〈教育〉と〈education〉という言葉の語源について(『シラバス論』272~277頁) 2020年03月07日
(…)特に中曽根臨教審第二次答申(1986年)の第二章には「家庭の教育力の回復」と独立して章があてられ、「(…)教育を学校のみの問題としてとらえがちであったことについて、家庭が反省し自らの役割や責任を自覚することが何よりも重要である」とある。自民党保守派の家族主義が独立した章にあてがわれるほどに臨教審のイデオロギー色は強い。私はこれを臨教審の曾野綾子主義と呼んだことがある。
教育現場では〝できない〟学生が発生し欠席が連続し退学予備軍が生まれると、保護者と連係を取ろうという動きが生まれるが、〝できない〟学生の保護者は保護者自体が困難な事情にある場合も多く、「家庭が反省し、自らの役割や責任を自覚する」余裕などほとんどないのが現状である。答申から30年以上経って、その現状は日増しに高まっている。教育現場(学校)が「学校(教育)だけではどうしようもない」と音を上げたときに、子どもたちが戻れる家庭などもはや存在しないのだ。
苅谷剛彦はいささか背伸び気味の近著『追いついた近代 消えた近代』(岩波書店、2019年)で、中曽根臨教審について独立の章を当てて ─ その臨教審をリードしてきた香山健一のテキストを参照しながら ─ 、その思想の特質を、西洋近代化を目指す「追いつき型教育」が軽視してきた「主体性」や「個性」と、「日本的な価値」としての修身的な「自立自助の精神」との「奇妙な結びつき」に見る。苅谷は香山の軽薄な脱近代化論に引き摺られてこんな解説になっているが、臨教審の本質は月並みな保守的家族主義にあり、保守的家族主義は、学校教育における「主体性」尊重や「個性」尊重という傾向とそもそもが親和的なのである。それは「奇妙」な親和性でも何でもない。
すでに触れたように(ブルデューが喝破したように)、それらは下位階層を構造化する「無色化」された「評価用語」に過ぎない。
そもそも〈教育〉という言葉の意味はなんだったのか。寺崎弘昭は、『孟子』の「得天下英才而教育之三楽也」(天下の英才を得て之を教育するは三の楽なり)の「教育」という言葉にまで遡る(「歴史のなかの教育」、天野郁夫編『教育への問い』所収、東京大学出版会、1997年)。しかし、「それが漢字文化圏たる日本においてその注釈というかたち以外で使われるのは江戸時代中期以降のことに属する」と、藤原敬子の研究(「我が国における『教育』という語に関しての一考察」三田哲学会『哲学』第七三集、1981年)を参照して指摘する。
「『教』一字や『育』一字あるいは『教化』という言葉は頻繁な使用例が見出されるにもかかわらず、『教育』という言葉はどうしたわけか馴染みのない言葉であり続けた」が、その理由は「得天下英才而教育之三楽也」という用例が、「『教育』をすぐれて君子にとってのいわば秘儀的ないとなみとして用いていたことが与っていたであろうと推測される(…)まさか庶民のいとなみにその語を適用するわけにはいかなかったのだ」と寺崎は言う。
孟子の文脈を離れた日本における「教育」という言葉の用法は、常磐潭北『民家童蒙解』(1737年) ─ 「子を育るには先其身を正しうし、妻や乳母を戒て、あしき言をいはせず、あしき戯れをさせず、仮にも嘘をいはせず、万事正しかるべし。(…)如斯にして生質の美醜は論に及ばず、若その身正しからずんば、子の教育は何ともいふべからず。これ子を育る道によりて、其身を修め人を修る道を得るなり」 ─ に見られると寺崎は続けるが、これも「君子ならぬ父のいとなみとして語られた『教育』」であって、「『育』一語で互換可能なものとして出現している」と寺崎は言う。「そしてこのいわば『育』に傾斜した『教育』は、一九世紀に入るとむしろ『教』ないし『教化』と重なりを増しつつ、『学校ハ教育ヲスル所』(辛島鹽井『学政或門』、1816年)というような用法」になっていったと寺崎は指摘するが、江戸期を通じて「『教育』は教育事象を排他的にいい表わす唯一の言葉ではありえなかった」と結論する。
そして〈教育〉という言葉が日本において定着するのは、箕作麟祥(1846- 1897年)によるeducation の翻訳プロセスでのことだった。箕作麟祥 ─ 箕作は、日本最初の法学博士(1888年)であり、「憲法」「権利」「義務」などの言葉も彼の翻訳によるものである ─ は、『チェンバースの百科事典(Chambersʼs Information for the People, 1859)』の一項目であるeducationを最初〈教導〉と訳していたが(1873年) ─ ただし藤原敬子によれば、箕作が編集に関わっていた『英和対訳袖珍辞書』(1862年)では、最初、education を「養育すること」と訳していた ─ 、『チェンバースの百科事典』再版(1878年の有隣堂版、1884年の丸善商社版)では〈教育〉と訳し、「ここに『教育』はeducation の訳語として確立することになる」(寺崎・同前)。education は、「箕作という一人の人物においても、養育→教導→教育と改変されたのである」(藤原・同前)。
一方、education という言葉自体の意味について、寺崎は、ルソーが『エミール』(第一編)の中で前一世紀ローマの学者ワローの言葉を引いていることに言及する。「『産婆は引き出し、乳母は養い、師傳はしつけ、教師は教えるEducit obstetrix, educat nutrix, instituit paedagogus, docet magister』とワローは言っている。このように、教育すること(éducation)、しつけること(institution)、教えること(instruction)の三つは、養育者、師傳、教師がちがうように、それぞれちがう目的を持っていた」(『エミール、またはéducation について』、1762年)。そして寺崎は、前二者の「産婆は引き出し、乳母は養い(…)」を、「教育することéducation」という一つの言葉で受けていることに注目する。
寺崎は言う。「『引き出す(不定詞educere をもつ三人称単数現在形educit)』という言葉も、「『養う・太らせる(同じく、educare, educat)』という言葉も、ともに動詞〝educo〟の変化形であり、それらは同時に〝educatio〟という名詞で自然に承けられるのだ。それゆえ、『産婆(obstetrix)』の仕事と『乳母(nutrix)』の仕事が一つの〈教育(éducation)〉という名詞で承けられることに、書き手も読み手もなんの違和感も抱くことはなかったのである」(寺崎・同前)│ただし、ルソー自身はこれらのワローの区別を「よい区別とは思えない」(『エミール』第一編)と言っていたのだが、ルソーの教育論については別稿に譲りたい。
そして、寺崎は次のように結論する。「それゆえに、いわば教育関連ラテン語彙につながる世界においては、〈産〉・〈育〉・〈訓〉・〈教〉はそれぞれ別の意味をもって語られていたのであって、そして〈産〉と〈育〉という二つのいとなみが同じ一つの名詞《education》で承けられ語られたのであった。逆に、いま私たちが『教育』の本体だと考えてしまっている〈訓〉や〈教〉といった学校的ないとなみには、まったく別の言葉、《institution》や《instruction》という言葉があてられていたのである」(寺崎・同前)。
つまり今日的な〈教育〉education は、その古層の意味としては〈産育〉のことであって、ギリシャ語のオイコス(οἶκος)に基づいた家政学のことを意味した。「家政学」のことを近代的にはhome economics と言うが「経済学」のeconomics も含めてギリシャ語語源オイコス(οἶκος)から来ており、ギリシャでは奴隷労働も含めて労働自体が家族共同体に内属し、〈家族〉があらゆる生産の単位であったという点でhome economics(家政学)とeconomics(経済学)との区別はない。家政学=経済学だったわけだ。
「ところが」と寺崎は続ける。「この古層をなしていた〈育〉の文化世界 ─ 食物を与え、肉体的欲求を充足することによって、子ども・動物を育むこと ─ は徐々に〈教〉の世界によって古語の領域へと押しやられ、あげくに飼い馴ら(domesticate)されていくことになる(…)。このプロセスは、一七世紀以降、とくに一八世紀をつうじて、それまでの《education》の場だとは認められてはいなかった学校が、いやむしろ自分こそが〝education〟の場だと強烈に主張しかつその地位を獲得していくプロセスとしてとらえられる」( 寺崎・同前)。
したがって、近代的な学校教育は「《education》という言葉の意味をめぐる争奪戦の果てに成立したメカニズムであった」(寺崎・同前)と寺崎は言う。その意味で「家庭教育」という近代的な言葉は、考えてみれば不思議な言葉なのである。それは臨教審的な復古主義と言うよりは、近代的には、家庭を学校教育化するという意味でしかない。そしてまさにその意味でこそ、〈学校教育〉の力が弱体化しつつあるということである。
(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』272~277頁より)
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