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 人工知能(AI)と機能主義の諸問題(1) ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第五回) 2018年03月31日

人工知能(AI)と機能主義の諸問題(1) ― 人工知能ほど主体的で人間的なものはない。

●機能主義と行動主義 ― 「内面」とは結果に過ぎない。

機能主義の基本モデルは、簡単に言えば、「パブロフの犬」の条件反射。刺激を与えると一定の規則だった反応があるというもの。

機能主義は英語のfunctionalismの訳だから、むしろ関数(function)主義と言った方がわかりやすい。「パブロフの犬」に於けるベルの音と犬の食欲を表す唾液は、関数関係にあるわけだ。

刺激(INPUT)と反応(OUTPUT)との間にある形式的な規則性が認められれば、その反応体(と取りあえずそう呼んでおこう)は何ものか「である」と。

機能主義は、どんな内容(=実体)がその刺激と反応を支えているのかは棚に上げて、刺激(INPUT)と反応(OUTPUT)というテーマ化された観察対象だけを基盤にして内容を逆構成するという離れ業をやってのける。

近代経済学が前提とする行為者の合理性理論(rational choice theory)、つまり自由な判断主体を前提して最大利益の獲得を目指す合理的な個人というのは、この機能主義で言えば、幻想に過ぎない。最初に合理的な思考をする個人ありきという立場、つまり自らの不利益をわざわざ招くような行動をする人間は存在しないという立場に立たないからだ。

哲学や思想の分野でも、人間を《魂(soul)》という、自然物からは自由な実体を有した存在者(=主体)とする立場が存在するが(キリスト教がそもそもそうだ)、これもまたこの機能主義から言えば幻想に過ぎない。最初に自由な魂の主体ありきという立場に機能主義は立たない。

そういった反省に立って、経済学は合理的な個人主義から「行動経済学(Behavioral economics)」に、哲学は人間主義=主体主義から「行動主義(behaviorism)」に「進化」して行った。

両者ともに「行動」と呼んでいるが、実はこれは誤訳に近い。「行動」と訳されている英語はbehavior。「振る舞い」「外貌」のことである。

日本語で言えば「行動」の反対語は理論的なものになりがちだが、この行動主義の「行動」の反対語はむしろ「内面」や「実体」(subsistence)ということを含意している。その意味では、behaviorismは、むしろ「外貌主義」と訳した方が意味が伝わりやすい。

このbehaviorとしての外面こそ、「パブロフの犬」的な唾液のことを指している。「ベルが鳴る」というinputに対して「唾液が出る」というoutputがbehaviorである。

この場合、犬が「合理的に」唾液を出しているのか、犬の「心(soul)」をもって唾液を出しているのかは、機能主義にとってはどうでも良いことだ。そういった「内面」はどうでもよい。大切なことは、ベルを鳴らす(ベルの音が聞こえる)というinputに対して、唾液を出すというoutput=behaviorが生じたということなのだ。

ここ(このfunction)に反復的な規則性を見出すことができれば、またこの反復的な規則性が他の存在者と区別されることになれば、それは固有な種別性をもった一つの存在者(言わば「内面」)だと判断することができる。機能主義にとっては、「内面」は結果であって、出発点ではない。


●機能主義と人工知能論と心理主義と ― 人間は単純

「内面」は結果であって出発点ではないという思想をもっとも積極的に信奉しているのが人口知能論者たち。

アラン・チューリング(1912~1954)は、有名な「チューリングテスト」によって(Computing Machinery and Intelligence、1950)、“知能テスト”を実施しようとした。このテストに合格すれば、その人工知能は人間の知能「である」というように。

一方の部屋Aには、コンピュータが設置してある。一方の部屋Bにはホンモノの人間が入っている。そしてテストする人間には、A、Bどちらの部屋に人間が入っているかは知らされていない。テストする人間は、コンピュータで両者に質問を送り、A、Bの部屋からも、そのコンピュータに回答が出力される。

そのやりとりを繰り返す中で、テストする人間はどちらがホンモノの人間「である」かをあてなくてはならない。テストする人間の回答が間違えば間違うほど、部屋Aのコンピュータは人間「である」ということになる。これが「チューリングテスト」。

あり得べき誤解を最初に解いておくが、コンピュータでしか、あるいはテキスト(文字)でしかやりとりをしないのがすでにおかしい、と言わないで欲しい。技術が発展すれば、口答でのやりとり、感情表現、身体表現、身体接触などなどinput-outputの諸様式はどうにでもなるというのがチューリング・テストの考え方。

チューリングのこの考え方は、まさに外貌主義(behaviorism)である。そう「見える」ことがそれ「である」というのが、チューリング・テストの思想だから。

HONDAのASIMO(http://www.honda.co.jp/ASIMO/)は、われわれの前に最初登場したとき、実際の人間がASIMOの中に入ってるかのように見えた。ASIMOは少なくとも足の不自由な実際の人間よりも、「人間らしく」歩くことができる。歩くことに関して、ASIMOを人間から区別する理由はない。ASIMOの勝利は、機能主義(functionalism)=行動主義(behaviorism)の勝利なのである。

ジョンサールは、このチューリングテストの結論に反論する。これもまた有名な「中国語の部屋」論(1980)である。先ほどのチューリングテストのやりとりを「中国語」でやったと思えばいい。サールは、たとえそれをコンピュータが見事にやってのけたとしても、記号論的なやりとり(記号論的な変換操作)をやっているだけであって、言葉の意味を「理解」したことにはならない、と言う。所詮、「機械は機械に過ぎない」と言うサール。

しかし、人間のやりとりが記号論的な変換操作ではないという理由について、サールは何も論証していない。脳が一つの複雑で高精度な機械でないという証明はサールにはできない。

実際、ジョセフ・ワイゼンバウムが開発した精神療法用の会話プログラムELIZA(1966)は、「簡単な」人称変換と文法シミュレーションだけでも「われわれ」人間の日常的な会話に限りなく近い会話を成立させることを物語っている。

ワイゼンバウムが示すELIZAの「会話」事例の実際は以下のようなもの(大文字部分がELIZAの「発言」:ELIZA:A Computer Program For the Study of Natural Language Communication Between Man and Machine,1966)。

Men are all alike.

IN WHAT WAY?

They're always bugging us about something or other.

CAN YOU THINK OF A SPECIFIC EXAMPLE?

Well, my boyfriend made me come here.

YOUR BOYFRIEND MADE YOU COME HERE

He says I'm depressed much of the time.

I AM SORRY TO HEAR YOU ARE DEPRESSED

It's true. I am unhappy

DO YOU THINK COMING HERE WILL HELP YOU NOT TO BE UNHAPPY

I need some help, that much seems certain.

WHAT WOULD IT MEAN TO YOU IF YOU GOT SOME HELP

Perhaps I could learn to get along with my mother.

TELL ME MORE ABOUT YOUR FAMILY …

とまだまだ続くが、Twitterで言う「bot」の原型は、このELIZAにあるとも言える。私もTwitter上で何度かbotと「会話」をしたことがあるが、実際の人間との会話の方がはるかにつまらない場合もある。

原子核の存在を原子に放射線をあてて発見したようにして、反応なき存在は、非存在という考え方が機能主義の原点。脳死論も無反応は「人間の死」と同じとする考えに近い。その意味でなら「無反応」の人間は元気な人でもたくさん存在するような気もする(笑)。脳死論はその意味で人間を機能主義的に扱っているのである。

これは、人間の形式化や単純化というよりは、人間は思っているほどに複雑でも実体的でもないという確信に基づいている。この種の単純主義はそもそもが心理主義と同系。

行動主義心理学(behavioristic psychology)、認知心理学(cognitive psychology)も原型は全て機能主義。それは〈魂〉や〈心〉が「主体」的、「内面」的に人間を動かしているという形而上学の信憑を近代的に打ち砕く思想だった。

たしかに、占いや血液型で人生や会社の経営を判断している人がいないでもないほどに、「人間は単純」「人生は単純」「経営は単純」と言おうと思えば言える。


●民主主義と機能主義

こういった機能主義(functionalism)、行動主義(behaviorism)は、政治的には、民主主義の原理でもある。

「そう見えている」のに、「実際は」偽物だったというのを真剣に糾弾すると、近代では「差別」と言われる。

アラン・チューリングは、テストする人間が、部屋Aに設置されている「コンピュータ」を「人間」と判断した後、部屋Aに入って行って、「なんだコンピュータだったのか、騙された」と言うのを「それは差別だ」と言いたいのである。満足な回答、期待される回答を出しておいて、なおケチを付けられる理由などないからだ。

「頭がいい(から大卒だ)と思っていたら、実際は中卒だった」。これは学歴差別。「言葉使いが上品でマナーがいいから家柄がいい、と思っていたら、実際は貧農出身だった」。これは身分差別。

ここで言う「実際」というのは、そのことを指摘することによって、最初の見え方とは何の相関関係も見出せない「実際」のことを言う。外面的な実際を指摘することを「差別」と言うのである。実際の実際主義(変な言い方だが)は、むしろ「頭がいい」「マナーがいい」と判断している「実際」の方なのだから。

近代的な自由とは、その意味で、機能主義(functionalism)=行動主義(behaviorism)の政治形態である。それはその人間を「内面」から見るのではなくて、「外貌」(behavior)から見る。偏差値による学歴主義とは外貌装置なのであって、実力主義(meritocracy)もまた外貌主義(behaviorism)なのである。


●家族の自由、機会の自由、メリトクラシー ― フィッシュキンの「トリレンマ」

苅谷剛彦は、『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史』(1995)の中で、アメリカの社会哲学者フィッシュキンの論文(Liberty & Equal opportunity,1987)を借用して、「教育による平等実現の困難さ」についての「トリレンマ(trilemma)」に言及している。

フィッシュキンは、この論文の中で「メリット」(実力主義)、「生活機会の平等」(出生の有限性に拘束されないこと)、「家族の自律性」(子育ての自由は親の権利に属しているというもの)の3つ(tri)を呈示し、この中の2つを充たすと他の1つは充たすことが出来ないと言う。それがフィッシュキンの言う「トリレンマ」。

苅谷はこのフィッシュキンの「トリレンマ」を援用しつつ、次の結論を下す。

「このようなトリレンマの議論は、教育における不平等が、子供が家庭で身に付ける文化の違いを媒介して発生することを前提にしている。(…)そうだとすれば、子育ての自由を保障しつつ、教育における平等を実現することは、論理的にみて解決の難しい問題である」(前掲書)。

近代的なメリトクラシーは、家族の子育てに関する自由を解体する傾向がある。子供は「家族の子供」ではなくて「社会の子供」だというもの(この思想の極限はイスラエルの「キブツ」)。これは実際、現在の民主党政権の子育て支援施策を支えている思想でもある。

家族の自由と社会の自由は対立する。出生の受動性(身分性・階級性)に力点を置けば、家族の自由(親による子育ての自由)は拡大する。人間の主体的な努力や可能性に力点を置けば社会の自由は拡大する。

近代的な主体性とは、結局、家族(=親という自然環境)からの自由を意味している。家族=親とは、人間社会にとっての自然環境だからだ。

たとえば、○×試験やマークシート試験(典型的な機能主義=行動主義試験)は、メリトクラシーにとって、必須の装置だった。点数だけを問われるこれらの試験はまさに民主教育派が言うのとは逆に「実力」試験そのものだった。

○×試験やマークシート試験の反対試験は記述式試験、面接試験などであるが、これらはむしろ家柄や素行を問う試験であって、〈実力〉だけでは突破しようのない試験様式だったからである。

体育、技術・家庭、音楽、美術などといった科目が一般的な受験科目として存在しないのは、それらが、あまりに人間的=家族主義的すぎるからであって、○×試験やマークシート試験に適していないからだ。言い換えれば、それらの科目はあまりにも差別主義的なのである。


●人間主義こそが差別主義

したがって、民主教育派の言う〈人間性〉というのは、皮肉なことに、むしろ人間に家庭がある(自分を産んだ親がいる)ということと同じことを意味している。

しかし、親(子供にとっての受動性・有限性の象徴)とは社会的な自由の阻害者でしかない。どんなに主体的な子供であっても、親を乗り越えることは出来ない。いくら「主体的」で「個性的」で「内面的」な人間であっても自分の「主体性」で生まれてきた人間などいないからだ。

その意味で、日本の高校入学や大学入学が、一回の入学試験の「点数」で決まるというのは、家族からの最大の自由=「生活機会の平等」(フィッシュキン)を意味していた。

小学校、中学校が三流でも、高校が一流であれば、そして高校が三流であっても、一年浪人して大学が一流であれば一流という(あるいは三流以下の高校卒でも「大学卒」になれば何とか体裁は保てるという)「過去の達成のご破算主義」、あるいは「敗者復活装置」(竹内洋『日本のメリトクラシー』)が、日本の「学校教育」ヒエラルキー(=受験体制)だった。

これはアメリカの大学入学選抜が、高校時代の素行(ボランティア活動の有無など)や保護者の推薦状などを必要とすることに比べて、はるかに機能主義=行動主義的な選抜だった。

かつてユネスコが指摘した意味での、日本の入学選抜がたった「一日」で決まる異常さ ― 蜷川虎三元京都府知事の言葉で言えば「15の春は泣かせない」 ― は、実は逆に民主主義的な健全さの指標でもあったのである。

長いスパンの多様な観察によって決まる(=人間主義的な)選抜はむしろ家族主義的な受動性を前面化せざるを得ない。たった一日(か数日)で行われる、ひょっとしたら間違いも起こりうる試験(=チューリングテスト)の方がはるかに人々の「主体的」「内面的」な「努力」を引き出す。

日本的な「一日」選抜受験体制による学校ヒエラルキー(偏差値ヒエラルキー)は、むしろ反家族主義的な民主制に貢献したのである。「一流」大学であれ、「一流」企業であれ、日本ほど、多様な階級の人々が同居している国はない。

一方で、苅谷たちが指摘している学歴格差の固定的な傾向、親の学歴(特に母親の学歴)の影響による「学歴格差社会」問題も、特にこの反家族主義的な民主制の前提を覆すものではない。この場合の親たちは、むしろその「一日」選抜受験体制の経験者たちにすぎない。

彼らは「親による」子育ての自由を主張しているのではなくて、「一日」選抜受験体制による「主体性」「内面性」「努力」の信奉者(その思想の実践者)であるからこそ、自分の子供を大学受験へと向かわせているのである。この親たちは、自らが反家族主義的だということだ。「主体的」な家族なのである。名門私立中学受験も、この親たちにとっては「主体的」な選択なのである。


●機能主義主義的な私と心理主義的な承認 ― 過剰な他者意識に包囲された〈私〉

このような「主体性」が、したがって、機能主義と親和性が高いのは明らかである。実力主義的な一日選抜体制は、結局のところ、個人を根無し草扱いする。

それは、竹内洋が言うように「過去の達成のご破算主義」、あるいは「敗者復活装置」であることによって、言わばゼロリセット装置のようにして個人の実体を空虚化する。内部に何が存在しているのか、という問いかけなしに、「問い(試験問題)」というinput(刺激)と「回答」というoutput(反応)との関係(function)が個人をはかる指標になる。

チューリングテストで言う「部屋A」、「部屋B」の内部がブラックボックス化されたようにして、実力主義的な一日選抜体制は、人間をブラックボックス化し、回答のbehaviorを問う装置なのである。

このような人間のブラックボックス化を、われわれは、「自由」「平等」と呼んできた(フィッシュキンの言う「生活機会の平等」)。そして同時に、奇妙なことに、このブラックボックス化の傾向を「主体性」、「自主性」、「個性」、「内面重視」と呼んできたのである。

そもそもチューリングテストのテスト者は、そこに、「自主的」で、「個性的」で、「内面がある」かのように「振る舞う」何かを読み込んだのだから。

形式的な試験の(過去を問わない)一回性が強化されればされるほど、「主体性」、「自主性」、「個性」、「内面重視」は強化されることになる。形式的な試験の一回性は、人間の家族主義的な受動性をむしろ封印するからだ。それらは逆に自己創造性の諸指標だったのである。

この創造性が逆説的なのは、他者への追従性と裏腹な関係にあるということだ。相手が「そう思う」だけで、それはそう「である」、相手に「そう見える」だけで、それはそう「である」ということは、そう思えない、そう見えない場合は、そうではないということであって、心理的な承認のプロセスなしには、〈私〉は存在し得ない。

Functionとして他者に追従し続ける機能主義的な自己とは、心理主義的な自己であるわけだ。相手の承認なしには、〈私〉はいかなる私でもない。逆に、どんなに陳腐な私であっても他者の承認さえあれば、それは私「である」。家族=親が不在である分、過剰な他者意識に包囲されているのである。

80年代後半の中曽根臨調以降の「主体性」、「自主性」、「個性」、「内面重視」教育改革運動、そしてそれを受けた90年代の大学大綱化と大学全入時代。それらを象徴する90年代以降の「コミュニケーション」主義、自己表現論や自己啓発論の隆盛は、存在し得ない自己(抽象的で=ブラックボックス的で中身のない自己)が、他者の承認を待ってようやく自己となる不安神経症の末路である。

携帯電話、携帯メール、Twitterによる24時間のサド・マゾ的な刺激(input)-反応(output)なしには、現代人は自分が何「である」のかさえわからない。それは自己が空虚で自由な分、ますます刺激-反応を求めるというように組織されている。24時間情報化時代ということと機能主義的な自己表現主義とは同じことを言っている。

しかし、私とは、本当に関数(function)なのか? 自己とは沈黙のことだとしたら、どうだろうか。にもかかわらず、ヘーゲルがその沈黙(本文の沈黙)に耐えられずに、序文を語り続けたこと(連載第4回末尾参照のこと→ http://www.ashida.info/blog/2018/03/twitter_bpnet.html#more)は、何を意味しているのか。

はてさて、その「沈黙」をハイデガーは「退屈Langeweile」とも呼んだわけだが、その退屈に耐えられずに、ヘーゲルは「序文」をおしゃべりし続けた。まるでわれわれ現代人がTwitterで退屈をしのぐように。いったい何が起こっているのか。(次回に続く)


※第五回「ストック情報武装化論」(日経BPnet)初出2010年7月→「にほんブログ村」


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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