前後)、ということに基本的に無関心。科目クラス経営(上位は上位で競い、中位は中位で上位を目指しつつ競い、下位は下位で中位を目指しつつ競うというクラス経営)の認識に薄い。

6. 授業に取り組む姿勢はあっても、授業中のレフェランスがパワポや資料類にとどまり、基本的にトーク中心の授業になっている。パワポや資料はトークのネタにすぎず、肝心な内容は、それら「について」教員が語ることの中に存在している。しかしトークは授業が終わると雲散霧消しており、授業中にも語るそのつど消えていく。ノート取りのよほどの達人以外は授業について行ける学生は少数にとどまる。

※ここで、教科書、図版や参照文献、そしてパワポの箇条書き(やスライドに示されたグラフや図版)などを授業の〝語り〟ネタとしての〈資料〉と呼び、その〝語り〟ネタ「について」語られる内容(教員が教えるべきこと、学生が学ぶべきこと)を書字化したものを〈教材〉と呼んでおこう。

〈資料〉は〝語り〟の始点、〈教材〉は〝語り〟の目的(終点)が示されているものである。大学の授業では〈資料〉はあっても、〈教材〉がない。豊富な〈資料〉を自宅に持ち帰っても、学生はとりつく島のない状態に追いやられる。だから予習も復習もやる気が起こらない。そもそも教員が90分授業で語る文字の総数は25,000字~30,000字。これを〝語り〟で終える授業を理解しろ、というのは苦行以外の何ものでもない。

7. つまり、教員が試験をまともにやれないのは、トーク依存の授業をやり続けているために、学生の専門知識の定着度に自信を持てないからだ。定着すべき内容が可視化(書字化)されていないのだから、それは当たり前のことだと言える。

8. 〝語り〟のレフェランス(参照帰趨性)なしの授業 ― 授業中の〝語り〟が用意した〈資料〉には基づいているが、その解説資料(教材)がないため、時間とともに肝心な内容が雲散霧消する授業 ―では、〈研究〉と〈教育〉とは分離し続ける。というのも、〝語り〟では結構いい加減なことを話し続けることができるからだ(情けないことに、中公新書やちくま新書や講談社現代新書などを一夜漬けで読んで授業ネタを作る教員もいる)。が、ひとたびそれを書字化しはじめると、いい加減なことは書けないという研究者らしい注意と配慮が先立ち始め、10行書くにも何冊かの元文献に当たる必要が出てくる。

9. この書字化としての教材作成が有益なのは、書く度に(自他共に)改善要求が出てくることだ。トークならば、書きかけたパワポを適当にやめて「後は授業で(授業での〝語り〟で)」と手抜きになるが、書字化すると書いたものは手許に残り続けるために、何度も推敲できる(推敲したくなる)。「後は授業で」となるとそこから先の改善は未知数。〝語り〟終えたらさらに未知数になり、〝語り〟授業は何回やっても改善しない。書き直しはあっても、トークのやり直しはきかないからだ。

10. さらに〝語り〟授業の問題点は、(大学の授業で一番重要な)文献指示が弱くなるということだ。教育者(教員)ではなくて研究者であると言うのなら、講義で話す一つ一つの言葉が必ず文献(先行する研究の蓄積)に基づいているはずだが、〝語り〟でそれらをいちいち指摘するわけにも行かない。〝語り〟授業はその意味でたえず通俗性への浮力(先述の〝いい加減さ〟)を含んでいるが、書いていけば註表記などでその種の処理は簡単にできる。〝語り〟は時間のリニアな流れに追われるため、多層な表現を許さない(せいぜい、声の大小だけか、思い付きの板書に終始する)。だから教員の様々な思惑が交差する授業の表現には適さない。

11. 書かれた教材なら(教員も学生も)自由自在に時間の前後を行き来できる。パワポは確かに書かれたものではあるが、〈スライド〉という表現単位が解説に向かない限界を有している。A4ならグラフとグラフの解説を一枚のスペースに収めることができるが、スライドではそれがはみ出るため、思い付きの経済的な解説記述で終わってしまう(これが資料主義授業の限界)。「後は授業で(授業の〝語り〟で)」ということになるのもパワポスライドの限界が反映している。A4ならどんどん解説を多種多様に書き込んでいけるが、そんなわけにもいかないのがパワポスライド。パワポは講演会のような言い放しのツールでしかない。バカでも人前で話せるのがパワポ(講演屋のように)。パワポは、基本的に話者都合のツールであって、学生教育には向かない。授業の目的は読ませることにあるのであって、学生は観客ではない。授業中のどんな〝語り〟も読ませることに向かわなければ意味がない。講義のラテン語lectioは、〈読むこと〉である。

12. さて自分の専門研究と授業科目とは必ずしも一致しないが、それでも、書字化による文献の再収集、再研究は、自分の専門研究の厚みを形成することに役に立たないはずがない。量産型の底の浅い論文を書き続ける間にも、この種の専門教養の厚みを得ることは、次の論文を書くときにも役立つに違いない。

13. そもそも学部(学士課程)の授業のすべては、言ってみれば〝概論〟授業。その意味で、若い研究者にとっては、自身の尖った「研究」を阻害する要素でしかないかも知れないが、しかし〝概論〟は入門教育でも基礎教育でもない。

14. 昔は名誉教授級の教員以外、概論科目を担当することなどなかった。それは、頂点に立った者のみに、そのすそ野の広がりや多種多様な登り道(登山道)の在処が見えるからだ。だから、新書を読んだくらいで(あるいはネットで調べたくらいで)そんな授業に臨めば、多くの落伍者を出すに決まっている。登り道が一つか二つしか、若い教員には見えていないからだ。これは研究か教育かの問題ではない。手間がかかるのではなくて、純粋に専門教養的な勉強が不足しているのである。

15. 教材開発は、通常なら新書や解説書の孫引きトークで済ませるところを丹念に元文献に当たるところから始まる。〝語り〟を書字化する段階で、〝語り〟以上に知識不足を痛感することになるからだ。しかしその不足を痛感することの中にこそ、「新しい研究テーマが伏在している」こともある。「教材作成の途中で、わからないところが出てくる。先行研究の理解が不十分であったり、先行研究そのものが少なかったりする。そこにこそ新しい研究テーマが伏在している。教育と研究は相互に作用する。トレードオフの関係ではない」と井上寿一(前学習院大学学長)が言うとおりのことである(産経新聞「正論」2021年10月18日)。政治学研究者(日本政治学)として第一級の井上でさえそう言うのだから、若手の教員の事情はもっと深刻だろう。高校のような参考書や教材のない大学の授業を担当することは、40才を優に超えた〈教授〉級の研究者であっても荷が重いのだ。

16. つまり〈教育〉は、入門(●●)でも基礎(●●)でも啓蒙(●●)でもない。小学校で学ぶ〈かけ算〉や〈割り算〉でさえ数学の名誉教授が教えれば、数学嫌いを出すことなどないだろう。それは〈数〉に対する専門的な認識の全体から来ているノウハウなのである。教員の専門性の深さと教育力とは相関している。〈教育力〉とはあれやこれやの授業法の問題ではなく、事柄の認識そのものに関わっている。その相関の接点が教材を〈書くこと〉である。

17.教員採用の際、模擬授業のような無粋なことを研究者である教員にやらせる大学があるが、それは、本末転倒。授業に求められるのはパフォーマンスではなくて、教員の〈書く〉〈書ける〉能力、つまりオリジナル教科書(オリジナル解説文字教材)を書ける能力なのだ。それが大学教育のコアとなる教育力なのである。

18. 平均点82点、標準偏差12の科目クラス経営を遂行するためには、パワポ〝語り〟授業を脱却して、自身の授業の〝語り〟にレフェランスを保持すること、最低でも一コマ10,000字~15,000字の〈教材〉を用意する必要がある。

19. そんなことを〝強制〟されるのは嫌だ、自分のやり方で授業はやりたいというのなら、試験作成と試験の運用と試験の採点を第三者に委ね、自身は授業そのものに集中するのがいいと思う。詳細シラバスとしてのコマシラバスの「詳細」とは、試験の解像度(仕上がり解像度)や教材の解像度を上げ、そのことによって授業の質を上げていくというのがその本旨だった。

20. すべては、しっかりした期末試験をやって、学生仕上がりを実体的に可視化することに向けられている。可視化なしには、総括も目標の継続的な高度化も不可能だからだ。教員も学生も授業での実力(教員の教育の実力、学生の学習の実力)を自己認識する体制作りができれば(少なくとも)日本一の大学になることができる。試験不正は学生のカンニングと同じように、あるいはそれ以上の教員による不正行為だと言わざるを得ない。そのような、自分の仕事(ミッション)の自殺行為は行わないで欲しい。真正な研究者ならなおさらのことである。

※参考までに、ここまでの本文で約7,000字(400字原稿用紙17.5枚) ― 全部で8,500字余り(400字原稿用紙21枚) ― である。時間的には講義授業時間90分の30%~50%くらいで話すことのできる分量になる。このように書字にすると30分~45分前後で話せる内容であってもかなりの内容になる。このテキストに基づいて聴講者に〈試験〉することになるとすれば、①「大学における試験の意義は何か」 ②「シラバスや小テストが無効になるのはなぜか」 ③「大学教員による試験不正にはどんなものがあるか」 ④「それはどんな条件で起こるのか」 ⑤「その解決策は何か」などと言ったものになる。

しかしこうして試験テーマを取りだしただけでも、この段階で、聴講者がきちんと答えることのできるテキストが、私の用意したこのテキストだけで完璧なものになっているかと言えば、そうでもない。そもそも、これらの試験テーマにまともな解答を得られるテキストとなると、それ自体一本か二本の論文になるかもしれない(200枚でも足りないかもしれない)。

しかしその種の行き来(原テキストとそのテキストの試験テーマとの行き来)が自由自在にできることこそが、授業の質を上げ、教育の精度を上げていく大学教育の唯一の道である。こういったテキストの行き来に得意な研究者が教員になっている場処が大学なのだから。

話すのが下手な教員、愛想の悪い教員、ひいては「授業が下手」な教員は、大学にはいくらでもいるが(私はそれもメリトクラシーの恩恵を受けた「多様な」大学の教員らしい微笑ましいことだと心から思っている)、「書くのが苦手」な教員はいないはずだ。書字教材は、多様な大学の多様な教員の(下限の)標準性なのである。本来の多様性が花咲くにも、この標準性がないと、多様はカオスでしかない。その上、テキストはそれだけで充分、教員の多様な個性(専門性の水準や観点)を体現している。〝語り〟の方がその内容的な個性は、単に人物論的なだけではるかに曖昧だ。

したがって、こうやって原テキストを書き終えた後でも、書字化しておけば、以下のような多様な「行き来」が可能になる。

①さらなる小見出し作り(小見出しによる章や節のボリュームの大小の調節の必要) 
②キーワード抽出 
③箇条書きのさらなるグループ化(及びそのことによる再構成) 
④アンダーラインによる注意テキストの強調(あるいは授業での〝語り〟連関の指示)
⑤「引用テキスト」の増強
⑥難しい言い回し、展開に飛躍あるテキスト・重複のあるテキストの書き直し
⑦テクニカルタームの歴史(研究史)詮索
⑧15コマの展開との関連情報
⑨他科目連携の情報
⑩この内容に基づいたパワポ化(このテキストとの参照性の高いスライド構成)など

このようにいくつかの工夫を重ねれば、多重な内容をもっと分かりやすく解説できるテキストになる。なによりも重要なのは、一度原テキストをA4一枚でも二枚でも書くと、内容が重層的に(これらの諸項目に倣いながら)拡張・改善していくことだ。この種の改善は、再現性の薄い〝語り〟授業やビデオ収録ではまったく不可能なこと。これをパワポで適当に見出しを掻い摘まんで〝語り〟まくるのと、このように書字化してそれに基づいて修正をくり返しながら話すのとでは、〈表現の質〉〈理解の質〉はかなり変わる。なによりも学生からの質問も出やすくなる。質問の質も(解答の質も)はるかに上がる。テキストに基づいた質問・解答になるからだ。どこがわからないところなのかが、パワポの見出し主義や資料主義よりもはるかにわかりやすくなる。

授業で大切なことは、わからないところがどこなのか、ということを学生にわからせることであって(※)、「なるほど」と言わせて満足度を高めることではない(授業を聴いた途端、学生に「なるほど」と言われて、そのことを「わかる」のに何十年も研鑽を続けてきた教員が嬉しいはずがないではないか)。学生の「わかります」なんてなんの当てにもならない。ましてリアクションペーパーなんて何の当てにもならない。
※わからない学生は、わからないことがわからない。〝語り〟授業だと雲のように言葉が飛んでいくためその〝箇所〟がつかまえられないからだ。

授業中、最前列でうなずき続けていても、リアクションペーパーで「大変ためになりました」と書いてあっても、試験をやるとさっぱり点数が取れない学生はいくらでもいる。その点で、書字化教材なしに、〈教育〉などできるはずがない。〈教育〉が不在の状態で〈試験〉が適正化することなどあり得ない。→大学カテゴリーランキング
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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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