大学入試改革を議論する文科省「有識者会議」(座長・安西祐一郞)の最終報告について 2016年03月27日
●〈人物〉評価とは身分の評価でしかない
安倍政権の「教育再生実行会議」(座長:鎌田薫・早大総長)が、大学入試(センター入試)を〝人物重視〟に改める提言を10月末日(2014年)に発表しました。また昨日25日(2016年)は、その「教育再生実行会議」の議論の延長上で、大学入試改革を議論する文科省「有識者会議」(座長・安西祐一郞)の最終報告がなされました。後者の力点は「知識偏重」に対する記述式問題の導入という観点です。
こういった動きに関連して、私は、まずは朝日新聞朝刊社説面(オピニオン欄)で「脱・点数主義の罠」(2013年11月12日)として論じましたが、ここではさらにその論点を詳述してみたいと思います。
「人物本位」の大学入試に問題があるのは、〈人物〉評価というのが、生まれたときからの長い時間を経た、本人の意識や努力にとどまらない要素、つまり環境(ハビトゥス) ― 家族やその交友関係や地域の文化環境 ― によって左右される部分が相対的に大きいからです。
逆に言えば、ジェネラルエデュケーション(国語・算数・理科・社会・英語)からリベラルアーツ(専門教養主義)へと至る学歴主義的知識や技術の世界は、個人の意識や努力を基本にした、ある意味、〝人工的なもの〟です。この意味での人工性を普通〈知性〉と呼んでいるわけです。〈人物〉〈環境〉の反対語としての〈知性〉です。
試験科目が「国語・算数・理科・社会・英語」などの「主要」五科目に限られやすいのも、それらが、体育や美術や音楽などの科目と比較して、先天的で潜在的な〈才能〉としての〈人物〉 ― 本人の個人的な努力を超えた環境によって作られたもの ― に依存する度合いが相対的に低い科目群だからです。体育や美術や音楽は、いわゆる「一夜漬け」の効かない科目群だったわけです。
環境に影響される度合いが相対的に低い〈知性〉について、ペーパーテスト※という平等・公平な競争を行うことで、次世代のリーダー候補を選抜する。江戸時代の身分社会から近代社会への移行で大切な改革が、そうした学歴主義による中間層の拡大でした。それによって世代ごとに階層がシャッフルされ、欧米に比べても階級がない平等な社会が実現したと言えます。学歴社会の〈知性〉主義は、したがって人工的なものとしての〈カリキュラム〉によって生み出されるものですから、〈カリキュラム〉こそ〈環境〉の反対語と言ってもいい。
※科挙の試験制度を支えたのは、世界に誇る、宋朝の紙と印刷技術だったという井上進(『中国出版文化史』)の報告がある。紙試験(ペーパー試験)というのは、「貴族の政治的リストラ」(与那覇潤)の基盤であったわけです。紙試験と出版技術は、貴族のハビトゥスを打破する力をもっていたわけです。
●時間と環境と〈ソーシャル〉
近代社会は、一つにはこの人工性が原理になっています。家族や地域といった長い時間の〈環境〉によって形成される人物評価とは、簡単に言えば、個人の意志や努力を越えた階層評価に過ぎないわけです。それは、ブルデューが〈ハビトゥス〉と言ったものに近い。
〈環境〉とは〈現在〉の反対語であって、極端に言えば「一夜漬け」の効かない評価が〈人物〉評価です。近代社会はいい意味でも悪い意味でも「一夜漬け」の社会なわけです。評価(自他観察)の時間が短ければ短いほど、近代的な徴表である〈自由〉〈意志〉〈主体性〉の強度は上がるのですから。
実際、Twitterなどでは140文字以内の「なう」によって、MixiやFacebookにはない多様な「ソーシャル」交流が生まれています。「ソーシャル」とは、個人間の自由で多様な交流を意味するのではなく、階層間の自由で多様な交流を意味するのです。MIXIやFacebookは反省(Reflexion)のメディアにとどまっているために、〈人物〉の平均値で― たとえば学歴、たとえば業界、たとえば趣味、たとえば顔Faceというように ― 情報が丸められてしまい、交流が限られています。そもそも相互承認なしには始まらないMixiやFacebookは〈人物〉評価主義なわけです。〈人物〉〈人格〉〈主体〉という概念自体が比較的長い時間の自他反省の〈平均値〉でしかない。
●点数主義によって〈階層〉はシャッフルされる
「たった1日の受験で決まる」日本の受験には、「敗者復活装置」「過去の達成の御破算主義」(竹内洋)と言われているように、ある種の階層シャッフル機能が備わっています。階層こそが長い時間によって出来上がる人物属性(平均値)の産物だからです。
そういった平均値主義を加速的にシャッフルするのが点数評価です。「一点差の評価で人生が決まるなんてとんでもない」という言う人もいますが、実は一点差だからこそ、前後と連続して繋がっている評価でもあるわけです。差は上に一点、下に一点というように極小の相対評価でしかない。負けても勝っても一点差。つまり階層的な格差が極小(短い格差の連続)でしか生じない。
日本的なウルトラ民主主義はこの一点差の格差によって、アメリカやヨーロッパの階層的、民族的な〝クラス〟格差を極小化しているわけです。「一点差に泣く」個人の不幸はあっても、〝クラス〟の不幸は生じない選別になっている。
一点差の評価にはならない長い時間の人物評価は、その意味でも〟クラス〟の不幸を招来することになります。長い時間の累積によって成立する〈人物〉の評価は言わば平均値の評価であって、「一点に泣く」「一点に笑う」偶然を排除する。「泣いても一点差」、「笑っても一点差」の偶然を排除する。むしろきつい、息苦しい評価なのです。
福沢諭吉の『学問のすすめ』には「学問をがんばり、物事を知る人は社会的な地位が高く富める人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人になる」とあります。生まれ育った家族や地域や文化環境によって人を評価する身分主義ではなく、努力して勉強した人が世の中の指導的な立場に立つ、というのが学歴主義(メリトクラシー)です。このコンテキストで言えばmeritocracyは「努力主義」と言い換えるべきなのです。
たしかに勉強ができる人にはガツガツしている面もある。出自に関係なく、筆記試験だけでのし上がってきた一種の「成り金」ですから。けれども、成績を上げようとすれば、先生の話に耳を傾けたり、問題に集中して考え抜いたりしないといけない。そのようにして、点数という退屈なぐらい客観的な指標に向けて努力し、工夫することが真の個性や自主性を育てることになる。陸上競技の選手が一分一秒を競って記録向上を目指すのと同じです。
人物本位とは「本人の努力が届かない、育ってきた環境も含めて人を評価しよう」という考え方です。面接で初対面の人に好感を与える能力は、本人の意思や努力よりも、家庭や地域など環境に左右される面が大きい。人物本位とは「育ちの良さ」(家庭のハビトゥス)を見ることの言い換えでしかありません。
経済格差による学歴の再生産論(また親の学歴による〝影響〟)も声高に叫ばれていますが、そういった格差が「インセンティブディバイド(意欲格差)」(苅谷剛彦)を通じてさらに拡大するのが「人物」評価主義です。経済格差を跳ね返したいのなら、一点刻みの点数主義を先鋭化するしかないのです。
●「勉強できないこと」までもが「個性」と呼ばれるようになった
こういった〈人物〉主義の源泉は、80年代後半の中曽根臨教審です。中曽根臨教審は、評判の悪い「ゆとり教育」の伏線となったことで有名でしたが、中曽根臨教審のそもそもの骨格の思想は「学校教育は生涯学習の一部」というものであり、その対立軸は「学校派と生涯派の論争」(内田健三)であったわけです。寺脇研も生涯学習論は臨教審の「根本理念」だと言い、2000年以降も続く教育改革の「錦の御旗」とまで豪語しています。
この学校教育=生涯学習論はそれ以後の「学校教育」論にさまざまな弊害を生んでいくことになります。
人間は一生涯学ぶ者「である」ということになると、幼稚園や小学校に入る〈学校教育〉以前に、〈学びの主体〉を想定することになります。
しかし〈学校教育〉以前の児童の(多様な、個性的な)〈学びの主体〉とはなんでしょうか。それは家族・地域の制約を色濃く受けた多様性や個性でしかありません。まだ彼ら・彼女らはあれこれの行動に責任をもてる〈成人〉ではないのですから。自立した個人の多様性や個性ではなく、家族・地域の制約下での〝多様性〟や〝個性〟でしかない。一方、教育的環境に乏しい家族や地域も世の中にはまだたくさん存在しているだろうし、子供の養育権に関心の薄い親もたくさん存在している。
その結果、勉強ができないことまでも(場合によっては、試験の点数が悪いことまでも)が、子供の〝素性〟、つまり児童、生徒の「個性」、教育の「多様性」という扱いを受けることになったのです。一言で言えば、「『できない』子供にむりやり勉強をさせる必要はない」というものです。これは曾野綾子的なエリート主義に基づいています。
しかし、「できない」「できる」の明確な線引きなどできるはずがないのですから、一度、子供の(学校教育以前の)「個性」「多様性」などというものを学校教育に持ち込むと、「できない」子供の評価基準は教育以前の「できない」人物論(できない家庭・地域論)に無限後退し始めます。
全入大学のAO入試は、すでに元から「人物」評価です。入学前に人物評価、在籍中も人物評価、卒業評価も人物評価。筆記試験で〝点数〟を取らせることのできる教育力がない大学では、人物主義的裁量評価がすでに蔓延しています。「面倒見のいい」大学と言いながら。
そうやって大学や教員の教育力向上の契機さえ奪ったのが臨教審以後でした。ただ単に「ゆとり教育」の時間減少だけが、学力低下を生んだわけではなかったのです。
●「地域」は、格差の根源
学校教育=生涯学習論は、学校教育に〈家族〉や〈地域〉の文化性が色濃く反映した「多面性」「多様性」を持ち込んだわけです。パーソナリティーの「多面性」「多様性」とは文化的な階層や集団の多様性、地域の多様性に過ぎない。
もともとは、そういった階層的多様性をシャッフルすることが学校教育の意義であったはずです。校門や塀に囲まれ、教室に入れば、親の身分や階層、地域格差を越えて等しく平等に扱われるのが〈学校〉という場所だったのですから。
学校に於ける〈校門〉とか〈塀〉は、家族や地域からの分離の象徴なのです。どんな家庭環境下や地域環境下に生まれようと、全国津々浦々「同じ」教育を受けることができるということが、学校が校門や塀によって囲われることの意味です。囲われることによって、学校は自由な個人、近代的な個人を作ることができたと言ってもよい。
最近、文科省はさかんに地域連携ということを言いますが、地域ほど格差のある環境はありません。子供よりひどい親はいくらでもいるし、ひどい親を放置する地域もいくらでもある。そういった〈親〉や〈地域〉から見捨てられた子供たちをどうするのかが、身分社会以後の近代〈学校教育〉に課せられた課題だったのです。
そもそも、臨教審の思想的支柱であったフリードマンの教育バウチャー論のモデルは、「第二次世界大戦後にアメリカで実施された復員軍人教育プログラム」(フリードマン『資本主義と自由』第六章「教育における政府の役割」)。成人教育としての生涯学習でしかない「復員軍人教育プログラム」を未成人の〈学校教育〉体系に持ち込むこと自体がおかしなことです。
成人にとって〈何を〉学ぶべきかは選択的消費の主題でしかありませんが、未成人の場合、学ぶべき〈何を〉を選ぶことは出来ません。生涯学習にとっては、勉強することのあれこれは受講者の選択的手段であり、その学習の目的を決めるのも受講者の方です。〈学ぶ主体〉が存在するというのはそういうことです。しかし、目的も手段も学校と教員側にあるのが学校教育の本質です。学校教育とは、教育提供側が主体性(リーダーシップ)を持つ教育のことだったわけです。この主体性が教室の中の平等を保証していたのですから。
●学校教育が「サービス」として消費される危険
中曽根臨教審の生涯学習論の登場は、消費者の時代(第三次産業従事者が70%を占める「営業・サービス」と「消費者」の時代)の成熟と並行しています。
ものを〈作る〉ときには(主には80年代初頭以前)、体系的な知識が必要になりますが、供給過剰になり(趣味的、選択的な消費が前面に出るようになり)、少量多品種生産時代になると、〈作る〉ことより〈売る〉ことの方が重要になる。
しかし〈売る〉ことには、〈作る〉ことのような〈体系〉も〈論理〉もない。〈売る〉ことの本質はある種の総合的な(=分析不能な)能力としての〈誘惑〉だからです。だからこそ、〈コミュニケーション〉論が流行り、後ろに〈力〉の付く能力論 ―人間力(2003年内閣府)、コミュニケーション能力(2004年厚労省)、社会人基礎力(2006年経産省)、問題発見・解決能力(2011年文科省)などなど ― が前面化する。この種のコンピテンシー論やハイパーメリトクラシー論(本田由紀)が、「ハイパー」であるのは、知識や技術をいくら積み上げても、それ自体では〈売る〉ことに繋がらないからだけではなく、まさに「生涯」に渡って問われ続けるような〈学びの主体〉の課題であるからです。
「若年者」を脱した、たいていの大人は「コミュニケーション能力」を身につけているというのでしょうか。そんなことはあり得ない。世の中の組織の会議(民間であれ、官庁であれ)で、まともに議事が進行する会議がいくつあるというのか。ほとんどの場合は「コミュニケーション」不全状態でしかない。大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」能力を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるかのようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない。たとえそんな課題があるとしても、そもそも現場(=社会人の現場)にその種のコミュニケーション能力が不足しているのは、学校教育でコミュニケーション能力が育成されていないからだとでも言うのだろうか。
もしそうだとして、誰がそのカリキュラムを書けるのか。そもそも現場(=社会人の現場)でさえ混乱があるテーマについて、誰が「コミュニケーション」カリキュラムを書くのか。誰がどんな資格(条件)をもって教壇に立つのか。現代史でさえ「教科書」になりづらい状況で、超現代的な「コミュニケーション」テーマの〝専門家〟に誰を指定するのか。大概の場合、「コミュニケーション能力」開発の〝専門家〟とやらが(現代史の専門家以上に)いかがわしい連中によって構成されているのは誰もが知っています。その上でなお、コミュニケーション能力「講座」が存在しうるのだろうか。「問題発見・解決力」、「人間力」なども誰が「教える」というのでしょうか。教員自体にとってもハイパーな課題でしかなく、目標も評価も「ハイパー」にならざるを得ない。その分、評価も「人物」評価にとどまっているわけです。
教育基本法改正(2006年)を受けて学校教育に義務化された「キャリア教育」※またこの種のハイパーメリトクラシーのテーマ系をさかんに喧伝していますが、「生涯」にわたって問われ続けるような〈学びの主体〉の課題をなぜ「学校教育」に特有な課題であるように吹聴するのか。ここでも生涯学習論的な無理強いが生じているわけです。
※「教育基本法」改正における「職業」教育の追加や「キャリア教育」施策は、まずは1999年の中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」、そして2002年から始まる「未就職卒業者就職緊急支援事業」(厚労省・文科省)、2003年の「若者自立・挑戦プラン」(厚労省・文科省・経産省・内閣府)等の延長線上にあります。
その上、子供が(教育の必要な)子供としてではなくて、生涯学習者=生涯消費者として〈消費者〉扱いされるようになると、教育(他動詞的な「学ぶ」)までも、自動詞化して〈学び〉や〈学習〉になる。生涯「教育」が生涯「学習」になる。学校もその意味で〈消費〉の場所になる。そして教育評価、授業評価が受講者アンケートになる。学校教育が〈サービス〉として、消費評価の対象になっていく。大学「大綱化」(カリキュラムの規制緩和)の1991年が、最初の臨教審施策だったわけですが、91年以降、大学の「選択」科目が大幅に増えていくのも、この時期です。ありもしない主体(内面)の強要と煽られる個性(土井隆義)によって、教育の衰退は加速していったわけです。
●高学歴プアー・非正規雇用を超える教育
さて、現在の若者の就職難、就職定着難の理由は、製造業の海外移転、非正規雇用の拡大、IT化による簡易ジョブ労働の縮小など、思いつくだけでも色々とありますが、これらに共通することは、低位労働市場が日本国内から消えたということ。あるいはアジア水準と同等の年収200万円市場しか日本には残っていないということです。最近では「デッドエンドジョブdead end job」という言葉も目立つようになってきました。
その推移は、高卒労働市場の縮小となって表れています。1992年にピークを迎えた167万件の高卒求人件数は、2003年で19万件にまで縮小します。現在でも20万件前後で推移しています。少子化が声高に叫ばれ続けていますが、この間の18歳人口の減少は40%前後。しかし高卒求人件数は90%も縮小しています。新卒者の低位ジョブ職市場が国内では消えたということです。
今の大学生は4年間の猶予を得た失業者に過ぎません。「潜在的失業者のプール」(児美川孝一郎)としての大学(や短大・専門学校)でしかない。大学に行きたいのではなくて、高卒で社会に出る場所がなくなった挙げ句の果てが今の大学生。もはやつぎはぎだらけの「キャリア教育」でなんとかなる人材ではないのです。
低位ジョブ職の減小に応じて、短大も専門学校も就職率を「構造的に」(小杉礼子)落とし続けています。短大や専門学校程度の資格教育(遅れてきた受験教育)では、〈人材〉教育にはならないのです。「資格」を新卒人材に求める企業というのは、偏差値が一つの努力賞評価であるのと同じように、「せめて」資格受験学習くらいは経ておいてよ、という「せめても」能力論にすぎない。資格取得やとってつけたような「キャリア教育」も努力賞評価にとどまっているわけです。言い換えれば、「せめても」能力論は現在の高等教育への諦念や見限りから来ているのであって、それに大学や専門学校が乗っかるのは自殺行為だと言えます。
したがって、グローバル化人材対応とは、コミュニケーション主義的な英語力対応ではなくて、短大や専門学校程度の資格教育を超えた高度職業人材の育成という点にあります。たとえば、アジアに流れ出た低位ジョブ職者たちをコントロールする能力を持った人材として、新卒人材を形成するということです。アジアの人材センターの中核になるような人材マーケットを構想する必要がある。
そこに手を付けない限り、日本の若者は高学歴プアーと非正規雇用とを脱することができないまま、不毛な20代を過ごすことになります。組織や仕事の基礎を学ばなければならない20代のキャリア形成が不毛というのは致命的です。
つまり家族を形成・維持したり、子供を養育したりする30代、40代になっても年収200万円を超えない〝社会人〟になる。これこそが今の若者の危機です。英語を話せるかどうかなんてどうでもいい。アジアや非正規やコンピュータに奪われた低位ジョブ労働を超える高度職業教育を、日本の若者にどう体験させるかが課題です。大学全入時代はそのチャンスなのです。
●「中堅」人材論の中途半端
2011年の中教審「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」は、まさにこの職業教育の高度化課題(高等教育に耐えうる職業教育大学の新設)に取り組んだ答申でしたが、最後には、「中堅」人材、「地域」人材 ― 最近では「中核」人材、「ボリュームゾーン」人材というより曖昧な用語を文科省は使うようになっています ― に局限されることになりました。大学の既得権護持、専門学校の資格主義的な教育傾向などに押し戻され、「中堅」人材論にとどまってしまったのが、このキャリア教育答申の結論でした。
実は、この答申の前座の委員会などでは、2005年の「将来像答申」以来の「高等教育のグランドデザイン」が議論されていました。「高等教育のグランドデザイン」とは、(私ふうに)一言で言えば、偏差値70の学生(高校三年生)に耐えうる高等教育としての職業教育組織を、リベラルアーツとは別の軸として打ち立てるというものです。つまり高度職業教育の学校体系を構築するということです。
この答申は、そのために専門学校や短大の職業教育(言わば短期接続のジョブ型職業教育)を、わざわざ旧来の「職業教育」として位置づけ、「キャリア教育」とは区別しました。息の長い「自立型」職業教育を、あらたな高等教育で展開するための「キャリア教育」として取り出したわけです。しかし、従来型のジェネラルエデュケーションからリベラルアーツへと至る学校教育体系の外側での展開になったため、「人間関係形成・社会形成能力」「自己理解・自己管理能力」などの「ハイパー」な教育テーマにとどまってしまいました。
従来の「ジェネラルエデュケーション→リベラルアーツ」体系(メンバーシップ型人材)と専門学校・短大のジョブ型職業教育の体系はそのままにしておいて、高等教育における「キャリア教育」を探ろうとすると中途半端な「中堅」人材論になるわけです。「中堅」以上の人材を目指す開成高校や灘高校における、少しでも偏差値の高い大学へ入学させることが「キャリア教育」そのものであるという保守思考を、この答申では崩すことができなかった。つまり「高等教育のグランドデザイン」の断念です。
残念ながら、現在の大学にはたとえ工学部であっても、たとえば「システムエンジニアになりたい」と思っても、材料工学や熱力学の授業を取らなければいけないというカリキュラムがまだまだ多い。商学部であっても在庫管理やマーケティングの専門家になるには、科目数(単位数)が圧倒的に足りません。マクロ経済学もミクロ経済学もファイナンス系科目も選択必修で履修する必要があるため、在庫管理に集中しようとしてもノイズだらけのカリキュラムなわけです。すべての科目が概論科目になっていて、何一つ身につかないまま卒業してしまいます。
●「勉強嫌いの子には職業教育を」
そもそも現在の大学のカリキュラムは91年の大綱化以降、「選択」科目主義が蔓延し、必修科目自体が(124単位以上の卒業要件の中で)20単位あるかないかにとどまっています(ほとんどの私立大学がそうです)。必修科目が少ないのは、大学が人材像を意識した科目配置を行っておらず、概論主義的な教養主義にとどまっているからです。今の大学には〈カリキュラム〉など存在しないのです。
だから、高校生が具体的な仕事をイメージして学部を選択したとしても、〈人材〉として卒業することができない。自分にマッチする一部の概論授業に啓発されて自分で勉強するしかない。大学では学生の人材志向が放置されているわけです。偏差値の高い大学の学生なら、苛烈な受験勉強の経験で、それを受験勉強的に再生させて就職準備に備えることができますが、偏差値の低い大学生になるとそのような自立志向は皆無ですから、ますます就職難になります。
なぜそうなるのか。特に言えるのは職業教育への差別視です。「職業教育」と一般に言われるものは、1975年「私立学校振興助成法」と共にできた「専修学校制度」下の専門学校(専修学校専門課程)が長らくは担ってきました。しかしこれらの法律はいずれも(自民党の私立大学出身者の多い、特に早稲田文教族による)議員立法です。文科省は作りたくはなかった。
この文教族の言いたかったことは、「勉強嫌いの子でも大学へは行かないまでも、せめて職業教育くらいは受けて社会に出ないと」というものでした。だから「せめても」な専修学校の設置基準は一条校(学校教育法の第一条で規定される学校)に比べ遙かに緩いものになったわけです。私学助成法以降、大学の定員は厳しく管理され、大綱化の91年以降までは進学率が上がらず、その受け皿としての専門学校は歴史的には一定の役割を果たしました。
しかしこの出自によって、職業教育は勉強のできない子たちの受け皿にとどまりました。本格的に職業人材を作る動機を持てない状態が長く続いたのです。専門学校の卒業生に、「試験等により成績評価を、その評価に基づいて卒業認定を行っている」という条件を付加して、「専門士」というタイトルが付いたのもやっと1994年のことです。タイトルのない専門学校を支配していたルールは時間しばりの出席主義でしかなかったのです。
いまでも、高校の進路指導では、「頭がいい」生徒を専門学校に送り出すという指導はありえない。それは専門学校そのものが偏差値という一軸に沿った階層の一部をなす学校でしかないからです。学校教育・職業教育のグランドデザインが決定的に不足しているわけです。現在の安倍政権の教育複線化論も、依然として、「勉強嫌いの子には職業教育を」というものでしかない。「複線」でもなんでもない。偏差値単線でしかない。言い換えれば、職業教育を高度化する課題を放棄し、中曽根臨教審思想を未だに繰り返しているわけです。
●概論科目しかない大学のカリキュラム
一方で、反メリトクラシー(反実力主義)の象徴とも言える天皇制が存在している。長い時間をかけることによってしか不可能な人物形式主義の極としての家族主義が天皇制です。東京の名門私立校の趣向は、この種の家族選抜主義に繋がっています。
もう一方が、その種の家族主義への反動としてのメリトクラシー(実力主義)です。「頑張って受験勉強をして試験を受けて高得点なら天皇家に入れるというものでもない」という意味で、こちらは一種の成金主義です。近代主義はある種の成金主義だったわけです。
長い時間の評価は、純粋トーナメント主義としての階層固定を生み、一方で、短期の評価はガツガツした成金の騒がしい社会(騒がしい割に何も生み出さない社会)しか生まない。
したがって、今日の点数主義批判は、この短い時間が生む騒がしい人材像に対する批判と読み替えることもできます。
しかし、それは一足飛びに「人物」評価に繋がる問題ではありません。15年以上もかける学校教育の最後の学校である大学教育においても、すべての科目が概論主義的に(短く、小さく)分断されてしまっているという問題がそこではすっかり忘れ去られています。「騒がしい」ということのいみは、学生の「身につく」ような知識・技術教育のカリキュラムが、現在の大学には皆無だということです。3年生、4年生になっても、下位学年での系統的なインプットが足りていないため、お遊戯のような発表主義型ゼミ授業が蔓延しています。まるで3年生、4年生になって初めて勉強し始めたかのような。
また最近はやりの「リメディアル(入学前後の基礎補習教育)」授業も上位学年との有機的な接合がないままの中・高校復習型になっているため、4年間はばらばらの短期知識型科目履修にしかなっていません。これでは、点数主義的優等生、つまり騒がしい〝成金〟人材しか生まれません。
言い換えれば、現在の大学は中等教育なみの概論科目が並んでいるだけな0のです。学生は、国語・算数・理科・社会を受けるかのように、マーケティング、在庫管理、ファイナンス、ミクロ経済学などを受講しているに過ぎない。しかも中等教育とは比べものにならないほどの、選択制の蔓延する科目履修において。
●「上品な成金」を育てるための学校づくり
選択科目主義の問題点は、履修が毎回リセットされるため、内容が積み上がらないということです。中には、学年縛り無しに、4年間自由に選択できる科目が100単位も存在している大学もあります。これでは、短期のインプットとアウトプットとを繰り返すだけの「騒がしい」実力主義しか生じません。前期、後期、1年、2年、3年、4年と年月は積み上がりますが、専門性は何一つ積み上がらない。積み上がらない限りは、自信もつかない、「身につく」知識も技術もない。短期のインプットとアウトプットとを繰り返す安易なコミュニケーション主義のお調子者学生(学生営業マン)が横行するだけです。「アクティブラーニング」を導入する大学が増えていますが、それもまたお調子者教育に過ぎない。
点数主義が悪いのではありません。中等教育までの短い人工性(短いインプットとアウトプットとを繰り返す点数主義)を長い時間の人工性に変換する高等教育のカリキュラムが存在していないことが問題なのです。選択制を許しておいて、カリキュラムポリシーなど存在するはずがない。
もともと大学教育の教員(教授たち)は、安易なアウトプットを控える術を有した教員たちです。だからこそ、彼らは、時流に流されることなく、時代を画する(=エポックする)〝新しい〟研究をアウトプットすることができる。一つのアウトプットのために退屈(Langeweile)なくらい長い時間(= lange Weile)のインプットを蓄積する人材を「プロフェッサー(pro-fessor)」と言うわけです。
メリトクラシー(成金主義)の最大の恩恵に浴しているプロフェッサーがそこそこの〈人物〉でもあるのは、この短い営業主義的なアウトプットを押さえる訓練が出来ているからです。これを体現しなければいけないはずの大学教育カリキュラムが、消費主義的、選択主義的な2単位科目主義によって分断されています。1科目で100単位分になるような、それだけのアウトプットを問う点数試験が、天皇家的な形式主義でも騒がしい成金主義でもない新しい人材輩出の道を開くのです。
制度を変えるのではなく、試験の内容を変えるのです。詰め込み教育がダメなのであれば、創造的な思考力を問う良質な問題を出題すればいいだけのことです。
職業教育でも教養教育でもいい。明確な目標を持った積み上げ式の厳密なカリキュラムをつくる。ツィッターなど短い時間のやりとりにばかり慣れ親しんだ生徒や学生たちを、長い長い時間をかけて鍛え上げるのです。ガリ勉秀才を超え、十分な人間性も兼ね備えた「上品な成り金」を育てる学校づくりが、これからの高等教育の課題ではないでしょうか。
※初出:新潮45 2014年1月号 「点数主義こそ最も公平な制度である」より。→「にほんブログ村」
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