「シラバスの書けない教員こそアクティブ・ラーニングや演習授業が大好きだ」(『シラバス論』261頁)。 2020年03月07日
(…)最後に触れておかなければいけないのは、「大綱化」以降(厳密には中曽根臨教審以降)の大学改革と並行して進められた「新学力観」のことだ。「新学力観」において、「豊かに生きる力」の資質としての「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」が「観点別評価」と共に前面化されたが、これらの「ハイパー・メリトクラシー」(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年)は、カリキュラム開発の動機を殺ぐものでしかない。
なぜかと言えば、「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」などは結果の能力であって、目的にするほどの固有性はないからだ。たとえば、この「新学力観」が嫌う紙ペーパーテスト試験 ─ とりあえずこの「新学力観」が嫌いな「知識」だけを問う試験 ─ の点数は、そもそもが「関心・意欲・態度」「思考力」「判断力」の成果でないとしたらなんなのだろう。そんなものを伴わない「丸暗記」などあり得ない。「丸暗記」でさえも様々な工夫があるのだから。むしろ、「関心・意欲・態度」が満点なのに、紙ペーパーテスト試験点数が60点を切ることの弊害の方がはるかに大きい。教員が各科目の教科指導に注力しなくなるからだ。自分の教科指導の不備を「観点別評価」で補うことになってしまう。
「点数は悪いが態度は良い」などと。しかし、教員がどんな授業をやったのかということと関係のない、学生(あるいは生徒)の点数はない。点数は学生の点数の前に教員の点数でもある。「点数は悪いが態度は良い」というのは、授業の提供側(教員)の反省を殺ぐ評価の言葉なのだ。
この評言を行う教員は、「態度」が「良い」ことを自分の教育のお陰とは思わない程度に「点数」も自分の教育の結果とは思っていない。「観点別評価」はそういった〝評論家評価〟を積み重ねていくことによって、教育改善の契機を奪っていったのだ。教育の〈指導性〉から〈学びの主体〉重視へのこの転換こそ、中曽根臨教審の思想である、〈学校教育〉から〈生涯学習〉へ、〈教育〉から〈学習〉への転換だったのである。教育評価が生徒・学生評価に変わった分、家庭の文化性の比重があがり、「インセンティブ・ディバイド」が前面化したのだ。
苅谷剛彦は、大綱化(1991年)と「新学力観」=「観点別評価」指導要領(1992年)の手前で、「履修」と「修得」という言葉の使い分けが起こったことを指摘している。臨教審直後の1989年の学習指導要領においてのことだった。その使い分けは「『授業に3加し、授業を受けること』さえ満たせば、そこで何を身につけたかは1切問われることなく、必修科目は『履修』したことになる」(『教育再生の迷走』筑摩書房、2008年)というものだ。
1978年の文科省「高等学校学習指導要領解説 総則編」においては、「必修科目」は「修得させる各教科・科目として定められることが適切である」と「解説」されていた履修=修得論が、「必修科目は(…)学校においてそのすべてを卒業までに修得させる各教科・科目として定めることが従来多かったが、地域、学校及び生徒の実態に応じて、これを見直すことも必要である」(文科省「高等学校学習指導要領解説総則編」、1989年)となった。
「履修」と「修得」とが分離されるということは ─ 両者は「明確に区別されなければならない」とまで1989年の「解説」には書き込まれている ─ 、結果的に出席主義でよいということになる。履修基準をクリアする「修得」(単位を取得すること)を、「履修」(出席主義)において棚に上げる「この曖昧さが、中学校卒業者のうち高校に進学するものが97%を超え、しかも中退率は2%程度に過ぎず、同世代の95%が卒業する現実を支えている」と苅谷は結論している。
この「履修」と「修得」との分離の間に位置付くことになるのが「観点別評価」の意欲評価だと思えばいい。いくらなんでも「出席」だけではまずいという意識が観点別「評価」に結びついたのである。「観点別評価」は「履修」と「修得」との外面的な接着剤のような役割を果たした。そして教員たちは、ますます「修得」に教育意識を集中する契機を失っていったわけだ。〝意欲〟も〝自発性〟も、そして「新学力観」も、出席主義(「修得」と切り離された「履修」主義)の形式性を隠蔽するようにしか機能しなかったのである。
こういった、「修得」に関心のない指導要領によって、つまり〈教育〉と教育〈成果〉に関心のない高校の現場から輩出され高校生たちの受け容れ先としての「全入」大学が、「観点別評価」の事なかれ主義に終始するのは、必然だったと言える。「新学力観」の意欲主義と同じように、大学でも「ハイパー・メリトクラシー」や「コンピテンシー」論 ─ 一言で言えば猫も杓子も「コミュニケーション力」万歳!みたいなそれら ─ が声高に叫ばれるが、それもまた「修得」を「履修」でごまかす装置としてしか機能していない。「新学力観」や新しく始まる人物入試選抜の反対語は「アセスメント・ポリシー」なのである。元々〈教育〉に関心のない大学教員は、ますます〈教育〉(修得)に関心を持たなくなるに違いない。一つの科目の「履修」さえ、このように「修得」と切り離されてしまうのだから、科目の体系的な集積としての〈カリキュラム〉はもっとどうでもいいことになる。
どんなカリキュラムでも、どんなシラバスでもそういった人間的な、普遍的な素性にかかわる側面を有しているからだ。カリキュラムもシラバスも現状のまま全く変えなくても、いくらでも理屈は付けられることになる。作文と書類のヤマが増えるだけのことだ。
教員をつかまえて、「この科目、ここまで教えて欲しい」と具体的な知識目標を課すと、大概の教員は、「無理ですよ、学生の基礎学力が不足している」と言うか、「無理ですよ、15回では難しい」と言うかどちらかだ。けれども「『関心』を持たせて欲しい」と頼めば、「なんとかがんばります」になる。
つまりこれらの能力論は、反カリキュラム論である。科目ヒエラルキー、コマヒエラルキーについての意識を持たない能力育成論なのである。ハイパー・メリトクラシー論、あるいはコンピテンシー論の取り組みは、大抵は「interdisciplineな(=学際的な)取り組み」になるが、そういったinter-discipline な(=学際的な)取り組みにも「discipline がなければならない」と指摘したのも、先の「学士課程教育の構築に向けて」答申だったことを思い起こすべきだ。
私はこの答申を中曽根臨教審以降の文科省の取り組みの自己反省文書だと思うが ─ おそらくこの答申の書き手は、中曽根臨教審以来冬眠し続けてきた「学校派」の書き手が目を覚まして書き上げたものだと思うが ─ 政権交代のドタバタで雲散霧消してしまった。
さらには馳浩文科大臣(2015年)のときにも、教科活動を通じてのハイパー能力育成という重要な指摘があり ─ 馳文科大臣の背後にも「学校派」がいたと私は思う ─ 、「学士課程教育の構築に向けて」答申の2段階目の反省が7年ぶりに始まるかと思っていたら大臣が替わりまたハイパー論だらけになっている。
ポスト産業社会の人材キーワードがハイパー・メリトクラシー論の諸々(文科省の「生きる力」1996年、内閣府の「人間力」2003年、OECD-PISA の「キー・コンピテンシー」2003年、厚労省の「就職基礎能力」2004年、経産省の「社会人基礎力」2006年、文科省の「学士力」2008年)なのだが、それは〈学校〉という枠組みを超えて知識獲得の機会が広がることを意味している。それが、特には中曽根臨教審以降「学校教育は生涯学習の一部」とされたことの意味だった。つまり〈学校〉と〈教員〉の地位が相対的に低下したということだ。教員は「指導」者ではなく、「支援」者になってしまったのである(木村元『学校の戦後史』岩波新書、2015年)。
これは学校の権威の象徴である〈図書館〉の蔵書が、〈情報〉や〈データ〉に成り下がった現象と並行している。今やインターネットによって「いつでも・どこでも」学べるわけだ。それはシラバスもまともに書けない大学の教員の授業に通うよりはるかにましなのかもしれない。事実そうであるように「大学改革」は進んでいる。シラバスの書けない教員こそアクティブ・ラーニングや演習授業が大好きだ。(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』254~261頁より)
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