Twitterについて ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第三回+第四回) 2018年03月30日
●Twitterとは何か(1) ― 電話からTwitterへ、あるいはポストGoogleの課題
Twitterの特長は、同期性だ。ブログやSNS、掲示板やチャットとどこが違うのか、とよく話題にされるが、Twitterは携帯電話の延長にあると考えて良い。
電話はもともとが同期メディアだった。「同期」というのは、発信者と受け手とが同時に存在しているということだ。話し手、聞き手が同時に〈そこ〉にいるという実在性が電話コミュニケーションの基盤をなしている。
ところが、電話の特長であるこの同期性が薄れてきた。留守録機能と着信通知機能(あるいは着信非通知)が電話の同期性を殺いでいる。おまけに持ち運びが手軽にできる携帯電話は同期という時間性だけではなく、場所の制約も相対化してしまった。
電話の同期性は留守録機能と着信通知機能によって意識的な選択の対象になり、自然な時間性(あるいは場所性)を回避するようになってきている。
人々は「便利」だと思っていた電話の同期性(や場所の特定)をむしろ「うざい」と思い始めたのである。
Twitterもまた発信と受信が同時に起こる。書いているときが読まれているとき、そういう同期構造を成立させているのが「タイムライン(=TL)」だ。フォロー数が多ければ多いほど同期性(現在の共有度)は高まる。
「つぶやき」は、そのタイムラインを通じて、予期せぬ仕方で向こうからやって来るし放っておいても消えていく。つまりタイムラインは同期性=現在を形成し続けている。
電話の同期性は、
1)チャットの同期性と同じように、一つのテーマと相手の意向を追い続けなければならないというキツさを強いられる。
2)この追跡の時間は、リアル時間としての流れる現在であるため、話題や相手の意向の追跡以上に時間に拘束されているというキツさが存在している。
一言で言えば、電話の同期性には現在の共有というコミュニケーションリアリティーは存在しているが、その分、選択と自由がない。その分「うざい」。
特に携帯電話が電話コミュニケーションを徹底的に個人化した分、個人の行動と情報を24時間全面的に捕獲し、「うざい」緊張関係はさらに先鋭化したといえる。
携帯電話以前、リビングや玄関先に固定電話が設置されていたときには、電話に出ないことは自宅に偶然いないことを意味したが、電話が携帯されるようになれば、電話に出ないことは不在を意味するのではなくて、意識的な拒否を意味するようになった。拒否を意味しないまでも、出ないことの理由について“説明”が必要になったのである。着信通知(あるいは留守特機能)はその選別性をさらに強化した。
選別性の強化は内面性の強化を意味している。24時間、電話に出るべきか、出ざるべきかを自己に問い続けることになるのだから。「オンライン自己」(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100524/227559/)の「ありもしない」内面性の起源の一つがここにある。
一つのテーマや話題に集中し、かつ流れる現在においてそれに集中することは、内面をどんどん強化し神経戦を強いられることになる。携帯電話のある時代の恋人たちは、待ち合わせに不自由を強いられることはないが、一旦その関係がこじれ始めると一秒刻みの神経症的な心理戦に落ち込むことになる。分かれるにも「同意」が必要とでも言うかのように。男女関係も民主主義でなければならないとでも言うかのように。「うざい」ことになるわけだ。
逆の言い方もできる。若い世代の恋愛が、ここまで情報ツール、交友メディアが拡大したにかかわらず広がらないのは、友達関係が男女関係と同じかそれ以上に緊密化し、ことさらに男女関係を結ぶことに余裕がないからだ。友達関係を「維持する」ことに手一杯なのである。24時間「会えない時間」まで思いつづけることは、もはや男女関係だけのことではない。というより、少数のn個に対する過剰な配慮が関係の全てなのである。
この携帯電話の〈現在〉共有の限界は、特定の個人に限定されること、それゆえ特定の話題に限定されること。
携帯電話の「いつでもどこでも」の便利さは、むしろ特定の個人との交流を極限化(細分化)しただけのことであって、交流する人々が増えたわけではない。「いつでもどこでも」同じ人との神経症的な交流を深めているだけだ。着信対応が少しでも遅れると「何していたの?」と問われ、「返信が1分でも遅れると(個人的に)嫌われる」「返信が遅いビジネスマンは仕事ができない」といった強迫観念に追われている。
話し相手が遠くにあっても〈そこ〉にいるという臨場感が電話メディアの特質だったが、留守録や着信通知、そして何よりもメール機能によって、電話はフローメディアでなくなっている。
Twitterは、それに反して
1) 多数の他者、多数の話題との交流
電話と同じように流れる現在の緊迫感の中にあるとはいえ、多数の他者、それと共に多数の話題が到来するために内面神経症にならない。テーマを追おうとした途端に、別の話題に包囲されるため、主題主義のきつさ(専門性の高い啓蒙主義)や内面性の詮索から自由でいられる。
「タイムライン」は、自分で選んだ他者の発信でありながら、現在という短い時間で切り取られた情報が発信されるために、どれもが新しいニュースのような他者相貌を示す。
しかもいつまでも「タイムライン」の〈そこ〉に居座らずに、瞬時に消えていく。フォロー数が多ければ多いほど情報の新鮮度と信憑性は高まる場合が多い。
RSSなどの「更新性」概念よりも現在を微分化するタイムライン機能の方がはるかに情報度が高い。実際、Twitter利用後、RSSリーダーを使わなくなったユーザーも多い。RSSによる「更新」は〈時間〉ではなくて〈順序〉を示しているだけだからだ。しかし〈時間〉こそが〈他者〉としての価値ある情報を生む根拠である。〈順序〉にはすでに反省が入り込んでいる。
フォロー者(自分が誰のツイートをフォローするかという意味での)はTwitter参加者の主観的、主体的な「選択」のように見えるが、実はそうではない。現在という短い時間の記述は、誰が書いても、自分の人格性や専門性(ストック性)を裏切るような記述にまみれることになる。
フォロー者の「選択」は大概の場合失敗するが、しかし失敗したからと言って特に後悔するわけではない。数秒間の間でさえ多数の人間を横断するツイートの連続が人格的な連続性(=個人性)を希薄にするため、ブログやミクシィのような「人間性」に影響されることがないからだ。多数の人間が同じ時間を共有して〈そこ〉にいるのに「うざい」ことにならない。
特定の少数者に過剰な仕方で内面監視される携帯電話の強迫性からTwitterは免れている。「多数」の「他者」を非選択的に享受できる仕組みが、タイムラインの機能。どのつぶやきも同じように見え、どのつぶやきも違うように見えるという不思議な数多親和性、他者親和性がTwitterには存在している。
2)〈現在〉を通じた他者と話題との交流
話題や属人的な内面性が散漫であるにしても、それが「2ちゃん」的な掲示板よりもはるかに近接した現在の話題であるとことによって、一定の共有可能なリアリティを有している。
Twitterは、留守録機能、着信通知機能、メール機能によって喪失してしまった電話の同期性=現前性(〈そこ〉の共有)を新たな仕方で回復しようとしている。最近ではメールよりもTwitterのDMの方が早く連絡がつくといったことも起こり始めている。
また電話をする場合も相手がTwitterをやっているとき(=暇)にかけるということも起こっている。〈そこ〉に相手がいることの確認は電話よりもTwitterの方がはるかに効率的ということだ。
ブログやミクシィのような発信(書くこと)と受信(それを読むこと)との同期がずれるメディアに比べてTwitterの興奮度が高いのは、これまでのどのメディアよりも同期性が高いことから来ている。
発信も反応を見ながらただちに修正ができる。受信(読者の受容)も他の反応を見ながら受容できる。かつ主題主義的な拘束性(2ちゃん的な主題性を追う時間共有の「うざさ」)もない。Twitterは同期性の高いグループウエアなのである。
ミクシィは、ブログに比べて「マイミク」を組織している分、反応性の高い媒体だったが、それでも反応性が遅れる。それは発信そのものが反省的な発信であるため、反応も身構えるからだ。主題が双方で呼応しないと反応も盛り上がらない。
書き込みの時間とそれが読まれる時間がずれればずれるほど、反応も選別される。ブログの場合はもっと孤独な傾向が続く。「マイミク」のおかげで、ブログの孤独な書き手は、ミクシィに流れたのである。
しかし〈日記〉というものは元々、一日の終わりに書き始めるもの。すでに〈その時〉を逸している。〈その時〉に対する反省=編集を経てしまっている。この反省や編集の加わり方を、人は〈人格〉〈主体〉〈個性〉…と呼んでいるわけだ。
しかし今日食べたラーメンがなぜおいしかったかという反省(=うんちく)よりも、今食べているラーメンが「うまい」という一言の方がはるかに喚起力がある場合がある。現在という時間の共有が言葉の意味の鮮烈性に荷担する場合がある。Twitterの意味作用を支えているのはこういった反省以前の時間共有なのである。
3)〈現在〉という短い時間=短文における交流
この同期性の新たな獲得は、ブログやミクシィの反省主義=テーマ主義に対抗的なものとなっている。
ブログやミクシィにおける記述は、時間を溜めた表出(反省的表出)という点で同じものだ。時間は溜めれば溜めるほど個人差(年齢の差、経験の差、知識の差、専門性の差)が出てしまう。それは個人のタイムスパン(人生)を長い時間で見れば見るほど「格差」が付いてしまうのと類比的な事態。
メディア表出の属人性はタイムスパンの長い区切りの結果であって、ブログやミクシィはその意味で属人的なのである。
一方、Twitterの表出は滞留のない表出。まさに「いまどうしてる?」「いま何を思ってる?」という現在重視の「つぶやき」であって、短い時間区切りで行動を問えば、人の行いなど大した差異は出ない。
寝て、起きて、食事をして、仕事をして、遊んで、帰る。どんな人でもやっていることは短い時間の区切りではこれだけのこと。だから、タイムラインの「つぶやき」やその応酬には平等感があふれている。
バカも賢者もない。どちらもがバカにし合い、どちらもが重宝し合っている。人間に「格差」が出るのは反省するときだけ。脊髄反射のような短文140文字に格差などでない。
ブログやミクシィなどの属人性は、すべて反省(reflection)がもたらす属人性。反省には平均化、捨象、構成、編集がつきものだが、そのすべての過程で経験と知性が反映する。このプロセスがTwitterにはほとんどない。
また、そういった反省の高度な質を成立させ、それを受容するプロセスは主には長文形成や長文読解の訓練を含んでいたが、140文字くらいはブログやミクシィまでにも至らない書き手の誰でもが書けるし、誰でもがその短文を読み終えることができる。
人が『源氏物語』を評論できないのは、それが難しいからではなくて、それが「長い」ために全部を読んだことがないからだ。
シェークスピアもマルクスもハイデガーも短文を書き続けていれば、どんなに無知無学な読者からでも無資格に評論されたに違いない。終わりが見える文章ほど民主的なものはない。140文字の短文は誤解にも充ち満ちているが、正解にも充ち満ちているのである。
Twitterの「タイムライン」の形成するこういった三性格(他者の数多性、現在の同期性、短時間・短文の平等性)が、「うざい」携帯電話に代わる新しい同期性を形成している。
電話の持っていた同期性は、一人の人間の現在を、一つのテーマでもって追い続けること。しかし、Twitterの「タイムライン」では、一人の人間も一つのテーマも最初から同じ現在において相対化されている。内面の重さに沈む要素は元から存在していない。どこから入ってもかまわないし、どこへと出て行っても良い。
しかしそういったある種の軽薄さに人が滞留できるのは、まさに〈現在〉という時間が荷担しているからである。その発言の背後に実際の身体を備えた人間がいるという確信が140文字の軽薄さに有意義性を与えている。
これは、検索主義の批判としかいいようがない。ネットをめぐる情報は検索利用されるが、検索で得られる「データ」は、入力の時間(データがネット上に公開された時間)と利用される時間(検索時点)とが異なる。
ネット上の膨大なデータは、たとえ同じ言葉がヒットしたとしても、数々の脈略(数々の経緯=時間)の中で生まれてきており、この脈略=時間の差異(入力の時間と利用の時間との差異)を何らかの方法で適正化する能力を求められる。
「検索能力」とはこの時間差を補正する能力だと言って良い。それは〈情報〉に〈身体〉を与える作業。情報利用とは、無時間な情報に時間=現在を与える、つまり情報の現前化である。
しかしこの種の能力は、誰にでもあるものではない。一つのテーマを根気よく追い続けながら、時間差を補正する作業は専門的な研鑽を積んだものでなければできない。Wikipediaどまりでは「検索」したことにならない。あるいはWikipediaを読んで、どんな書き手の経歴がこのWikipediaの文章を書かせているかの判断ができないようでは、Wikipediaの使用を誤ることになるだろう。
Twitter上の「タイムライン」はこの検索における補正作業が不必要。データが入力される時点と利用される時点とが同じであるために、検索不要のデータ消費ができる。しかもこの消費はタイムラインのツイート生成機能によって飽きることがない。流れる現在のリアリティーがフローデータを有意義化しているのである。あたかも〈現在〉こそがストックの宝庫であるかのように。
人は、Twitterの「タイムライン」においてはじめて検索なしに情報活用できるメディアをネット上に獲得したのである。その意味ではTwitterはポストGoogleの最右翼と言える。
はてさて、Twitterのタイムラインの「現在」は、ストックの現在を本当に形成しうるのか? そこが次回のアジェンダだ。
※なおTwitterに関わる私の他の論考は、こちらにまとめてあります→http://www.ashida.info/blog/twitter/。
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Twitter論(2) ― サーバーコミュニケーションの心理主義と「異端の時代」
●「異端の時代」としての近代
Peter L.バーガーは、科学技術による自由の増大を近代性の進展と捉え、それは同時に「選択性の増大」を意味すると言っていた(『異端の時代』(新曜社)。
「近代意識とは宿命から選択への移行を伴っている…近代人は、前近代人なら無反省に自然に行動できる場面で、立ち止まって考えねばならない…選択が増えれば反省も増す。反省する人間は、否応なくいっそう自分を意識するようになる」。
バーガーはそう言うことによって、近代化は宗教性を廃棄するのではなく、反省性=内面性の増大の帰結としての宗教性をむしろ強化すると言いたいのだ。
そもそも「異端」を意味する英語heresyはギリシャ語のhaireinに由来するが、haireinの元々の意味は「選択する」という意味。近代人はもとから「異端」であるわけだ。そういう仕方で正統派(宗教的な内面)を反対強化するのである。バーガーによればフォイエルバッハの唯物論までもが「異端」にすぎない。
バーガーのこの本の英語版初版は1979年。その後、携帯電話やメールなどの24時間のグローバルコミュニケーションツールを得た近代人は、はるかに「異端」的になって、内面強化の神経症に陥っている。
●多チャンネル時代も男女関係も「異端の時代」
バーガーの関心は一貫して宗教的な関心にあるが、私はこの問題を別の文脈で考えたい。
「選択性の増大」というのは、自己(内面)が肥大化するということと同じことを意味している。自己が肥大するというのは、どういうことか?
たとえば、多チャンネルでインタラクティブなTV時代(CS放送やBSデジタル放送など)を迎えたということは、まさにチャンネルの選択性が増大したということだ。
しかし多チャンネル時代というのは、たくさんの番組が見られるということではない(この点がよく誤解されている)。多チャンネルということで、選択する主体の可能性が広く広がったような気にさせるが、実態はそうではない。
多チャンネルになるということの本質は、人は見たくないものを見ないですむようになったということだけのこと。HDDコーダーの容量が2テラ、3テラになっても事情は変わらない。
たとえばリモコン操作によって、見たくないシーンがでてくるとすぐにチャンネルを変えてしまう、という状況を考えれば、それはすぐにわかる。テレビ操作のリモコン化も、たくさんのチャンネルを見る可能性を広げたというよりは、見たくないものを見ないですむようになったというだけのこと。
携帯電話も「いつでもだれとでも」連絡が取れることによって、他人との出会いが広がっているわけではなく、すでに特定化された個人との出会いが緊密になっているだけ、つまり話したくない人とは話さないだけのことだということ。
電話が家庭の中で一台、リビングにしかなかった時には、お父さんやお母さんという“障害物”を乗り越えないと彼女とは話せなかったが、携帯電話や携帯メールによっていつでも彼女と連絡が取れる。
お父さんやお母さんの存在はそれを超えてでも彼女と連絡が取りたいというまじめさや熱心さのフィルターの役目を果たしていたが、今では誰とでも容易に連絡が取れるため、彼女の方も「反省と比較の考察」なしには、彼を「選ぶ」ことが出来なくなっている。
彼女は彼と「出会う」のではなくて、彼を「選ぶ」のである。彼も彼女も「異端」なのであって、男女関係もまた自己表現の材料に過ぎない。
●「選択性の増大」は、主体を強化せず、むしろ衰弱させる
選択性の増大 ― それを私たちは〈自由〉と呼んだりもしてきたわけだが ― における自己の肥大というのは、したがって何をやってもただただ自己を再認することの反復にすぎない。
選択性の増大は、知見の増大や経験の増大を意味しない。むしろ選択性は、自己を無菌化しながら衰退させるということだ。
知見を広げるという意味では、チャンネルを変えるために席を立つのがいやで我慢して見ていたテレビ番組の方がよほど適しているとも言える。
知見や経験を広げるというのは、現状の自己を〈否定〉するものに出会うということを意味しているわけだから、極端にいえば嫌いなテレビ番組をみることの方に意味があるわけだ。それは人間との出会いでももちろんそうだし、学校教育の履修制度でも同じこと。
この連載第1回の「オンライン自己論」(http://www.ashida.info/blog/2018/03/_bpnet.html#more)でも触れたとおり、1990年初頭以来の選択科目制度の拡張(コース制、専攻制の設置の柔軟化)=必修科目の相対的な縮小もまた、勉強や学習を自己表現の手段としてのみ考える傾向を意味している。
〈知らなければいけないこと〉が、〈知りたいもの〉に解消し、それが「主体的」「自主的」学習と呼ばれ続けてきている。15歳から20歳にかけての若者の「知りたい」ことなどたかがしれている。少なくとも20歳くらいまでは必修科目の基礎教育が必要にあるにもかかわらず、またそれこそが本来の学習〈主体〉を形成する基盤となるにもかかわらず、選択制による自己表現科目論が趨勢となっている。
インターネットの検索主義=ハイパーリンクもまたこのような主体的な学習に典拠している。
わからない言葉があると検索し、リンクを辿り続ける。テッドネルソンは、学び方は学ぶ者の数だけ存在していると言いつづけてきた。肯定的なものの連続がハイパーリンクの特色だ。内面的な意志の持続だけが強要されている。学びの内容の諸段階よりは、抽象的な意志の持続が前面化する。
ゲームもスイッチのon-offが終わりを定めているように、ハイパー型の学習も意志のon-offが終わりを決める。意志の区切り(パンクチュエーション)が何か(たとえば学びのオブジェクト)に従属するということはない。
情報化における情報量の拡大は、その意味で内面意志としての〈自己〉を貧弱化させるものでしかない。情報は多いが自己を再認する情報でしかなく、情報化が拡大すればするほど、自己は(ひ弱に)縮小していく。選択的な「私」の増大はむしろ再認的な「私」の縮小を意味している。
ネットと共に成長してきた24時間メディアは、24時間きつい自己他者管理を強いられる割には、退屈な自己他者が露呈するばかりだった。
ブログでは孤独すぎるくらいの自己管理、ミクシィ(MIXI)ではうるさすぎるばかりの他者管理、携帯電話・携帯メールではまるで恋人同士のような友達管理。
Twitterのタイムラインは、その意味で、選択的な内面の現在を四方に拡散させる。目移りするように他者がタイムラインを通過するが、どれも親和的だ。
〈現在〉は平等に与えられているために、自己=他者融合が生まれているのである。
●ヘーゲルにおける歴史の終わりとサーバーコミュニケーションの心理主義
ヘーゲルは、その〈現在〉の論理学を「規定」の論理学に求めている。
彼は「即自的に存在しているものは対他的にも存在している」と言う。
「人間は(人間自体的に)理性的な存在である」という時の対他存在が、たとえばとりえず「動物」だとしよう。
「即自的な」区別でみれば、人間=理性的な存在、動物=非理性的な存在ということが言えるかもしれないが、この区別は対他的にも存在しているというのがヘーゲルの主張。
たしかに動物の中にも「理性的」と言える動物も存在している。それは言い換えると人間の中にも、「動物的」な人間がいるのと同じことだ。人間の中にも、犬のような顔をした人間もいれば、犬の中にも人間のような顔をした犬もいる。
或る人間が「人間は理性的だ」と言うとき、その隣にいる人間もまた「理性的だ」と必ずしもその彼は思っているわけではない。また他ならぬそう言う自分自身が必ずしも(=いつでも)「理性的」であるとは限らない。
そのことを指して、ヘーゲルは「即自的に存在しているものは対他的にも存在している」と言った。「規定(Bestimmung)は性状(Beschaffenheit)に移行する」とも言っている。
ドイツ語で「規定」(Bestimmung)は「使命」(Bestimmung)をも意味するから、人間が理性的であるという「規定」は、人間の「使命」なのであって、必ずしも実際の人間が「理性的である」とは限らない。その限りで、「規定」は「性状」にすぎない。
理性的でない人間もいれば、理性的な動物もいる。即自的な規定は、形容詞(性状)へ移行すると言っても良い。
上野動物園でサルの世話をしている人間はサル「である」し、血液型O型の人間もA型的なところもある。
占いが「優秀」かどうか(=「よく当たる」かどうか)は、午年生まれ、獅子座生まれ、血液型O型というローカルな特定をしても、そのローカルな特定の中に、他の全てのローカルな規定を含んでいるかどうかにかかわっている。どんなふうにでも反対説明ができるようになっていなければならない。明るい人であっても暗いところもあるというように。
占いの真理性は、心理的である限りは、いつも心理の全体であるというようにしか存在し得ない。
この原理は、ヘーゲルの〈世界史〉概念の原理でもある。世界史という概念は、高校の教科書では当たり前のように用いられている言葉だが、考えてみるとこの言葉は不思議な言葉だ。世界という空間(地域)概念と「史(歴史)」という時間概念とが混合しているからだ。
ヘーゲルは、〈世界史〉というのは西欧で完結した(=終わった)からこそ成り立つ概念だというふうに考える。なぜなら西欧は〈自由の原理〉を初めて確立した地域だからだ。ナポレオンは「世界精神」の顕現だというように。
西欧以外の場所=地域は、歴史の諸段階の「古い」時間(=古い原理)を示している。地球儀という現在=地域の中に時間が刻まれているのである。西欧の現在(西欧という地域)こそが歴史の終点であり、終点の意味は、この終点の中に世界全体が顕現するからである。
これを「西欧中心主義」と笑うのはたやすいことだが(笑うのは、バーガー的な「異端」主義に他ならない)、重要なことは、ヘーゲルが場所と時間を結びつけて考えていることである。これは西欧思想の一つのエポックであった。
この考えで言えば、(三木成夫がいった意味で)人間が胎児としてすごす285日間の中に生命体の歴史の全段階が刻まれているというのも考えやすい話だ。人間の〈現在〉は、生命体の全歴史を含んでいるということだ。
人間が犬や猫や魚と「話す」ことが「できる」のは、人間が犬や猫や魚「であった」からだ。その意味で犬や魚に似た人間がいたり、人間に似た犬や魚がいるのである。
ヘーゲルの弟子でもあったマルクスの言葉、「人間の解剖は猿の解剖のための一つの鍵である」(「経済学批判要綱」)もその意味でこそ理解されるべきだ。
〈世界史〉概念も〈人間〉概念も、現在という場所に時間が刻まれていることなしには理解できない。それがヘーゲルの〈世界史〉概念の核心だった。
その根幹の原理がヘーゲルの「即自的に存在しているものは対他的にも存在している」という先のテキストである。このテキストは『大論理学』の第一部:〈存在〉編、つまり時間性で言えば、〈現在〉編である。
※ヘーゲルの『大論理学』は全体で三部構成。第一部:存在論(現在論)、第二部:本質論(過去論)、第三部:概念論(未来論)となっている。
Twitterが「いまどうしてる?」という問いかけによって切り取っているところのものは、この〈規定〉=〈性状〉の〈現在〉とでもいうものだ。人は、反省(ヘーベルの論理学で言えば第二部「本質論」)の手前では、〈規定〉=〈性状〉の対他存在にまみれて混在している。
明るい人も暗いときがある。バカな人もたまには考えるときもある。賢いと言われている人もバカになるときがある。冷静な人も羽目を外すときもある。
そうやって、心理的な全体が充溢している。これは24時間コミュニケーションツールとしての携帯電話、携帯メールが集中的、強迫神経症的に個人を内面化した“成果”だとも言える。内面主義の「歴史の終わり」がサーバーコミュニケーションだったのである。
そのような仕方で、自己=他者融合が生じている。
●行状記録してのTwitter ― GPSよりも詳しい行状検索メディア
かといって、それは単純な親和性ではない。同期性の高いタイムラインでは、「つぶやき」の背後に身体を有した“実在”の人物が存在しているからだ。
述語(形容詞)の集合のような「つぶやき」が存在する一方で、入出力が同時に存在する実在性が存在している。内面の個人的な膨張は、一方で参照点をもつ身体性につなぎ止められている。Twitterの〈現在〉は収斂点であると同時に拡散の場所でもあるのだ。
内面が拡大しつつ退屈が凌げるのは、入出力が同時に存在するタイムラインの構造によっている。タイムラインは〈他者〉を許容する。
タイムラインでは、つぶやきの背後に多数の人々の生活を再現することが出来る。入出力が同時に存在するつぶやきは、内容と共に時間を刻んでいるのである。
バーガーが言った意味での選択的な内面性の拡張は、Twitterでは時間に溶解し、そのつど多数の身体が成立している。バーガーの考察はその分、まだまだ観念的だ。
ブログやミクシィ(MIXI)と違って、夜の〈反省〉時間にそれは書かれるのではなくて、今思うことの気分を「いまどうしてる?」という問いかけと共に語る。したがって、私生活や仕事の全体が見えるようになる。
従来のメディアが反省やテーマ中心のメディアであったことの理由は、書かれる時間と内容とが関係ないことから来ている。「ミネルバァの梟(ふくろう)は黄昏時に飛び立つ」(ヘーゲル)。ブログやミクシィ(MIXI)はいつも夜書かれていたのである。〈反省〉が加われば加わるほど、読者のアプローチの敷居は上がっていく。
〈反省〉によって、専門性や趣向が前面化し近付き難い印象になるのは、書き手の像をその内容からしか再現することができないからだ。〈反省〉が加わる分、読者を遠ざけるのである。書かれたものから作者の像を読みとるというのは、かなり高度な作業に属している。
Twitterでは、入出力が同時な分、書き手の行状記録も同時に出力していることになる。書かれている内容ばかりではなく、書き手の生活自体も同時に出力されている。
従来は、ネット上で「ピザ」とか「ホテル」を検索したら、ピザやホテルの店舗情報、施設情報が真っ先に出てきたわけだが、Twitterでは、(複雑な複合検索をかける必要もなく)いままさにピザを食べようとしている人、ホテルを利用しようとしている人が引っかかってくる。
また、あの書き手はいつこんなことを書いているのか、どんなことしながら書いているのか、どんなプロセスを経てこれを書くことに至ったのか、そういった、かつては座談会や講演会でしか聞けなかった裏話が表話と同じ水準で「タイムライン」を流れるようになる。
昔から、難しい著者や著作の理解は、対談集、講演集、伝記から入れと言われていたが、そんなことをわざわざしなくても、「タイムライン」を眺めているだけで、表も裏もわかるようになる。わかった気になる。
形容詞(規定→性状)の浸透性だけが、Twitterの同調性を高めているのではなく、書き手の行状=身体表出がその同調性をさらに補強している。いわば、「知っている」人が書くのと「知らない」人が書くのとでは理解度が違うとでも言うかのように。
結局、それは、GPSよりも詳細に行状を“検索”できるようになっているということである。テキストばかりではなく、〈行状〉も検索の時代に突入している。
それはテキストがサブテキストでしかないということだ。Twitterの短文主義は、完結していると同時にサブテキスト化している。検索的な背景主義を執拗に読み手に強いる。
それをことさらに感じさせないのは、「タイムライン」が表裏一体のテキストを表出し続けているからだ。
短文で読みやすい分、読み手はますます見切るパワーを付けることになり、テキストそのものに向かわなくなる。行状発信のサブ情報もそれに加わることによって、テキストの意味はますます外面化する。親切な書き手は、自らの「つぶやき」に即座に「解説」を加え始めるためにますます初源のテキストは外面化する。読者ばかりではなく、書き手自身が自ら書いたテキストに我慢できなくなっている。
●ヘーゲルとテキストの時間 ― 人はなぜ序文を書き続けるのか。
ヘーゲルは、書物に〈序文〉(Vorrede)は必要か、と自ら問いかけて、それは不要だと言いつづけたが、そういいながら見事な序文を書き続けた人でもある。
なぜ書物に〈序文〉は不要か? ヘーゲルは次のように言っている。
著者が自分の著作において企てた目的とか、いくつかの動機とか、同じ主題についての前時代や同時代の諸々の論調に対して自分がとると考えている態度とかについて、序文で前もって説明するのが習慣になっている。けれども、この種の説明は、哲学的著作の場合には、余計であるばかりでなく、事柄の本性から言ってふさわしくなく、目的に反するようにさえ思われている。
というのも、一つの序文において、哲学について、どのように、何がもっともそうに語られようと ― それは著作を巡っての傾向、立場、概略的内容、諸々の結論などに関しての、一つの事実羅列的な前口上であり、真理について、いわれもなくあれこれとおしゃべりをする一連の主張や断言である ― そのことは、哲学的真理が叙述されるのにふさわしい様式ではありえないからである(『精神現象学』序文)。
結局、ヘーゲルが「序文に権利を認めない」(デリダ)のは、〈本文〉に全てのことが書かれているからだ。あるいは全てのことが書かれているものを〈本文〉と言う。それはそれを解読するのに、どんな外面的なサブテキストをも不要なものとするときに、〈本文〉=ストックと言うのである。
〈本文〉とは、本来、対談集、講演集、伝記(あるいは解説書)、それらを総称して序言(Vorrede)、前口上(Vorrede)を拒絶している。
つまり検索がたどれないものを〈本文〉と言う。なぜなら、書き手は検索=サブ情報を不要にするために〈本文〉を書いたのだから。
その趣旨を理解することを、「テキストを読む」と言うのである。
テキスト(本文)は全てのものから孤立=自律しているからこそ、〈全て〉である。ヘーゲルにとって、世界史も人間(世界精神)の〈現在〉も、その意味で〈本文〉としての全てであった。
Twitterの〈現在〉とは、その逆。永遠にフローとしての前口上(Vorrede)を「つぶやき」続けている。「電子書籍」よりもはるかにテキストをフロー化し続けている。サブカルチャーの普遍化である。
そこでは、テキストは典拠しようとした途端に「タイムライン」で流されてしまう。バーガーはそれを「相対性のるつぼ」「相対性のめまい」と言っていた。「異端」は今となっては秒単位に微分されている。
しかし、〈本文〉の本質をそこまで説いたヘーゲル自身は、なぜ、序文(Vorrede)を書き続けたのか。書き続けざるを得なかったのか。序文(Vorrede)は永遠の「異端」であり続けるにもかかわらず、なぜ彼はそのことをその当の序文で書かざるを得なかったのか。
はてさて、本文の〈現在〉とつぶやき=序文の〈現在〉とはどんな関係にあるのか。次回をお楽しみに。
※第三回+第四回「ストック情報武装化論」(日経BPnet)初出2010年6月20日→「にほんブログ村」
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