「気仙沼はどうなっているのか」 ― 今頃、年賀状が書けました。 2012年05月11日
※この記事は2012年の年賀状を書き始めて、そのままになっていたものを、ふとしたきっかけで今頃書き終えたものです。季節外れの文体を我慢してください(笑)。ふとしたきっかけ、というのは、私の3月11日大震災のツイート集http://togetter.com/li/110551を昨日リツイートした方がおられて、そこに「気仙沼はどうなっているのか」という11日の私のツイートを見つけたからです。胸が締め付けられる思いがして、一気に書き上げました。
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昨年の紅白歌合戦(第62回紅白歌合戦)のテーマは「あしたを歌おう」だった。たぶんに東北震災(東日本大震災)を意識したものだった。
私がこの紅白で一番感激したのは、森進一の『港町ブルース』http://www.youtube.com/watch?v=ca5RkkKHwRw&feature=fvwrelだった(紅白中全曲平均点が50点代後半の私の採点の中で、この歌唱は100点満点だった)。この歌は私の世代の人間には、森進一の代表作とも言ってよいものだ。他の震災関連の企画参加曲と違って、この歌は震災のはるか以前から、関西に済む高校生の私にさえよく知られた曲だった。
地震が起こった当日の夜、気仙沼の大火災がテレビ画面を覆い尽くしたとき、東北に全く無縁なその私が真っ先に思い出したのは、『港町ブルース』に登場する「気仙沼」だった。
「気仙沼はどうなっているのか」https://twitter.com/#!/jai_an/status/46223428545560576 と、私は震災の当日につぶやいたのだった。そのとき、私の「気仙沼」は港町ブルースの気仙沼だった。40年以上も経って、その「気仙沼」が、そして『港町ブルース』が私にやってきたのである。
「気仙沼」という言葉は、地理にも東北文化にも疎遠な幼い私にとっては、森進一の『港町ブルース』でしかなかった。その「気仙沼」が火の海だ…という感じだった。
昭和44年に発表された『港町ブルース』は、この震災のためにあったのか、というのが私の感慨だった。震災によって作られたり、注目されたりするシンガーやその歌の意味は、いつも事実や現実の衝撃に支えられている。だから事実や現実が変化すると必ず衰退する歌に過ぎない。事実や現実は変化の別名でもあるからだ。変化は生成の変化であると共に消滅の変化でもある。
しかし、歌の意味はこちら(此岸)から生じているのではなく、あちら(彼岸)からやってくる。どんな条件も超えているからこそ、歌は歌い続けられる。あらゆる〈作品〉がそうであるように。だからこそ、どんな〈現在〉にもみずみずしい。そしてまた衝撃的でもある。
私にとって、紅白の『港町ブルース』はそんな作品だった。「気仙沼」の意味が40年以上も経って、私にやってきたのである。
それは、『港町ブルース』の意味が震災によって初めてわかったようにして変化したからではない。私にとって、森進一の『港町ブルース』は最初から一級の作品だった。震災以後であれ、震災以前であれ代表作を挙げろと言われれば、私は、文句なく『港町ブルース』を上げる。
そんなふうに『港町ブルース』はある種の同一性を保っている。森進一の歌唱がオンザレールで高速コーナーを回るかのように安定しているからこそ、それは余計に前面化する同一性なのだ。『港町ブルース』の二年後に発表される尾崎紀世彦(昭和46年)の『また逢う日まで』が当時の歌唱と大きく変化することに較べれば、森進一の歌唱のこの同一性は(ついでにあげれば五木ひろしの『ふるさと』も)際立っている。
「歌は世につれ、世は歌につれ」とは言うが、それは時代と共に何かが変化するということではない。まして歌い方が成熟するというわけでもない。尾崎紀世彦の歌唱はそこを理解しない。〈作品〉は最初にそこに全てがあるというようにして変化を読み込んでいる。その意味では、変化は「ある」のであって、生成消滅しているのではない。
「作家は処女作に収斂する」と言うが、それは処女作が一般的に、条件や環境を乗り越えているからである。「世につれ」ていないからだ。一度ヒットを出してしまうと、「世につれ」はじめて世俗化する。変化にまみれる。そうして忘れられていく。次々とヒットや世相は生まれるからだ。社会的な事件は忘れられるからこそ、記録されるのであって、〈記録〉や〈記憶〉や〈記念碑〉が忘却に抗ったことなど一度もない。
なぜ、そうなるのか。作者が一度できたマーケットに媚び始めるからだ。つまり、〈作品〉が“背後”を持ち始めるからだ。
そういった意味で言えば、全て(のできあがった)権威は、処女作現象にすぎない。それは時代に抗って時代を作るからこそ「収斂する」のである。始まり「がある」とはそういうことだ。
そんなふうに、気仙沼(の変化)は、『港町ブルース』に収斂している。
今回の東北震災と“関係”のない『港町ブルース』の気仙沼こそが、心に響く。ずーっと『港町ブルース』は気仙沼のことを“心配”していたわけだ
私は、いま〈新人〉のことを考えている。新人とは何か? 〈作品〉は〈新人〉と共に登場するが、新人の本質は孤独ということだ。すでに知られている新人はもはや新人ではない。
新人が知られるということは、だから不思議なことだ。かつて吉本隆明は、鮎川信夫は新人を発掘する稀有な精神を持ち備えている人物だと評したことがあったが、すでに評価を得た評者が新人を発掘するということはそれ自体矛盾した事態だからである。すでに名のある評者は自分(のプレゼンス)を捨てなければ新人を発掘できない。
新人=作品は見つからないからこそ新人であり、見つかったときにはすでに終わっている。処女作は生まれるときにこそ抵抗値(反時代性)が最大になるからだ。最初のもの(アルケー)が最もみずみずしいのは、最初のものこそが一番大きな制約を抱えて、またその制約に打ち勝ってこの世に登場するからだ。
だから最初のものを反復するということは、それ自体で大変なパワーを必要とするということ。というよりそういったパワーの豊穣性を最初の(アルケーとしての)作品=作者は有しているということだ。
※ハイデガーは〈始まり〉(アルケー)について次のように言っていた。「〈始まり〉はその後に来るあらゆるものをも凌駕する最も偉大なものであり、たとえ後に来るものが〈始まり〉に逆らう時でさえそうなのである。後に来るものが逆らうことが出来るのは、〈始まり〉が存在し、後に来るものを可能にするからこそである。…これによって、〈始まり〉の偉大さが否認されるわけではなく、むしろ承認されている」。(181/45)
豊穣性は、どんな変化にも、時代の制約や時代の事件にも影響を受けない。
だから処女作への収斂とは、終わりの始まりとも言える。作品はそれ自身において終焉を含んでいる。だからこそ、時代の制約や時代の事件にも影響を受けない。
受け付けないからこそ、もろもろの時代の、もろもろの事件の意味を純粋に指示することが出来る。
若い森進一の『港町ブルース』が、震災以前も震災以後も同じようにちまたに知られた『港町ブルース』である ― 港町ブルース〈である〉のは、(ちまたに知られているにもかかわらず)そういった純粋性に関わっているからだ。
神戸震災も忘れ去られ、9.11も忘れられて、そして3.11が存在している。事件とは忘れられてこそ再発する。「この悲しさやこの苦しみは誰にもわからないが、また一方で誰にでも訪れる災禍でもある」というように事件は存在する。全共闘時代の〈自己否定〉の論理もそういった切迫性を持っていた。この1年間の大震災報道では、なんど、全共闘的な「自己否定」の闘士を見たことか。
この「自己否定」の振幅は、当事者にとっても、非当事者にとっても担いきれない振幅でしかない。どちらにとっても日常からの変化の幅が大きすぎるからだ。
このような〈変化〉は退屈の反対語にふさわしい。
私は、ラッセルのように「戦争、虐殺、迫害は、全て退屈からの逃避の一部だった」と言い切るには研鑽が足りないが、狩猟時代に比べて農業の発達は退屈を拡大し、「機械の番をすることの退屈さについては耳にたこができるほど聞かされている」とするラッセルの認識に、インターネットでPCの前に座り続ける退屈さ、あるいは携帯メールにメールが来ない退屈さについては「耳にたこができるほどに聞かされている」という昨今の事態を付け足せば、〈変化〉よりも退屈問題の方がはるかに深刻な事態だと予感することくらいはできる。
退屈が深刻な分、事件が大事件になる可能性も高く、またその分忘れ去られるスピードも速い。そうやって、神戸震災も忘れ去られ、9.11も忘れられて、そして3.11に至っている。
当時、そのそれぞれを「大事件」と叫んでいた人たちは、ふたたび今回の事件を「かつてない」大事件と呼んでいる。なんども「かつてない」大事件が頻発する。「大事件」など存在していないかのように。
そして、今日では、Twitter。「大事件」を大きく、速く伝えるのもTwitterだが、その分加速度的に、「餃子がうまい」、と、それらを忘れ去るのもTwitter。
今日のマーケティングは、大事件に主題的に収斂しない「餃子がうまい」の方に事件性を嗅ぎ取るまでになっている。いわゆるソーシャルメディア論だ。つまり“大事件”は秒刻みで起こるようになっている。ハイデガーは、これをGe-stell(せき立て)と呼んだ。
Twitterは、その意味では、退屈と大事件とが背中合わせに存在していることを感じさせる希有なメディアだ。
Twitterは、間断なく現在を微分しながら、退屈と大事件を微分しながら継続している。この継続性は、単調で退屈そのものでもある。それがそう見えないのは、小さな終わりを刻み続けているからだ。
小さな終わりであるにもかかわらず、終わりの単調性を免れているのは、それが現在という時間を微分しているからである。いま生じていることは、〈いま〉が重要なのであって、いま〈何〉が生じているかが重要なのではない。テーマを共有することではなく、時間を共有することが重要なのだ。だから事件主義になる。
「傘がない」(井上陽水)ことは、時間が経てば=(reflectionすれば)意味のないフレーズになってしまうが、「だけども 問題は 今日の雨 傘がない」となる。この時間の、つまり今の「傘がない」は、「都会」の「自殺する若者」、「テレビ」で騒がれている「我が国の将来の問題」よりも「問題」なのだ。「傘がない」は、若者の「自殺」に匹敵する事件なのである。
自他観察の時間を長く取れば取るほど、テーマ性の比重(棄てるテーマと拾うテーマの反省)は高くなるが、短くとれば、どんなにくだらないことでも重要度は増す。だからこそ、Twitterでは、「大地震」「大津波」から「傘がない」までもが(対等な)大事件なのだ。
しかし、そもそも大事件とは、いまが火急のものとなるような事態ではなかったか。「いま、水がない」「いま、食料がない」「いま、電気がない」というように。
〈大事件〉とは、実は、短い時間の出来事でしかないのだ。「なんだかんだ偉そうなこと言ったって、人間はおしっこもするし、食べなきゃ生きていけないし、食べてもいつかは(いつでも)死ぬ」といったある種のフォイエルバッハ主義は、短い時間の=火急の唯物論であって、短くなればなるほど大事件性は高くなる。前触れなく一気に変化するものこそ大事件となるからだ。しかし、この大事件性は、「傘がない」ことと同じ質にとどまっている。
しかし、「気仙沼はどうなっているのだ」。『港町ブルース』の単調性や反復性の方がはるかに豊穣な大事件だったのではないのか。→「にほんブログ村」
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