【第五版】今度は「後書き」(キャリア教育はどうやって断念されたのか) ― 消費偏差値と高等教育のグランドデザイン)草稿ができました ― 読んだ人は必ず買って下さい(笑) 2013年03月22日
★あとがきにかえて
教育の現場に長い間いると、世間の人々のでき不出来、人々の行動のでき不出来がすべて自分の教育の成否に関わっているように見えて、いやーなタイプの人間になりがちだ。組織内の同僚、部下、上長までをも「どんな教育を受けてきたのだろう」という目でついつい見てしまう。その人達の〈経験〉や〈才能〉よりも、受けてきた〈教育〉が気になる。
街のアルバイト学生に出会っても、新人社員の営業や飛行機のCAに出会っても、デパートや家電量販店に行って買い物するときも、「どこの大学?」「どこの専門学校出たの?」とついつい聞きたくなる。接遇面ばかりではなく、家電品、クルマ・オーディオなどの工業製品などを使っていても、なんという不出来な商品!と怒りに満ちた声を上げるときも同じ。
いずれであっても背後に“人材”と“人材像”が存在し、“人材教育”が存在している。製品のできも人材のできに直結している。人を育てるということは人を育てられない分際の認識も含めて、社会観、世界観と無縁ではいられない。
そうやって、社会人はすべて卒業生(=人材)という“偏見”に、私の頭の中は固まっている。職業病だと思ってあきらめるしかない。
そんな病の中でいつも疑問に思うことは、「今のは、この子の個人的な資質によるものなのか、それとも教育が効いているのか(あるいは効いていないのか)」ということだ。もし今の場面に適切に対応できる“人材”を作ろうと思ったら、どんな教員、カリキュラム、シラバス・コマシラバスが必要なのだろうか、と。
そのことに関して最近、私は別のことを考えるきっかけがあった。田村耕太郎さん(前参議院議員)の紹介で昨年末、楽天の社長室長のAさん、人事責任者(常務執行役員)のSさんとお話をする機会があった。周知のように楽天は新卒枠の30%が海外の(特にアジアの)大学新卒者。
アジア進出を考えてのことだろうが、なかなか問題も多いとのこと。「なんですか」と聞くと、なぜこのような製品やサービスを提供しなくてはいけないのか、その「意味がわからない」とアジアのエリート新卒者たちは言うらしい。提供しろと命じれば「頭がいいから」すぐできるが、その意味をわかっていない、とS人事担当者。
私は、「なるほど」と言って次のように話を繋いだ。
私「頭の偏差値は高いけれど、消費者偏差値が低いんだよね、アジアのエリート学生たちは。日本の子どもたちは小さいときから、高度なマンガ・アニメ文化、ゲーム文化、携帯電話文化、そして接遇文化に馴染んでいる。“国際的な”秋葉原も近くにある。『頭がいい、悪い』に関係なく高度消費が空気のように身についている。消費に『頭がいい、悪い』はない。作れないかもしれないが、作る意味は分かる」。
楽天S「そうなんですよ、そこにズレがあるんですよ」。
私「『頭がいい』『作る』ことのできる学生に〈意味〉を教えるのか、『作る』ことは出来ないけれども〈意味〉のわかっている学生に『作る』ことを教えるのか、どちらが〈人材〉を作るのに早いか、簡単かということだよね(笑)。難しい問題だね」。
楽天S「『単に頭がよければいい、英語ができればいい、コミュニケーション能力が必要』という問題じゃないんですよ」。
私「わかります、わかります(笑)。そう思いますよ。だけど、日本の教育関係者がそのことを一番わかっていない。口を開けば『日本の学生はバカだ、勉強できない、基礎ができていない』になる。若者の消費偏差値の高さに気付いていない」。
こんなやりとりだった。資質か、教育かという狭い議論を超えて、日本の消費文化の高さは職業人材を作るもう一つ別の〈基礎学力〉のようなものを形成している。国語・算数・理科・社会・英語だけが「基礎学力」でもないのだ。
ところが、この能力を受け止める高等教育が存在していない。専門学校は大学に行けない子どもたちの受け皿でしかない。「頭がいい」という体系はジェネラルエデュケーション→リベラルアーツの軸でしかない。
消費偏差値の高さを活かす形で職業教育と接続する学校教育体系が存在していない。専門学校は非学校系の厚労省・国交省・経産省系の資格プレゼンスでかろうじて「学校」の体裁を保っているに過ぎない。
専門学校(専修学校専門課程)は議員立法の出自からも明らかなように元々から文科省の関心の外の“学校”だった。自民党文教族(主には私学の早稲田系)の1976年施行の私学助成法圧力のどさくさに紛れてできあがったのが専修学校制度(同じく1976年施行)だった。地方名士による「各種学校」の格上げ圧力が文教族議員立法に結実したのである。四大進学率がこの時代にはまだ20%台(四大進学率は90年代初頭まで20%台にとどまる)だったことからすれば、この制度は一定の役割を果たしたとも言える。
しかし、専門学校教育の核となる資格教育は受験教育の変種なのだから、その教育は予備校以上でも以下でもない。それは消費型の教育モデル(生涯学習モデル)なのである。だから厳密な意味での〈学歴(初等・中等・高等教育ヒエラルキー歴)〉にはならない。外部の資格取得目的の“学校”でありながら、「建学の精神」を持つというのも不思議なことなのだ。〈特色〉として競っているのは資格合格率だけなのだから。外部の〈資格〉目標すらない専門学校はもっとひどい状況だ。
要するに、高校卒接続の段階で、東大(ジェネラルエデュケーション→リベラルアーツ)へ進学するのと対等の立場で選択することのできる職業教育体系が存在していないのだ。
教育基本法改正(2006年)に際して新たに加わった「職業」教育とも並行した文科省の「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」中教審最終答申(2011年1月31日)も、「地域」人材育成に人材像が狭隘化されている。
当初2回の「経過報告」や本答申「素案」ではもっとはっきりと「中堅人材」育成という文言があったが(「経済社会活動のボリュームゾーンをなす中堅人材として活躍する、様々な職業・業種における実践的・創造的な職業人を育成していく必要がある」素案74頁)、本答申ではそれが二重抹消線(素案)と共に消えて、もっぱら「地域」人材としてのキャリア像に狭まっている。「中堅」という言葉を使ったのではこの答申の真意が露骨すぎるからだろう。
それもあって、この答申は複雑怪奇な答申になっている。一方では、〈職業教育〉と〈キャリア教育〉を概念的に分離し、短期接続的な社会接続教育(主には専門学校、短大に見られる)を〈職業教育〉とし、それとは別の長期的な「自立的」社会接続教育を〈キャリア教育〉としている。
専門学校でも最近、「キャリア教育」科目を導入する学校が出てきているが、本末転倒の事態だと言わざるを得ない。彼ら(専門学校関係者)は自分で自分を差別しているのである。
そもそもこの文科省の言う〈キャリア教育〉は学ぶことが仕事に就くことと結びついていない〈学校教育〉(=一条校)に導入されるためのもの。元から学ぶことと就職することとが結びついている(はずの)専門学校に「キャリア教育」という科目があることを不思議に思わない専門学校関係者の見識のなさにはあきれるばかりだ。結局、平板な資格・受験教育によって、具体的な職業人材像と分断されている分、流行(はやり)の「キャリア教育」に誘惑されるわけだ。専門学校「キャリア教育」というのは自己敗北宣言なのである。
つまり〈キャリア教育〉とは専門学校批判、短大批判のマークであり、「職業教育」はこの限りでは一段低い教育として差別されているわけだ。
しかしその持ち上げられた〈キャリア教育〉自体は、「中堅」人材、「地域」人材に狭められているわけだから、このキャリア教育もなお留保された人材教育に過ぎない。言い換えれば、“一流”大学の卒業生キャリアの方が、この「キャリア教育」答申の人材像よりもまだ上にあるわけだ。「中堅」に対しては「リーダー」がいるはずだし、「地方」に対しては“首都(本社・本部)”人材(敢えてそういう言い方をするとすれば)がいるのだろうから。
つまりこの答申は、結局は「職業教育」(広義の)をもう一度差別する答申になっている。事実的には全入時代の大学(偏差値の低い大学)の救済策としてのキャリア教育答申にとどまっている。
一方では専門学校の一条校化(質の向上課題)を先送りし、一方では崩壊しつつある低偏差値大学を救済する(大学設置基準をキャリア教育組織的に緩和する)という中途半端な答申になっているわけだ。
だから入試倍率のある中堅以上の大学は、このキャリア答申になんの関心も持てない。あるいは高偏差値高校の「キャリア教育」も空回りし続けている。より高い偏差値の大学へ進学させることが高偏差値高校の教育にとってもっとも実質的なキャリア教育であるだろうからである。
依然として〈キャリア教育〉は「頭の悪い」子供たちのものであり、「複線型教育の必要」と声高に叫ばれても、それは中曽根臨教審以来の「頭がいい」「頭が悪い」という二軸の複線にすぎない。
頭が悪い子にわざわざ(無理矢理)勉強させる必要はないという臨教審的(=曾野綾子的)意欲主義、個性主義が未だに複線型思想の根幹を形成している。偏差値トラック上の複線にとどまっているわけだ。
こうなってしまうのは、国語・算数・理科・社会・英語とは別の軸の教育が見出せないままになっているからだ。いわゆる高等教育の「グランドデザイン」の不在という事態。ジェネラルエデュケーション→リベラルアーツの、いわゆる“お勉強”系の軸とは別の高度職業教育を(高卒接続の)高等教育の中で展開するという課題が高等教育の「グランドデザイン」論と言われているものだ。
このグランドデザイン論は、「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」中教審本答申の(言わば)準備議論としての「専修学校の振興に関する検討会議」(文科省)では熱心に議論されていた(第1回2007年11月7日~第12回2008年10月20日)。
「『学術教育を中心とする若者に対する育て方』と『職業教育を中心とする若者に対する育て方』」「伝統的な高等教育の他に、実践的な職業教育に特化した高等教育機関が存在することは、国民に開かれた高等教育を保障することになるとともに、学術研究の中心としての伝統的な大学の質の維持にも資するものであること。従来の学校制度の中では必ずしも成熟してこなかった職業教育について、職業教育の体系化の観点から複線型の制度にして再構築する議論が必要であること」など。
これが中教審本答申では消えてしまう。「新たな学校種」(検討会議)と言われていたものが「新たな枠組み」(本答申)と言い換えられて軟化するように。
この検討会議は、専修学校の職業教育(この場合は専門学校)の実際についてほとんど何も知らない一条校関係者が専修学校「一条校化」に向けて検討するという趣をもっていたが、結果として専修学校の職業教育に対する不信を増大させる(故無きことではないが)につながった ― 本答申含めて中心的人物となった吉本圭一(九州大学)の報告(「高等教育としての専門学校教育」第3回 2007年12月21日)にはその不信が端的に表明されている。
※「一条校」とは、学校教育法「第一条」:「この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学(短期大学および大学院を含む)および高等専門学校とする」と規定されている学校群のこと。専修学校はこの〈学校〉概念の中には存在していない。
※※先の文科省「専修学校の振興に関する検討会議 」(第3回 2007年12月21日)において、専門学校の現況を調査報告した吉本圭一(九州大学)は、専門学校の就職状況、中退率、教員の教育力(教育熱心度)などの観点から、以下のような数値を取り出して検討会議で報告しています。
全国の全学科で専門学校卒業生の進路を調べてみると(文科省「学校基本調査1999年」)、
【就職状況】関連分野への就職が70%にとどまり、8%が関連分野以外、その上、無業者が21.6%もいる。
【中退者】中退者に関しては、1985年から2000年の間(の学校基本調査)の平均値で見ると、専門学校は15%、短大は5%、大学は7%。専門学校の方が大学より中退者が多い。
【教育熱心】「教員が教育熱心」と言われている専門学校の、教員一人あたりの学生数は、専門学校18.3人、短大19.3人、大学18.7人、常勤教員の持ちコマ数は、専門学校12.7時間、短大8.4時間、大学8.6時間。対学生数は大学とも変わらない。持ちコマ数が多い中、きめの細かい指導ができていると言えるのか。
こういった調査・報告を進める中で、吉本は、大学などに対して専門学校が「就職の専門学校」であり、「教育熱心」であると言えるのかと反問しています。さらに、別の論文の注釈の中では、専門学校のデータがあまりにも公共的に貧弱で、実態が見えないと吉本は嘆いている。
また既得権をもつ大学関係者からは「複線型の教育体系には賛成だが、既存の大学等においても職業教育を行っているので現行制度との整理は必要」などという思惑がらみの発言もあり、この検討会議以降、「一条校化」「グランドデザイン」という言葉は、(文科省内部で)消えていく。本答申ではこれらの言葉は、「特化した枠組み」「新たな枠組み」という言葉に軟化するわけだ。その軟化の挙げ句の果てが文科省の「キャリア教育」本答申である。
文科省(あるいは吉本圭一)がグランドデザイン論を断念した理由は、唯一の手がかりとされた専門学校の職業教育が高度職業教育のモデルにはなり得なかったことが大きいが、それ以上に両会議を主導した大学関係者に職業教育を導く理論も経験も能力も(その上関心も)なかったことが大きい。
しかしそれは無いものねだりというものだ。実質的には、二極化した大学の底辺が“専門学校化”するか、専門学校が“高度化”するか、どちらかが新設置基準を満たせば、それが「特化した枠組み」「新たな枠組み」ということでしかない。
そしてどちらにしても高等教育としては“底辺”にすぎない。「キャリア教育」答申は、志も戦略もない答申にとどまったのである。
日本の若者の消費偏差値の高さに誰も気づいていない。グランドデザイン論は消費偏差値が高い日本のような国において以外には、ヨーロッパやアメリカのような階級教育の変種としての職業教育にしかならない。
製造業が海外移転し、IT化と非正規雇用と大学全入によって若者の行き場がなくなった。そのおかげで軽薄なコミュニケーション主義、コミュニケーション教育が蔓延している。一億総営業マンを作るかのように。まるでそれが〈キャリア教育〉でもあるというようにして。
しかし、「こういう商品じゃないと私は買わない」とか、「こういうサービスのない店には私は行かない」という動機を、それらを〈作る〉動機に転換させること、それが〈キャリア教育〉の課題になっていなければならない。
事実、日本は、街全体が〈教育〉に充ち満ちているわけだ。街ばかりではなく、自宅の、自室の身の回りのものそのものが〈教育〉に充ち満ちているわけだ。子供から大人まで一億総批評家になっている。おびただしい商品批評コメント、サービス批評コメントを見れば完成品に対してこんなにうるさい国民はいない。買わないものにまでけちを付け、買った後まで他人のコメントを気にする。このパワーが消費偏差値の高さを物語っている。
その意味で言えば、高校卒業の時点ですでに消費者として充分に子供(生徒たち)は〈社会〉に出ている。ジェネラルエデュケーション→リベラルアーツの軸でしか学校教育(高等教育)が存在しないのは、そしてまたその裏方のような職業教育(専門学校教育)しか存在しないのは、実はそれらが“学校後進国”の体系にとどまっているからに過ぎない。
消費偏差値の高さに裏付けられた職業高等教育選択が存在しうる素地が日本にこそ存在しているにもかかわらず。
学校教育の現場では、この早くから社会外部化した児童・生徒・学生たちを「オレ様化する子どもたち」と厄介者扱いしたり、「学校教育もサービス産業、児童・生徒・学生たちはお客様」などとうそぶいたりしている人たちがたくさんいるが、社会批評、社会選択を基盤にした学校教育体系が少なくとも高等教育以降は存在しうることを、それは、意味しているに過ぎない。
〈キャリア教育〉とは、自分がどんな商品やサービスを提供したいのかを無条件に逆算して学校教育を再編することに他ならない。その道を示すことが出来れば、東大志望の高校生も職業教育を選択するときがやってくる。高大連携の鍵を握るのはこの意味での〈キャリア教育〉なのだ。
1年後に還暦を迎える私は、やっとやり残した仕事が見えてきた。もう遅いのかもしれないが、仲間を募って新しい〈学校〉を作りたい。いま私の周りにいる人たちはそんな思いに駆り立てられた人たちばかりだ。上にも下にもこぼれている日本の若者の可能性に目を閉ざす教育の現状、それに対する大人側からの反旗の思いがこの本の記事一行一行の中に、10年間の記事の中に込めてある。そう思ってこの10年必死に走ってきた。老婆心なしには出来ない仕事のような気もするが、私の場合は老爺心だ。うるさい親爺だなと思って諦めてもらいたい。
2013年3月 桜芽吹く品川・御殿山にて 芦田宏直→「にほんブログ村」
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記事をゆっくり読ませていただきました。実に興味深い内容です。