成人式を迎えるあなたへ ― 大人になるというのはどういうことなのか 2015年01月11日
大人になって〈自立する〉というのは、自分が使いたくないものにもお金を使うということを意味しています。われわれは〈光熱費〉にお金を使いたいなんて思いません。〈アパート代〉もできればなしで済ましたいと思っています。
しかし社会人になるということは、使いたくないものにも自分のお金をかけるということと同じです。そういうものを自分で担えるようになることを「大人になる」と言います。
これまであなたたちが使いたくないと思っていた(あるいは使わざるを得ないのに使っていることを自覚しないでいた)ほとんどのコストは、すべてあなたたちのお父さんやお母さんが担っていました。それを〈親〉と言います。〈親〉とは自分の使いたくないものにお金を使える能力を有した人のことです。言い換えれば、自分の生きること以上に過剰に生きることのできる人のことを言います。
一方、〈子供〉というのは欲しいものにしかお金を使わない人のことを言います。〈社会人〉ということは、自らが親になる出発点です。〈光熱費〉を自分で担わない社会人なんてあり得ません。
社会人というのは、基本的にけちな人たちなのです。なぜなら、彼らは自分の買いたいものだけを買っている人たちではないからです。その点が、好きなものだけを適当なアルバイトをしながら買い続けてきたあなたたちとの大きな違いです。
「オレ、クルマ買ったんだよ」と喜びながら言う人はいても「オレ、光熱費払ったんだよ」とうれしそうに言う人はいない。スーパーマーケットで買い物をすることを〈ショッピング〉に行く、とは言わない。
みなさんが社会人となって働き始めて、顧客の声に耳を傾けること。それはスーパーの買い物とショッピングとの違い、その微細な差異に、大きなセンサーを張ることから始まります。
さて、発達心理学には、"イノセント"という言葉があります。この語は普通「潔白(無罪)」「無邪気」「無垢」「うぶ」と訳されたりします。しかし心理学的には、この語は、親を否定したいという気持ちの青年期の心象を意味しています。
だからどんなに自立しようと〈自我〉を形成しようと、そういった自立的自我は、親の存在の前では単なる幻想であって、自我の自立性は親の存在を前にしていつも相対化されます。親(や親の階層)を主体的に選んで生まれてきた〈私〉なんて存在しないのだから。
そうやって、人間の自立過程期では、「なぜ自分はこんな親の元に生まれたんだ」というふうに親を拒絶する傾向が強くなる。逆に言えば、いつも〝純粋な自分〟〝ほんとうの自分〟があると信じ続けている。
あるいは、「純粋な」、「汚れなき」自分になり続けようとする。この状態を「イノセント」と言います。「イノセント」とは、自分の受動性や有限性の側面を受け入れようとしない傾向のことです。
「古畑任三郎」で有名な脚本家・三谷幸喜の作品で『ラヂオの時間』という映画があります。
主人公はラジオ番組の脚本作家です。若き三谷幸喜の分身と思われるその脚本家は、自分が渾身の力を込めて書き下ろした脚本に絶対の自信をもっています。でもプロデューサー(やディレクター)レベルでは、真っ赤っかに訂正の赤が入れられ、見るも無惨に原稿は修正されます。
若き脚本家は、こんなに直されるくらいなら、私の名前なんか出さないでいい、原稿もなかったことにして欲しい、なんてことを言い出します。新人であっても、無名であっても、作家としてのプライドが許さない、というものです。
するとプロデューサーは半分怒りながら、こう言い始めます。あなたが本当に個性的で創造的であるのならば、どんなに手を入れられようと、修正を加えられようと、その中でも光り輝くものがあるはず。どんな有名な作家であっても、新人時代は原稿をいじられまくってそれでもそれに耐えて光る“自分”を有していた。
作家の“個性”とか“創造性”とか“オリジナリティー”とか言うけれども、そんなものは、実はいつも泥だらけで、泥だらけだけれども、その泥の厚みを跳ね返しても輝き続ける個性というものがある。
私の個性、私の特徴、あるいはそして〈私〉などというものは、純粋無垢なものではなくて、泥だらけであって、いつも対立を孕んだもの、ダイナミックで闘争的なものだというのを忘れてはならない。
そんな感じのシーンだったと思います(全くのうろ覚えですが)。かなり私が勝手にまとめていますが、『ラヂオの時間』のそのシーンは印象的でした。
この若き作家は、イノセントだったわけです。こういったイノセントな個性の最大の敵は、成長期の子供にとっては、自分の親です。親が『ラヂオの時間』のプロデューサーであるわけです。
その意味で「大人になる」ということは、たとえ、飲んだくれで、お金を一切入れようとはしないだらしないお父さんであっても、「この父でよかったんだ」とその父を受け入れることができるようになることです。
どんなに〝能力〟のない親に見えたとしても、その親に対して「お父さん、お母さん、私を生んでくれてありがとう」と言えること、それを「大人になる」と言います。
子供である自分が成長して自立する、大人になるということの最大の意義は、自分の自由やポジティビティを阻害するもの ― 子供にとっては自分が自分(の力)で生まれてきたのではないという意味での親の存在という〈不自由〉 ― を、イノセントな仕方で排除せずに、きちんと担えるようになるということです。〈個性〉〈主体性〉〈自立性〉〈純粋性〉に憧れるというのは、青春期の病でもあるわけです。イノセントな病です。
同じように、どんな社会人、どんなプロの人間でもいつも時間がないこととお金がないこととの中で仕事をしています。六割、七割の満足度で仕事を終えています。悔いが残ることの連続です。プロの仕事というのは実は悔いの残る、不十分な仕事の連続、全然「主体的」じゃない。
一見、素晴らしい仕事に見える、お金もふんだんに使える、時間もたっぷりかけている、スタッフも十分だと外部から見えているにしても、プロの仕事には、それでいいということはありません。
不満だらけで(穴があったら入りたいくらいの気持ちで)仕事を〝終えている〟。しかし外部評価は及第点を取れている。それがプロの実際の仕事のあり方です。
それは、どういうことでしょうか。結局、六割、七割でも外部に通用するようなパワー(強力なパワー)を有しているというのが、仕事をする、仕事が「できる」ということの実際だということです。
みなさんが尊敬するプロの仕事は、その仕事をするための十分な時間(とお金)が与えられてできあがっていると思ったら大間違いだということ。「時間とお金があれば、もっといい仕事ができるんだけどな」というのは、だから〝イノセント〟だということです。
そんな純粋な時間もお金も実務の現場には存在しません。〝実績〟や〝才能〟も非主体的なノイズだらけなのです。
20才を超えた社会人一年生のあなたたちは、一年生であってももはやイノセントではありえない。「時間がない」と言ってはいけない。「お金(予算)がない」と言ってはいけない。まして「クライアントはケチだ」などと言ってはいけない。
そしてまた数々の、親の存在のような不合理な要求にも耐えて、そういった〝対立〟や〝否定〟をしっかりと担える〈人材〉にならなくてはならない。それが、私の、成人式へのメッセージです。(了)→「にほんブログ村」
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