増補版(Version 17.0) 追悼・吉本隆明 2012年03月17日
●追悼のための銘辞
ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす
だから ちひさなやさしい群よ
みんなのひとつひとつの貌よ
さやうなら
― 「ちひさな群れへの挨拶」(1952年)より
ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧曝と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだ
― 「廃人の歌」(1952年)より
けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなつたから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す…
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちやくちやになつてあらはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである
とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
― 「涙が涸れる」(1954年)より
人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(…)人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。
― 「マチウ書試論」(1954)より
言語が意味や音のほかに像をもつというかんがえを、言語学者はみとめないかもしれない。しかし〈言語〉というコトバを本質的な意味でつかうとき、わたしたちは言語学をふり切ってもこの考えにつくほうがよい。(…)言語における像という概念に根拠をあたえさえすれば、この別れは可能なのだ。
― 『言語にとって美とはなにか』(1965年)より
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吉本隆明さんが昨日16日亡くなりました(http://www.asahi.com/obituaries/update/0316/TKY201203160011.html)。87歳。私の父親とほぼ同じ年齢の思想家でした。印象深い『マチウ書試論』は私の生まれた年(1954年)の作品です。
私の直接のあまりにも近しい恩師と言えば、詩人でもありベケットの研究者でもある永坂田津子先生(http://www.ashida.info/blog/2001/01/re1.html、、デリダを『声と現象』で日本に最初に紹介した高橋允昭先生(http://www.ashida.info/blog/2004/10/hamaenco_4_97.html)、ハイデガー・ニーチェ研究者の川原栄峰先生(http://www.ashida.info/blog/2007/01/post_185.html)ですが、それに加えて(自分勝手な)恩師を挙げるとすれば、吉本隆明さんでした。
最初に挙げた三人はもういない。そして吉本さんも昨日亡くなりました。その三人よりも先に、吉本の作品は高校一年生の時からむさぼるように読み続けていたものでした。
特に彼の文章(文体)が大好きでした。引用の文(=他者の思考)と地の文(=自分の思考)との処理の仕方が絶妙で、幼い私は彼に思考の内容にというよりは、その引用の文体に、あるいは読書の仕方に惚れ込んでいました。
彼の引用は、被引用者の全体の思想(その核)をつかんだかのような引用でした。彼の引用する文章の全ては、部分というよりは、その部分が被引用者の思考の臍であるような体裁をいつも醸し出していました ― その臍となる部分のことを彼は後の著作で〈作品〉の「入射角」「出射角」と呼ぶようになっていました。
彼の引用批評は、いわば人格批評と紙一重の緊迫感がありました。人と思想とは“同じ”なんだと。「関係の絶対性」はぐるっと一周してそういう思想だったのだと私は思います。だからこそ、時として排外的、時として寛容という振幅を持っていたのです。
現在の検索主義の引用とは正反対の思考がそこにあった。こんなふうに本が読めたら、どんなふうに自由になれるんだろう、と私はいつも思っていました。
そうやって、彼の読むものはすべて読みたい、と思った私の同世代の読者は多かったはずです。片っ端からヘーゲルやマルクス、フロイトやソシュール、花田清輝や丸山真男たちを読んでいったわけです。
なにかが起こる度に、吉本さんならなんて言うんだろう、どう考えるんだろうと思い続けながら自分の思考を織り込んでいったのが、私の高校・大学時代でした。同世代の人たち(特にマルクスボーイたち)はほとんどそうだったと思います。私の世代は70年安保にさえ遅れた「学費闘争」世代ですから、遅れてきた吉本ファンに過ぎなかったわけですが(苦笑)。
彼の思想の核は、もちろん『言語にとって美とはなにか』の〈像〉概念にあります(もちろん〈像〉は概念ではないのですが)。この〈像〉は、〈自己表出〉と〈指示表出〉との交点に浮かぶものです。そして〈自己表出〉にも〈指示表出〉にも還元できないものが〈像〉なのです。ソシュールと違って、唯物論的な〈像〉と言ってもよいかもしれない。
言語とは、あるいは表現とは、定義でも、機能でも、手段でもないという言語観が、そこにはありました。2年前のNHKの講演会で彼が言った「ファンクショナリズム」との戦いがすでにそこにはあったのです。彼の思想的な頑固さと柔軟性との双方の起源がこの〈像〉概念なわけです。彼の引用の作法そのものが、この〈像〉概念に基づいていました。もう一つの主著『共同幻想論』も国家の〈像〉概念を扱ったものに過ぎない。
私はこの吉本さんの〈像〉概念に決定的な影響を受けました。
大学に入って、ハイデガーを本格的に読むようになって、少しずつ吉本さんの本を読まなくなりましたが、昨日朝日新聞関連のサイトで「…親鸞は『人間には往(い)きと還(かえ)りがある』と言っています。『往き』の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分のなすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて帰ってくる『還り』には、どんな種類の問題でも、すべてを包括して処理して生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと」(2011年03月20日の発言)を見つけました。
親鸞の往相・還相論の吉本隆明の解説ですが、なんども読み続けてきたこの吉本の親鸞論も繰り返し、繰り返し変奏されると、これはハイデガーの転向(ケーレ)論の最も良質なものではないかとさえ思えてくる。存在者からの存在への『往き』(前期ハイデガー)と存在からの『(存在者への)還り』(後期ハイデガー)はベクトルが違うだけではなく、質が違うのです。
結局、20代以降、約20年にわたって相対的には自立できたかな、と思っていた私のハイデガー(=フッサール)傾斜は、吉本さんの手のひらの中での出来事だったのかな、と悲しくもあり、切なくもあり、しかもホッとする一瞬でした。
思考するということは、成熟することではなくて、若い“とき”を反復することの威力を与えるものなのではないでしょうか。
私が生まれたときとほぼ同じ時期(彼の20代後半時代)に彼が無名のままに書き連ねていた(今となっては)有名な詩編をここに取り上げて彼への追悼に代えたいと思います。
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ちひさな群への挨拶
あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ
冬は背中からぼくをこごえさせるから
冬の真むかうへでてゆくために
ぼくはちひさな微温をたちきる
をはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれる
ぼくが街路へほうりだされたために
地球の脳髄は弛緩してしまふ
ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために
冬は女たちを遠ざける
ぼくは何処までゆかうとも
第四級の風てん病院をでられない
ちひさなやさしい群よ
昨日までかなしかつた
昨日までうれしかつたひとびとよ
冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげる
そうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにする
こわれやすい神経をもつたぼくの仲間よ
フロストの皮膜のしたで睡れ
そのあひだにぼくは立去らう
ぼくたちの味方は破れ
戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだから
ちひさなやさしい群よ
苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるとき
ぼくは何をしたらう
ぼくの脳髄はおもたく ぼくの肩は疲れてゐるから
記憶といふ記憶はうつちやらなくてはいけない
みんなのやさしさといつしよに
ぼくはでてゆく
冬の圧力の真むかうへ
ひとりつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから
ひとりつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だから
ぼくはでてゆく
すべての時刻がむかうかはに加担しても
ぼくたちがしはらつたものを
ずつと以前のぶんまでとりかへすために
すでにいらなくなつたものはそれを思ひしらせるために
ちひさなやさしい群よ
みんなは思ひ出のひとつひとつだ
ぼくはでてゆく
嫌悪のひとつひとつに出遇ふために
ぼくはでてゆく
無数の敵のどまん中へ
ぼくは疲れてゐる
がぼくの瞑りは無尽蔵だ
ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす
だから ちひさなやさしい群よ
みんなのひとつひとつの貌よ
さやうなら
(昭和27年の作品と推定される。未発表のまま、昭和28年9月1日私家版詩集として発効された『転移のための十篇』に収められる)
廃人の歌
ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でをはる ぼくはそれを考へてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに 世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものたちは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつてゐる たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧曝と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだ
ぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいつのとりえである患者ださうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間で ぼくの好きな奴は二人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の抗訴をすすめるための 休暇はかせげる
(「ちひいさな群れへの挨拶」と同じように、昭和27年の作品と推定される。未発表のまま、昭和28年9月1日私家版詩集として発効された『転移のための十篇』に収められる)
涙が涸れる
けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなつたから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の傷から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす
しめつぽい貧民街の朽ちかかつた軒端を
ひとりであるいは少女と
とはり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしてゐる
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちやくちやになつてあらはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである
とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによつて
きみはぼくらによつて ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ
(昭和29年8月1日『現代詩』第一巻第2号に掲載される)
※なお私のまとまった吉本小論としては、
「吉本隆明、NHK出演その後 ― 自己表出の『沈黙』は唯物論的(柄谷行人も蓮実重彦も間違っている)」 2009年01月09日 http://www.ashida.info/blog/2009/01/nhketv.html
「検索バカ」と吉本隆明、あるいは「自己表出」の反ファンクショナリズムについて 2009年01月10日 http://www.ashida.info/blog/2009/01/post_319.html
にあります。また少し冷静になれば、もっと本格的なものを書きたいと思います。合掌。→「にほんブログ村」
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吉本隆明さんが亡くなったことを昨日の芦田先生のtwitterで知り、こちらの記事を読みました。
私の名前は礼隆と書くのですが、あなたの” 隆”はお父さんが学生の頃に大好きだったヨシモトタカアキっていう人の字と一緒なんだよ、という話を小学校の時に母から聞いたことを思いだしました。
吉本の思想や著作についてはその頃から全く知らないままでしたが、芦田先生のこちらの記事のおかげで少し知ることができた気がします。ありがとうございます。
昔、父に一度だけ作文の宿題を見てもらったことがあります。編集者だった父は、子供の(私の)作文を容赦なく真っ赤に直して、さんざん文句をいった後に「文章は像というかイメージが読み手に伝わるかどうかなんだよなぁ。わからないかなー。」とぽつりとつぶやいていました。
推測ですが、父も「言語にとって美とは何か」を読んで<像>概念に影響を受けた読者の一人だったのかな、と思い当たります。
私は芦田先生のtweetが好きで、いつも楽しみにしています。実際は、勉強をあまり真面目にしてこなかった私には難しくてわからないことのほうが多いのですが。
なぜ芦田先生に惹かれるのかは自分でもわかりませんでしたが、誤解を恐れずに言えば、芦田先生と父に相通ずるものを感じているからかもしれません。父がいろいろしゃべってくれているような嬉しさを感じてしまうのかもしれません。
今回の記事を読んで、芦田先生と私の父が似ている(ようにみえる)のは、それはほぼ同じ時代に早稲田大学で学生運動に参加し、吉本の本を熱心に読んでいたことがおおきかったのではないかという気がします。
それほど吉本隆明の思想が切実で、学生に影響を与えた時代があったんだな、と思いました。娘のよしもとばななさんが「最高のお父さんでした」と新聞にコメントしていたそうですが、吉本さんはいろんな人のお父さんだったんだな、という気がします。
以上、とりとめのない感想ですがご容赦ください。ありがとうございました。これからもtweetと芦田の毎日、楽しみにしています。
芦田先生の吉本に関する文章を、吉本ばななさんの一連のツィート(原発問題のインタビューへのフォロー、介護や告別式を終えてのつぶやきなど)と並べて読んでいると、芦田先生が吉本隆明さんの本当の息子のように見えてきます。
吉本隆明さんの追悼のなかに紛れ込むようにして、芦田先生が実父を語るツィートをしたからかもしれません。
「悔いのない父親なんて、子供には存在しない。」
感想欄に投稿された礼隆さんが語る父親像もあわせて、父の追悼とは一体何なのだろうか、と考え直さざるを得なくなります。
そのとき、なぜだか、ハイデッガーが好んでいたと言われる芭蕉の「雲雀より上にやすらふ峠かな」の句が、頭のなかで何度も何度もリフレインされてきます。
素晴らしい考察ですね、吉本解釈を二編かな、拝読いたしました。
そのうち、「共同幻想論」のこともレクチャーしてくださいませ。
個人的に、あれが気になって気になって。
歴史もからむために、情報として今では受容できない部分があると思うんですが、でもすごいと思っています。