2月27日朝日新聞朝刊「文化・文芸欄」の私の記事「究極に公平な入試とは ― マークシート、実は家庭の影響の排除」の補説 2020年02月28日
私の近刊『シラバス論』(晶文社)の補論(1)「大学入試改革と人物評価主義について」(309頁~331頁)が機縁になって朝日新聞社から依頼があり、1400文字という厳しい文字制限の中でなんとかまとめた入試改革議論が2月17日朝刊の「文化・文芸欄」に掲載されました(以下挿入画像参照のこと)。1400字に簡略する前の段階の原稿(この原稿は1900文字あり、それを1400字に再度書き直したものが朝日の記事です)を掲載しておきます。少しはこの詳細版の方がわかりやすいかと。もっと詳しいバージョンは、『シラバス論 ― 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』(晶文社刊)の当該個所とシラバス論本論をお読み下さい。シラバスの問題と入試改革の問題は、同じ問題の裏表の関係になります。それが私のここ数年来の主張です。
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入試改革の目玉だった英語の民間試験活用や記述式試験の導入が見送られた。根本的な原因は「公平性が損なわれる」という世論の強い反発に尽きる。
しかし今回の入試改革問題は、これらの導入の延期にとどまらない問題を含んでいる。下村文科大臣の教育再生実行会議から始まった今回の入試改革の起源は、1993年の学習指導要領における「新学力観」にある。
「新学力観」は「新ゆとり教育」と「観点別評価」を教育現場に持ち込んだが、それは、〈何を〉学ぶか、知るかよりも、それを学び、知る主体に軸足を移す教育観だった。いわゆる〈学びの主体〉論である。90年代以降、〈学び〉という再帰的な教育論・生涯学習論が蔓延したのもそれに由来する。
特に観点別評価は知識評価を一観点に相対化し、何を学び身につけたかよりも、学ぶ姿勢を評価する。従来のように期末試験の紙試験点数(いわゆる知識試験点数)で決まっていた一科目の知識履修評価は、90年代以降、一部の高偏差値の高校以外、50%にとどまり、残りは意欲評価(「関心・意欲・態度」など)になってしまった。この害悪は大学にまでむしろ拡大された形で偏差値の高低にかかわらず伝染し、知識期末試験は30%程度の評価しかない大学もたくさんある。中等教育から始まった観点別評価は、大学では、文科省の推奨する「多様な評価」によってもっと影響力の強い普遍的な評価方法になっている。
知ることそのものが重要ではなく、知る態度が重要というこの転換は、結果的には、知識と態度(学びの主体の性向)との機械的な分離を生んでしまった。40点にとどまる知識点数に20点の態度点数が加わることによって、従来不合格であった生徒・学生が態度救済的に合格する事態が教育現場に蔓延した。
評価において知識修得とその態度が分離されると、教員自身の知識教育への取り組みも軽薄化する。40点以下の「わからない」落伍者をたくさん出しているにもかかわらず、そこに反省の目を向けない教員・生徒(学生)共々の体質ができあがる。
従来、学校教育が〈態度〉を涵養するのは、一つの知識修得が次の高次の知識を修得するというように、「わかる」ことが次の理解への意欲を生むプロセスを通じてのものだった。意欲があるのに知識がないというのは、単に教えるのが下手な教員がそこにいるということでしかない。そうでないのなら、その子供はどんなに教えるのがうまい教員がいても先天的に知性のない子供だという判定をされたことになる。そういった根拠のない判断をし続けているのが、高校・大学での観点別評価の実際である。
大学生を含めた未成人の子供たちが「観点別評価」による態度評価、つまり知識教育と切り離された態度評価を迫られるということは、学校教育以前の態度評価に晒されることになるということである。
では子供たちの学校教育以前の態度評価とは何か。それは子供たちの未熟性を保護する家庭や地域の文化性を評価することに他ならない。観点別評価導入の根拠となった中曽根臨教審(その本質は保守的な家族主義)は、それゆえ「地域連携」や「家庭教育の重視」を声高に叫んでいた。
しかしスマートフォンやSNSによって脱家庭化しつつある子供たちにとって、また経済格差によって子供の教育に充分な関心を持てない家庭が増えつつある今、〈知識〉から〈態度〉を切り離し、地域や家庭の文化性に依存する観点別評価は、かえって教育格差=知識格差を拡大する。
学校教育が知識教育に集中するのは、それ以外の主体の素性評価を行うと家庭や地域の文化格差を拡大するだけのことになってしまうからだ。未成年の子供の多様性は、家庭や地域の多様性に引きずられることも多い。学校教育の関わる多様性とは、国家や組織の上部階層に、どれだけ多様な階層(出自)の人材を送り込めるかの多様性であって、いわゆる〈個性〉とは何の関係もない。
マークシート方式による知識試験は、そういった意味で、意欲や態度を棚上にする試験だった。そのことによって、とりあえずは家庭や地域の文化格差を棚上にしていたのである。知識=点数、点数=意欲だったからだ。点数に結びつかない意欲など意味がないからこそ、教員は「わかる」授業を目指す。「わかる」授業こそが次の知識への意欲を生むのである。これが家庭や地域に依存しない学校教育のリーダーシップだった。教育における公平性とは家族や地域格差からの独立性だったのである。家族や地域というのは、子供たちが「主体的に」向かいあえない階層の母体だからだ。
記述評価における文体の評価は個性の評価と絡んで親の学歴や文化性と無関係ではない。民間試験の有利不利は地域格差や経済格差と無関係ではない。両者は、学校教育のリーダーシップと公平性に根本的に反している。学校教育の自殺行為と言ってよい。
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