大学の種別化、機能的分化と専門職大学のことなど(『シラバス論 』261~265頁) 2020年03月07日
(…)文科省の悪名高き「我が国の高等教育の将来像」答申(2005年)は、大学の「機能的分化」という言葉を使って、大学を以下の7つに分けていた。「① 世界的研究・教育拠点、②高度専門職業人養成、③ 幅広い職業人養成、④ 総合的教養教育、⑤ 特定の専門的分野(芸術、体育等)の教育・研究、⑥ 地域の生涯学習機会の拠点、⑦ 社会貢献機能(地域貢献、産学官連携、国際交流等)」。
これが悪名高い分化論であるゆえんは、既存の大学の偏差値格差、都市大学と地方大学格差を「機能的分化」という言葉でまぶしたような分化論=大学階層化にみえるからだ。20年前の中曽根臨教審のなれのはてがこの「将来像」答申だと言ってもよい。なぜかと言えば、その20年間であれだけ手垢の付いた「個性」「特色」という言葉をこの「機能分化」にことよせて、「個々の学校が個性・特色を1層明確にしていかなければならない」と言うのだから。2008年の「学士課程教育の構築に向けて」答申はそういった悪評判を踏まえて出直したような印象がある。そして2018年の「将来構想部会」(文科省)では、この「機能別分化」が3つになり、「① 世界的研究・教育拠点」「② 高度な教養と専門性を備えた人材の育成」「③ 職業実践能力の養成」と変化する。ほとんどの大学は②(ときどき ③)を自認するだろうから、「将来像」答申のような反撥は起こらないだろうが、これでは大まかすぎて意味がない。要するに「機能」という言葉を濫用しているだけのことだ。
専門職大学の設置の時も「これまでの大学とどこが違うのか」という関係者の問いかけに、「何も違わない、機能が違うだけ」と言いつづけたのが文科省だった。学校教育法の第83条の「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」の「応用的」あたりの中身をまさに「機能」的に読み替えたのかもしれない。しかし、この83条を変えずに専門職大学を新設したのだから、つまり、「学術の中心として」を外さずに新設したのだから、専門職大学の職業教育は、ふたたび〝普通の〟大学よりは学術的に劣った大学として(結果的に)位置付くことになるだろう。そもそも〝普通の〟大学もますます職業教育的になりつつあるのだから。機能的棲み分けの趣旨は最初から混乱しているのだ。
同じようなことは、この専門職大学の設置の前段のところで専門学校の「一条校化」という議論があったとき起こっている。「一条校化」を断念した結果、「職業実践専門課程」という〝新しい〟課程ができた。これは従来の専修学校にあった「一般課程」「高等課程」「専門課程(=専門学校)」の3つに新たに付け加わる4番目の「新しい」課程のように思われたが、タイトル名称は「専門課程(専門学校)」卒の〈専門士〉、〈高度専門士〉と変わらないということになった。これも「機能」が違うだけと言いたげな変更だった。「一条校化」を断念したおみやげのような職業実践専門課程にとどまったのだ。
〈機能(function)〉の反対語は〈実体(substance)〉である。〈実体〉を変えるには法律の変更も含めて作業が膨大になる。だから面倒くさいということなのだろうか。法律を変えてまで新しいものを作るときには財務省の締め付けもある。しかし文科省はいつまでこの「機能別分化」という曖昧な大学施策を続けるのだろうか。
たとえば、この問題は、「機能別分化」論の悪評を受けて提出された「学士課程教育の構築に向けて」答申では、以下のように総括されていた。「これまで大学設置の規制を緩和したり、機能別の分化を促進したりすることで、個々の大学の個性化・特色化を積極的に進めてきた結果、大学全体の多様化は大いに進んだ。しかしながら学士課程あるいは各分野の教育における最低限の共通性があるべきではないかという課題は必ずしも重視されなかった。例え580に達する。また、その名称の約6割は、専ら当該大学のみで用いられている。このように過度に細分化された状態が真に学問の進展に即したものなのか、学生の学習成果を表現するものとして適切なのか、能力の証明としての学位の国際的通用性を阻害するおそれはないのか、懸念を持たざるを得ない状況である。こうした状態は今後進めていこうとする留学生交流についても、隘路となってしまうおそれがある」。「多様性と標準性の調和」という画期的なテーゼを打ち出した「学士課程教育の構築に向けて」答申ならではの「懸念」が表明されている。ここでいう「標準性」 ─ 「最低限の共通性」 ─ というのは、「機能別分化」(個性・多様性)の反対語なのである。「機能別分化」は大学施策の「隘路」でしかない。
もっとも「機能的分化」の反対語は「種別化」だというのが ─ 「種別化」という言葉自体はすでに「38答申」(1963年)において登場している ─ 天野郁夫の解説である。たぶん「将来像答申」は大学の種別化にかかわる議論のように見えたのかもしれない。しかし制度上の種別化はすべて終わっていると言ってよいと天野は言う。「『大学』、『大学院』、『専門職大学院』、『短期大学』、『高等専門学校』、『専門学校』という制度の枠組みがそれ」だと。「問題になっているのは、そうした制度的に種別化された学校間の境界の再確認だと言える」(天野郁夫『大学改革を問い直す』慶應義塾大学出版会、2013年)。
天野によれば、「機能別分化」は「種別化」の後の事態であって、その逆ではないということだ。アメリカのような「多様な」大学の伝統、ヨーロッパの「アカデミー」における職業教育の伝統を持たない日本の大学において、「機能別分化」も「種別化」も、ましてそれらの内外の「境界の再確認」も容易でないことは、「専門職大学」設置におけるドタバタの経緯をみているとよくわかる。
余談だが、シラバスもろくに書けない「教員」ばかりが集まりつつある専門職大学で、どこに「高度」な職業教育が展開される可能性があるというのだろう。ば、学位に付記する専攻分野の名称は年々多様化し、その種類は平成17年度時点で約580に達する。また、その名称の約6割は、専ら当該大学のみで用いられている。このように過度に細分化された状態が真に学問の進展に即したものなのか、学生の学習成果を表現するものとして適切なのか、能力の証明としての学位の国際的通用性を阻害するおそれはないのか、懸念を持たざるを得ない状況である。こうした状態は今後進めていこうとする留学生交流についても、隘路となってしまうおそれがある」。「多様性と標準性の調和」という画期的なテーゼを打ち出した「学士課程教育の構築に向けて」答申ならではの「懸念」が表明されている。ここでいう「標準性」 ─ 「最低限の共通性」 ─ というのは、「機能別分化」(個性・多様性)の反対語なのである。「機能別分化」は大学施策の「隘路」でしかない。
もっとも「機能的分化」の反対語は「種別化」だというのが ─ 「種別化」という言葉自体はすでに「38答申」(1963年)において登場している ─ 天野郁夫の解説である。たぶん「将来像答申」は大学の種別化にかかわる議論のように見えたのかもしれない。しかし制度上の種別化はすべて終わっていると言ってよいと天野は言う。「『大学』、『大学院』、『専門職大学院』、『短期大学』、『高等専門学校』、『専門学校』という制度の枠組みがそれ」だと。「問題になっているのは、そうした制度的に種別化された学校間の境界の再確認だと言える」(天野郁夫『大学改革を問い直す』慶應義塾大学出版会、2013年)。
天野によれば、「機能別分化」は「種別化」の後の事態であって、その逆ではないということだ。アメリカのような「多様な」大学の伝統、ヨーロッパの「アカデミー」における職業教育の伝統を持たない日本の大学において、「機能別分化」も「種別化」も、ましてそれらの内外の「境界の再確認」も容易でないことは、「専門職大学」設置におけるドタバタの経緯をみているとよくわかる。余談だが、シラバスもろくに書けない「教員」ばかりが集まりつつある専門職大学で、どこに「高度」な職業教育が展開される可能性があるというのだろう。
(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』261~265頁より)
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