苅谷剛彦と家庭格差と教育格差について(『シラバス論』278~286頁) 2020年03月07日
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苅谷剛彦は、戦後教育(日本型学歴主義)の平等感を、「画一的な平等化(生徒を分け隔てなく同じように扱う)」→「教育機会の拡大(高校全入運動)」→「メリトクラシーの大衆化(〝生まれ〟によらず誰にも教育において成功するチャンスが与えられている社会)」→「競争条件の均質化、平準化(偏差値による「客観的」「可視的な」基準による選別の公平性)」→「特権意識のない(…)学歴エリートの誕生(特定の文化的アイデンティティを持たない、大衆との連続線上に存在する学歴エリート)」→「不平等問題への視線の弱化(差別感を持たない教育への配慮)」と六段階に整理して、以下のように言っている。
「形式的な平等性によって、選抜の公平さを確保してきた戦後の日本では、これまで主観的な評価を受け入れる伝統が弱かった。従来の入試のように日本では形式的に人びとを公平に扱う手続きが、選抜の公正さを支えてきたのである。そのような社会で、『個性』のように解釈に幅のある基準を選抜に用いる場合、階層文化から『中立的』に見える学力というものさし以上に、子どもの育つ家庭の影響を受ける可能性がある。個性を重視するといっても、すべての個性に価値が与えられるわけではない。また、どの子どもも、高い価値が置かれる個性の持ち主とはかぎらない。個性もまた不平等に存在している可能性がある。高く評価される個性の持ち主は、どんな家庭の子どもか。子どもの育つ家庭の文化的環境のみならず、稽古ごとやスポーツ教室への参加経験がものをいうようになるかもしれない。稽古ごとやスポーツ教室への参加が、親の学歴や職業と関係していることはすでに知られている。そうだとすれば、多様な評価基準を選抜に用いることは、学力とは違うかたちで、社会階層の影響を選抜に持ち込む可能性がある」(『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年)。
苅谷はこの著作の後、学歴主義の公平感を支えていた努力主義を実は「母親の学歴相関」によるものとして、1970年代後半から1990年代後半までの20年間に生じた「意欲の階層差」(『階層化日本と教育危機』有信堂高文社、2001年)を指摘していたが、それは努力主義の公平感「イデオロギー」を単に批判するためだけではなかった。「だれをも競争へと巻き込む圧力が減り、学校の後押しが弱まると、努力の階層差が拡大する条件が生じる。
いわば、受験競争に向けた動員力が弛緩することで、学力や教育達成における階層間の不平等の拡大・顕在化の可能性が出てくる」ということだ。そして苅谷は、この著作をこう締めくくっている。「今後、努力の総量はさらに減少し、その階層差もより拡大するだろう。その結果、基礎学力の低下、学力の分散の拡大が予想される。進行中の教育改革はこのような問題を抱えている。教育改革に参画する研究者・政策立案者は、この問題をどう受け止めるのか(…)」(同前)と。「努力の総量」の「減小」とは、「受験競争に向けた動員力が弛緩」することによる「学校の後押し」の弱体化のことだ。この「意欲」や「努力」の「階層差」と本田由紀の指摘したハイパー・メリトクラシーの家族主義を重ねて考えれば、両者に共通するのは、今日における家族主義に依存した学校論、つまり反〈学校教育〉論への危惧なのである。
苅谷に影響を受けた木村元は消費社会化と高度情報化がらみで、〈学校〉という「リジッドな空間」を「緩める」動きを指摘している。「大衆消費社会や高度情報化の進展はその(学校の︱引用者注)影響力を年々強めていく。モノやサービスの消費を自己のアイデンティティと感じ、他者と同一の処遇を忌避し、将来のために今を我慢することに価値をおかない人びとの意識は、それとは逆の価値のもとにある学校の規範を緩める方向にはたらく。また、高度情報化社会は時間と空間の制約を受けずに人間関係をつくりあげるため、人びとの結びつきはより柔軟になり、学習のためだけに組織された学校というリジッドな空間の特殊性を、より浮かびあがらせることになったのである」(『学校の戦後史』岩波新書、2015年)。苅谷や本田の議論をこの木村の議論に重ねて考えるとすれば、〈学校〉がかつて「リジッド」であったとすれば、〈家庭〉も「リジッド」であったのだろう。消費社会化と高度情報化は〈学校〉(学校圧)と〈家庭〉(家庭圧)との双方を「緩める」動きなのである。
その結果、木村は次のように続けている。「産業社会からは一線を画す文化の防波堤を築いていた学校も、90年代に入るとそれを維持できなくなる。子どもを『教える─学ぶ』の関係につなぎ止めていた学校文化が大きく揺るぎ、『学びからの逃走』(佐藤学)ともいうべき状況が進行していった。
藤沢市において、1965年代以降五年ごとに実施されてきた市内の中学校三年生への学習調査では、平均の一日の勉強時間が1965年から2005年の40年間の間で、『毎日二時間以上』が20.8%から7.8%へ、他方『ほとんど勉強しない』という者が1.6%から14.1%へと推移している。『勉強への意欲』ということでは、『もっと勉強をしたい』は65.1%から24.8%、『勉強はもうしたくない』4.6%から22.1%となっており、子どもやその環境の変化が明確にうかがわれる(第10回「学習意識調査」報告書「藤沢市立中学校三年生の学習意識」)」。苅谷剛彦の言う「努力の総量」の「減小」と並行した事態がこの藤沢市の長年にわたる調査で明らかになっているが、木村自身は「学校文化と情報・消費社会化のせめぎ合いにおいて、後者が前者を凌駕していく過程で、子どもを学校に囲い込むことが困難になっている」と結論づけている。
一方、1990年から5年おきの調査を行ってきたベネッセ教育総合研究所の調査(2015年「第五回学習基本調査」)では、偏差値帯域のどのレベルでも2006年以降学習時間は増えつつある。偏差値55以上では105.1分→119.1分に、偏差値50以上55未満では60.3分→84.5分に、偏差値45以上50未満では62分→65.5分に、偏差値45以下では、43.2→44.6にいずれも上がっており、偏差値55以上の119.1分というのは、90年時点の114.9分さえも超えている。
大綱化以降の大学全入時代の流れを考えると、これらの統計調査の妥当性を議論するまでもなく、学習時間は減少するのが当たり前のようにも思えるが、最近の学習時間の増加については、2006年の調査を行ったベネッセによれば、増加する「宿題の影響がある」ことが明らかになったとされている。もちろんこれは単に「宿題」の増加によるものばかりではない。
ベネッセのこの調査に巻頭のコメントを寄せている耳塚寛明は次のように言う。「一九九
〇年代終盤から起こった学力低下論争は、新学習指導要領導入後の学力低下に対する激しい不安を世論に惹起した。そのため文科省は『学びのすすめ(確かな学力の向上のための2002アピール)』を公表し、その後も学力向上のための施策を矢継ぎ早に放った。『学力向上フロンティア事業』や『学力向上アクションプラン』が導入され、全面実施されてまだ一年経たにすぎない新学習指導要領の一部改正が告示された。『ゆとり』から『脱ゆとり(学力向上)』へと実質的な路線変更がなされた。学力の国際比較調査(PISA2003、TIMSS2003、2004年公表)も日本の学力低下を印象づけ、脱ゆとり路線の定着に一役買った」(「子どもの学びの四半世紀(1990年~2015年)」、『第五回学習基本調査』巻頭言所収)。
そして「脱ゆとり」主義による新しい学習指導要領に基づく教育が、小学校では2011年度(平成23年度)、中学校では2012年度(平成24年度)、高等学校では2013年度(平成25年度)から実施されることになる。この論考でたびたび言及してきた中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」(2008年)の「標準性」概念の導入もこういった流れの先鞭をつけたものと言えるかもしれない。
苅谷剛彦たちの2000年前後の「ゆとり」批判の提言(一九九五年『大衆教育社会のゆくえ』から2001年の『階層化日本と教育危機』、2002年の『調査報告「学力低下」の実態』への展開)は、「脱ゆとり教育」への転回だけではなく、学力テスト(「全国学力・学習状況調査」)の復活(2007年)を準備したという指摘もある ― 中澤渉は「学力テスト復活のきっかけとなったと思われる対談がある。1999年7月5日と19日の『朝日新聞』朝刊の教育面に掲載された当時東大助教授の苅谷剛彦と当時文部省政策課長の寺脇研のものである(この対談は後に『論座』1999年10月号に掲載される)」(『日本の公教育』中公新書、2018年)と、苅谷たちの提言と文科省との微妙なからみ具合を指摘している。文科省も財務省の財政的な締め付けがきつくなってきているため、データを取ることなしにはなにもできない状態になってきているのだと思う。中曽根臨教審のようなデータなしのイデオロギー色の強い答申に基づいて展開した九〇年代文科省施策を反省した上での旋回だった。
苅谷剛彦たちの報告の意義は、〝データでものを言え〟ということだったのかもしれない。たとえ〈意欲〉=〈学習時間〉という苅谷たちの等式が危ういものであったにしても(これについては本書・附論1「大学入試改革と人物評価主義について」でも触れるが)、苅谷の議論と私の議論とでずれが生じ始める原因は、彼にとって〈意欲〉の反対語が〈個性〉や〈才能(生まれつきの能力)〉であるのに対して、私にとっての〈意欲〉の反対語は〈知識〉であるからだ。私にとって〈知識〉は、苅谷の言う「家庭環境」であれ「意欲」であれそれらのゼロ地点から発生するものでしかない。カント的な〈理念〉の統制的原理のように。
さてしかし2009年から成績が上がってきたPISAの調査後も親の学歴相関の値はそれほど変わっていない ─ そもそも2006年のPISA調査では日本は「親の学歴や親の職業など、家庭的背景による学校間格差が参加国六〇カ国の中で最も高い」ことを垂見裕子は指摘している(「PISAから日本の学力格差をみる」早稲田大学高等研究所、2012年)。高校生で言えば、1990年時点で87分の学習時間が2015年では73分となっている。比率で言えば、前者の時点では親が大卒学歴の家庭の学習時間は非大卒系のそれに対して122%だったが、後者の時点では126.3%(同前)とその差が開いている。大学進学への影響が高い高校在学時における親の学歴による意欲格差は縮まっていない。耳塚も先のコメントの中で「保護者の学歴等による学習時間の格差が大きい」とまとめている。
さらには、厚労省が2017年に行った「二一世紀出生児縦断調査(平成13年出生児)」
では、中学校三年生のとき学校外で勉強を全くしない中学生は6%しかいなかったが、その中学生たちが高校生になると学校外で勉強しない生徒は25.4%にまで増加している。これは最新の2017年の数値だから、文科省の脱ゆとり主義が依然として機能していない領域があるということだ。「意欲の階層差」は依然として存在している。「文化貨幣」(コリンズ『資格社会』有信堂高文社、1984年)としての学歴の文化性はかなり怪しくなっていることだけはたしかだ。
とはいえ私は、学校圧はまだそれなりに機能していると思っている。二つの(視聴率の高い)テレビ番組を見ていると特にそう思う。ナインティナインの岡村隆史(もう終了したがフジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』)が「先生」になって〝勉強の出来ない〟老若男女タレントを教室に集め、中学校程度の英語、国語、数学、理科などの問題を彼ら・彼女らに解かせる「抜き打ちテスト」シリーズがあったが、その中で評価も実績もある有名タレントたちが簡単な問題を間違うと顔を赤らめてとても恥ずかしそうな顔をするのだ。そもそもが〝勉強ができない〟ことをみんなでバカにする番組なのである。
形式的な学歴でではなく、まさに〝努力〟と〝人キャラクター物〟で実績を築き上げてきた地位のある人たちなのに、とても恥ずかしそうな顔をする。ということは、この人たちは学校圧の中で同級生や同世代の人たち、あるいは世間に対して恥ずかしがっていて、それは〈社会人〉になっても消えないメリトクラシー社会の圧を感じているということだ。自分は親や家庭や地域のせいで勉強しなかったのではなく、純粋に怠けていたからこんなことになったという感性 ─ つまり苅谷剛彦が言う「意インセンティブ欲」の平等感 ─ がなければ、あれくらいのバラエティー番組で、しかも〝実績〟ある人たちが恥ずかしがることなどないにもかかわらず。というか番組自体がメリトクラシーを前提にしないと笑えない番組になっている。
もう一つの番組はテレ朝の『あいつ今何してる?』。これも〝実績〟あるタレントが中学時代や高校時代の同級生の、気になる「あいつ」の「今」を当時の卒業アルバムを見ながら特定し、番組で探し出す番組。同級生と本人は、ビデオでしか対面しないが、その「あいつ」が自分のことを覚えてくれていただけで、タレントの方が泣いてしまう場面も多々あるほどにタレント自身が素の姿を露呈してしまう、という番組だ。普通は逆で、素人の同級生が、〝有名になって〟〝出世した〟タレントが自分を覚えてくれていて感激という絵になるのだがこの番組では逆の絵になる。
これも同級生は、どこまでいっても「あいつ」で、仮にエリートであっても「手に届く」エリート(苅谷剛彦)であるという日本的な学校圧 ─ クラス内の平等感 ─ の番組なのだ。特に〝有名になって〟〝出世した〟タレントが当時〝頭のよかった〟「あいつ」を未だによく覚えていて尊敬していることがある。これも「めちゃイケ」と同じで、日本のメリトクラシー(学校圧)現象の一つだ。もちろん『めちゃ×2イケてるッ!』は、既に数年前に終わった番組だし、現役の『あいつ今何してる?』も10年後20年後の同級生に出会う番組であるために、少なくとも1990年代以降の学校圧減小を語るには一部不適切かもしれないが。いずれにしても苅谷剛彦の言う「努力の総量」の「減小」というのは、こういった学校時代の「あいつ」との平等感が消える事態を意味している。
(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』278~286頁より)
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