学校教育における職業教育の諸課題(『シラバス論』351~356頁) 2020年03月14日
※本間正人さん(京都造形大学教授)との、大激論公開対談(学校教育における〈キャリア教育〉とは何か)からの抜萃。
●二重の差別を受けてきた「職業教育」
芦田 そういった議論を前に進めるために二点指摘したいことがあります。一つは、本間先生はいま偏差値が上の方の子はキャリア教育はなくてもいいかもしれないという前提(僕もその前提を共有していると指摘されながら)でお話になっていますよね。
僕はこの問題の内部には、実は別の問題があると思います。80年代後半の中曽根臨教審、これは下村博文さん(2012年~2015年の文部科学大臣)や安倍さんが全く同じ方針を引き継いでいますが、基本的にキャリア教育や職業教育に対する差別視がある。
つまり、一方にはジェネラル・エデュケーションとリベラル・アーツというこれまでの偏差値型の軸が一本あって、今の日本の教育体系ではこれを「頭がいい」と判断します。そこで、本間さんもおっしゃるように、シェイクスピアやエリオットやフォークナーなんて、偏差値40の学生にやらせたってしょうがない、という意見を仮に認めるとしましょう。この意見を、私は曾野綾子主義(あるいは三浦朱門主義)と呼んだりもしています(笑)。
そして、その「偏差値の低い」子どもたちに、シェイクスピアやエリオットやフォークナーを諦めさせて、「上場企業とは何か」とか「社会で働くとはどういうことか」とか「親になって子どもを養育するとはどういうことなのか」みたいな話しはしなきゃいけない、そう本間先生もお考えになっていますよね。そういった文脈が、今の「キャリア教育」の文脈です。つまり、できない子どもたちが差別されているのと同じように「キャリア教育」も差別されているわけです。
一方で、私立名門校の教員たちは東大へ合格させることが最良のキャリア教育だと考えている。一方で、「できない子にはせめて社会接続準備のキャリア教育くらいは」という認識が存在している。職業教育はそうやって、(1975年の専修学校制度の発足以来)二重に差別され続けてきたわけです。「職業教育」っていうのは、そんないい加減なものでいいんですか、というのが私の、もう一方での問題意識です。
つまり、キャリア教育の文脈は、専修学校が、“できない子どもたち”の受け皿であったようにして、この変化と多様性の時代においても、ふたたび“できない子どもたち”の受け皿としての機能しか持たされていない。できない子どもたち領域に特有な教育というかたちで、キャリア教育を学校教育に持ち込んでいることにも、私は反対なんです。
実際、職業教育に特化した大学としての「新たな機関は、トップ層ではなく中堅・中間層をもっとレベルアップするためのもの。正規分布の真ん中にいる人のレベルを上げることが重要」「新機関の入学生は、恐らく入試圧力を受けておらず、勉強の習慣が身についていない学生が多く入ってくる」などといった審議委員の意見が公開されているところからも、この新大学が「職業教育」に期待する質がうかがい知れるわけです。
その意味で言えば、僕は、むしろ逆に「できない子」にはフォークナーやエリオットをやらせて、「できる子」には、きちんとした職業教育をやるべきだと思います。だって、〈教養〉なんて後期中等教育で偏差値がそこそこあれば、相当な教養でしょ。だから教養の有無は、できない子どもたちの必須の課題なんです。むしろ。
重要なことは、高校卒業時点で、高度教養教育に進路を定めるか、具体的な高度職業教育に進路を定めるかを、対等な立場で選択する体制を作ることです。今の進路指導は、勉強が嫌いなら専門学校か、短大の資格教育みたいな進路選択になっている。職業教育は差別されているわけです。偏差値の高い子どもたちの選択肢としての職業教育が存在していない。
●偏差値七〇の生徒や学生たちための職業教育カリキュラム
芦田 結局、偏差値七〇の子であってもやる気が起こるようなシステムエンジニア教育だとか、あるいは在庫管理の専門家を作るとか、マーケティングの専門家を作る、ファイナンスの専門家を作る……実はいまの大学にはこういう動機が全くないんです。石原都政の時、専門高校の進学校化という魅力的な施策が打ち出されましたが、これも成功していない。結局、そこそこの大学の教育学部を出た先生たち自身が「そんなバカな」と思ってしまうからです。本気で打ち込めない。
だから例えば「自分はシステムエンジニアになりたい」、「アーキテクトになりたい」と言って、早稲田の理工学部(今では理工学術院)に入っても、熱力学の授業を受けたり機械工学の授業を受けたり材料工学の勉強をしつつ、自分の受けたい授業は週に四単位あるかないかです。あとは地頭がいいから、書店でプログラムやシステムエンジニアリングの洋書を買い、むこうの専門のIT技術の勉強を自分でやっていく。だけど、大学に行って、自分のやりたい授業がほとんどないというのはおかしいでしょう。
僕が一時カリキュラム開発でご協力頂いた鷲崎弘宣(早稲田大学理工学術院准教授)っていうオブジェクト指向の、日本を代表する優秀な研究者がいるけど、その鷲崎さんのオブジェクト指向論を学びたいと思って早稲田に入っても、鷲崎先生の授業がずっとあるわけじゃありません。もし彼の講義やゼミを80~100単位履修して卒業すれば、就職後の10年間くらいの社内研修講師ができるくらいの実力が付くでしょうが、そうはなっていない。
日本の工学部教育では、一番職業教育に近いところでもまだ自分のやりたくない授業をやらされるんですよ。国立大学になると必修単位もちゃんとあって、職業的なことを意識しているところはありますけど、日本のほとんどの大学生をカバーしてる私立大学には、優秀な学生が小躍りして集中して行くような専門家を作るカリキュラムは存在していない。すごく勿体ない状態になっているわけですよね。もっと専門の先生がついて、システムエンジニアになるための80単位の必修授業、あるいはマーケティングの専門家になるための80単位の授業、あるいは在庫管理の専門家になるための80単位の授業を早稲田や慶応の商学部でやっちゃえば、〈キャリア〉ってことに対する考え方が、もっと違ってくると思うんですね。〈学士力〉なんてわけのわからないものをわざわざ言う必要はなくなる。
●〈卒論〉が存在する大学はカリキュラムが存在しない
芦田 いま、卒業要件の最低単位要件は124単位ですが、僕が調べた範囲では、私立大学は偏差値が高い大学も低い大学も、必修単位なんて10単位から20単位しかありません(選択必修というまやかしのような科目群はいくつかありますが)。4年間で10科目くらいの必修単位しかなくて、〈人材〉なんか作れるわけがない。これには、他の原因もあって、必修科目をたくさん作ると「多様化」した学生の履修単位が留年がらみで積み上がらないため、退学者増加の危険を避けたい、という思惑もあるわけです。
逆に言えば、選択科目がたくさんあれば先生たちは科目のクラス経営にずっと鈍感でいられるということ。二重三重にカリキュラム意識が希薄になっているのです。
だから、僕は本間先生の今の話し方で言うんだったら、全く逆のことが言いたいわけです。日本のキャリア教育の問題、あるいは職業教育の問題を論じるのであれば、大学教育に〈人材〉を作るカリキュラムが存在してないってことです。〈卒論〉というのもカリキュラムが存在しないというのを自己暴露しているような制度です。
各科目が講座主義的に分断されていて科目間連携が縦にも横にも存在しない。敢えて積み上げがあるとすれば第二外国語の語学の授業くらいに留まっていたのです。各科目が縦にも横にも関係のない概論授業に留まっているが故に、「卒業論文」という外面的な接着剤のような仕掛けを作って、学士タイトルの代替としてきた。これがカリキュラムの不在を長い間補ってきたわけです。今では卒論さえ指導できない大学が増えてきている。長文を書かせる経験という意味では、〈卒論〉の存在に意味はあるのですが、根本の問題は、カリキュラム問題です。
一方で医学部や法学部には元々〈卒論〉がない。それは国家資格に関わった科目、あるいは内容の指定性が高いからです。その分カリキュラムらしきもの ― 「らしき」ものというのは、外部資格の中身を意識せざるを得ないカリキュラムに過ぎないのですから、既成の教科書を使った概論講座の集積であることに変わりはないからです ― が存在することになる。その点では学校外〈資格〉で囲い込まれている専門学校に卒論がないのも同じ事態です。→大学カテゴリーランキング
(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』351~356頁より)
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