学生は〈顧客〉ではない(『シラバス論』186~188頁) 2020年03月14日
なぜかと言えば、学校教育では、〈学ぶ主体〉などまだ完成していないのだから。むしろ〈学ぶ主体〉を形成するのが学校教育全体の目的であって ― 教育基本法では「人格の完成」いう言葉があるが、これは第一条「教育の目的」に属している言葉であって、まだ人格として完成していない子どもたちを前提とした言葉である ― 、〈学ぶ主体〉を前提にするのであれば、〈学校教育〉は存在する意味がない。
〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子どもたちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子どもたちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成していくのだから。
学歴社会(メリトクラシー)というのはもともとそういう意味だった。一言で言えば、学歴主義とは家族や地域の文化環境をリセットし続ける成金主義である ― このリセット装置を竹内洋は「敗者復活装置」「過去の達成の御破算主義」と呼んだが(『日本のメリトクラシー』東京大学出版会、1995年)。「学歴貴族」(竹内洋)、「グロテスクな教養」(高田里惠子)という言葉をかみしめればいい。いい意味でも悪い意味でも。大学教授会ほど「多様な」人々が集まる組織はないが、それは学歴主義の恩恵をもっとも受けた人たちの組織だからだ。〈知識〉に定位するからこそ、〈多様性〉が生まれるのである。教授会は文科省がコントロールできないほど「多様な」組織なのだから。
その一方、テッド・ネルソンが前提する〝学びの主体〟とは、すでに充分に家庭的文化的な恩恵を受けている〝裕福な〟主体に過ぎない。そんな〝裕福な〟主体の教育は東京の名門私立学校に任せておけばいい。
この議論は中曽根臨教審の「学校派と生涯派の論争」(内田健三『臨教審の軌跡』第一法規出版、1987年)から今でも延々と続いていると思われる。そもそも、一九九一年の大学「大綱化」は中曽根臨教審の思想(「学校教育は生涯学習の一部」という思想)に基づいて始まったものだ。有田一寿たちの学校派は生涯派(香山健一たち)に敗北する。2013年に、私はこの「学校派と生涯派の論争」について以下のようにまとめている。
「(……)結局、『学校中心主義からの転換』としての生涯学習論は、〈学校教育〉否定論であり、 〈学校教育〉以前に〈学びの主体〉を想定する家族=地域論=社会的ニーズ論(キャリア教育)である。臨教審全体は、内田健三も言うように「学校派と生涯派の論争」 (内田健三『臨教審の軌跡』)の場所だったと言える。
高等教育が学生顧客論(学生消費者論)に立つのは、90年代に始まる少子化現象がマーケット主義を増長させるからではない。生涯学習はもともとが顧客=消費者主義。〈学ぶ〉ことは、学ぶ者の〈手段〉にすぎない。通常、生涯学習的な講座の受講者傾向は、学ぶ目的は受講者の側にあり、カリキュラムや科目は手段にすぎないということにある。何のために役立てるかは、受講者の受講目的次第ということになる。生涯学習マーケットの大半を構成する社会人がいまさら何の役に立つかもわからないものを自費で受講したりはしないからだ。したがって生涯学習講座評価の根拠は受講者の側にある。この種の講座評価が受講生アンケートでなされるのはその意味でのことだ。
しかし〈学校教育〉が対象とする児童・生徒・学生は、まだ社会人のようには〈目的〉を自律的に持てない。この「持てない」というのは何らかの限界や無能力を意味しているわけではない。何にでもなれるし、何を目的にすることもできるということが若者(児童・生徒・学生)の、つまり次世代を形成する人材の特質だということだ。〈学校教育〉の対象である若者(児童・生徒・学生)は、〈学校教育〉を通じて目標を見出すのであって、そこに〈学びの主体〉は(まだ)存在しない。〈学びの主体〉を形成するところが〈学校〉であって、〈学校教育〉は〈学校学習〉ではない」(『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』ロゼッタストーン、2013年)。→大学カテゴリーランキング
(『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』186~188頁より)
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