「ある」と「べき」について ― 1988年法政大学「哲学」講義 2011年11月30日
この講義は1988年度法政大学通信教育スクーリング講座(於:市ヶ谷校舎)の、1年間通年で行われたものの録音テープを編集したものです(第二回目と第三回目の講義)。当時、熱心な学生がいて、私の講義を文字興ししてくれました。私が、教壇に立った最初の講義です。400名の履修登録学生のいる大きな階段教室での講義でした。Twitterで、「ある」と「べき」との関係について悩んでいる人がいたので、この講義を思い出した次第です。ここに再録します。懐かしい。私が34歳の時のものです。
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哲学講義 (1) 1989.4.24
えーと先週はですね、皆さんに突然、哲学とは何かということを書いていただいたんですが、まだ二回ひととおり、ひととおり二回読ませていただきましたが、まだデータの集積ができておりません。で、やっと百人分くらいは、こういうふうに一行ずつまとめさせていただいて、書かせてもらっているんですが、年齢の分布では、百人の範囲内ではだいたい百人中六十人くらいが二十歳代の人です。あと十代と三十代と四十代が十五人くらいずつ、あと五十代以上のかたが三、四名くらいの割合いです、百人に対してね。ここの教室は三百五十人ですか。だからだいたい三・五倍してもらえば、だいたいこの授業の年齢層というのが見えてくるわけですが、そんな話は哲学の話とは何の関係もないんで、ただ私の年齢について「先生、何歳なんですか。哲学者ってもっと年齢の高い方だと思っていたので」と質問された方もおられるんですが、私は三十四歳で(えっー、という声)、私より年上のかたもかなりおられます。
したがって、僕なんかも、哲学の本を読むときに、自分より年齢が若い研究者が本を出したりしてくるわけですね。そうすると、とても読む気になりません、ばかくさくてですね(笑)。自分より年齢が若いやつがまともなことを書くわけがない、というふうに思いまして、読む気がおこりません。そういうところで考えてみますと、私より年齢の上のかたが、私の授業を聞いてくださるという話は、たいへんありがたいとともに、気はずかしい気持ちがしまして、そういう意味でも年齢を書いていただいたんですが、若い人間が、一体何を考えているのかということを理解していただくつもりで聞いていただけたらありがたいと思います。
で、書いてもらったので、一応まとめた範囲では、四百人近い方に哲学とは何かというのを書いてもらいますと、だいたいほとんどのことは出尽くしてしまうわけで、これはおそらく哲学が、だいたい二千五百年くらいの歴史が ― さしあたってギリシアから始まって二千五百年くらいの歴史が ― あって、その歴史の累積のなかでみなさんが突然、哲学とは何か、というふうに聞かれても書けることの累積というのは必ずあるわけですね。それは、われわれが何を言ったかとか、何年ごろどんなことが起こったかということではなくて、歴史の累積というのは、そんなことあたりまえでしょみたいな形で受入れられていること自体が、実は長い歴史のなかで始めてあたりまえになった、そういったことがらとして存在しているわけで、そういう意味では、書いてもらったことの全ては、約二千五百年間歴史の成果なわけですね。いい意味でも悪い意味でも成果なわけで、それは無視するこはできないわけです。
それで今日から授業をやっていくわけですが、その前に非常に事務的なことで ― 書いていただいたことで ― 気になることが二、三ありましたので、そのことについて先に触れます。ひとつは、この教室は、教員免許をとるかたがある程度おられまして、あるかたなどは、教員免許取得のため法学と哲学はとったほうが良いからとった、と書いておられるかたがありまして、この傾向はけっこうあったわけですね。つまり、この教室のなかには、将来先生になられるかたがいる。つまり僕のように、こういうふうに前に立って、授業をされるかたがいる。そのことは、ちょっと押えてきたいというふうに思います。
もうひとつ。仕事上、全回分出席できないかたがおられる。つまり仕事上夜勤の関係とか、あるいは出張も含めていろんな仕事で、ここに来られないかたがいる。そうすると前回お話した、出席を重視しますという話との関連で、気にしておられるかたがおられる。これは全然予想していなかったことでありまして、どうしようかと思ったんですが、こういうふうにしましょう。一週間前にですね、来週の月曜日来れないと、それこそ会社の仕事の関係で一週間後の月曜日は夜勤があるとか、あるいは出張があるとかということが計画として分っている場合は、今日の段階、つまり一週間前の月曜日の授業の最後に私に申し出てください。そうすると私が代わりに、出席調査票を書かせていただきます(笑)。それは、だから、仕事の関係できちんとスケジュールが組まれていて、それが分っている場合だけです。したがって、そういうかたは、申告してください。出席扱いにさせていただきます。その二点です。
〔今の〕二点目の方は事務的なことなんですが、〔前の〕先生になられるかたがおられるということを押さえておきたたいというのは、私、教師という職業をたいへん嫌悪しておりまして、ひとにものを教えるというのは、どうしようもないことだというふうに思っております。だいたい教えるということをやっている人間は、その分野の最前線で働いている人間ではないわけです。たとえば、僕はゴルフはやりませんが、ゴルフのレッスン・プロといいますと、これはゴルフのできない連中なわけです。つまりゴルフを教えるやつというのは、競技の最前線で自分の能力を最大限に発揮して仕事している連中じゃないんです。
僕も今、こうやって教えるというところにいるわけですが、しかしやっぱり最前線に立っていない。つまり哲学というのは、先程もお話しましたように、ギリシアに始まってだいたい二千五百年くらいの歴史を持っているわけでずが ― さっき「累積」と言いましたが ― 、二千五百年かけて人類というのは一体どこまでものを考えられるところまで来ているかということが、やっぱり前提としてあるわけです。で、いま僕が ― 今平成何年かしりませんが ― 、ここに立ってお話していることは、この二千五百年の最も最先端の場面の思考というものをみなさんにご紹介したい、そのことをお話ししたいということなわけです。
したがって教えるという段の話になりますと、だいたいわれわれは、たとえば高校で倫理社会を習ったり、あるいは哲学の大教室で哲学史みたいなものを習う場合は、だいたいおおざっぱに言って、五十年から百年遅れたところでまとまっている哲学史であったり、哲学的思考の現在であるわけで、ほとんど最前線で活躍している思想家たちの業績というものは、なかに入ってこないわけです。で、それはその、教壇に立つ人間が怠けているということではなくて、教えるという段になると、知識(知られたもの)というものをみなさんに与えていくというふうになっていきますから、それは、教えるということ自体が持っている問題なんだと思うんです。
そういう意味では、私は、いわゆる教師のようにしてみなさんの前に立って教えるという気は、ある意味では、ないんであって、先週書いていただいた話のなかに、やはりそういうことを感じられているかたがおられまして、たとえば、哲学史は知識をつめこむだけだ、そんなことをやるんであれば、一、二の哲学者をとりあげて深くやっていただきたい、というふうに書いているかたがありましたし、哲学史のつめこみではない授業をやりたい、というふうに書いておられるかたもある。これはもちろん、哲学史をやっていただきたいというふうに言われている方もおられるわけであって、その場合は、歴史というものそのものに自分は関心がある、したがって哲学史の授業をやっていただきたい、ということで言われているんであって、主旨としてはぜんぜんはずれてない。
つまり哲学とは何かということを答えるときに、ソクラテスはどういうことを言ったとか、プラトンはどういうことを言ったとかなんて話してもぜんぜん意味がないのであって、むしろ、もちろんそういう話をしなくてはいけないわけだけれど、そのー、言ったということは一体どういうことなのかということを話していかないかぎり、話にならないわけですね。それはやはり、現代というものが、ずっと何千年も続いてきた思考の歴史に対してどんなところにいるのかみたいなことと無視しきれない関係にあるわけで、そのお話をしたいというふうに思っています。
したがって私は、教えるというよりは、自分がいま何に関心をもっていて、どういうことを哲学をやっている者として考えているのか、で、そういうことを考えているやつがここにいるということだけを中心に授業をやっていきたいと思うわけです。したがって、この、私とみなさんとの関係は、教師と学生の関係というよりは、みなさんも先週いろんなことを考えてもらって書いていただいた、その話と私の考えをなんとか交換させたいというふうに思っています。ところが問題がありまして、交換させたいと言いましてもですね、三百人以上、四百人近い学生さんがおられるわけで、一人一人のゼミのようにして、ひとつのテキストを丹念に読んでいったりすることはできないわけですね。もしよければ、私が一時間話したなかで、何かご意見とかご質問があれば、授業が終わった後で、いつまででもつきあいますので、何がご意見がれば来ていただければけっこうです。
私は学生時代に、哲学の教師に何度も裏切られまして、授業の後いつも質問にいくんてすが、立ち止まってくれませんね(笑)。研究室まで帰るまでですね、質問して答えてくれない。あるいは来週までに考えてきますと言って、一週間待っても何も言ってくれない。そういう先生ばかりに裏切られてきましたから、私だけはそういうことをやりたくない、そういうふうに思っています。だからもし何かあれば、全部に答えられるかどうか分りませんが、その場で答えられない場合は、あの一週間勉強させてもらって、必ずご報告したいと思いますので、よろしくお願いします。
だから、ちょっと話がずれてますが、教職の免許をとられているかたは ― 私も教職の免許をっておりますが ― 、先生になられるかたも、必ず授業のなかで教えるとはどういうことか、あるいは影響って一体何なのか、影響という概念はですね、今もドイツに生きていますが、ガダマーという思想家がおりまして、この人は、ハイデガーという実存主義の思想家の高弟、非常に身近にいる弟子ですが ― ハイデガーはもう十年以上前に死にましたが ― 、この人が影響ということを非常に真剣に考えている。影響ということを真剣に考えた人です。で、哲学的には影響という問題は、カントという思想家が、これもドイツの思想家ですが、カントは触発という ― これは別に書いてもらわなくて結構ですが ― 概念、アフェクツィオンというのですが ― 、アフェクツィオンという概念を、哲学のなかで初めてとりだしたのはカントなんですね。
つまりある一人の人間が、一人の人間と出会って触発する。もちろんカント自身は、そこまで問題を広げて考えてなくて、感性と悟性との関係、あるいはそういった人間の認識と物そのものとの関係 ― 話がちょっと急に専門的な話になますが、ごく簡単に考えているわけですが、まあそれはおいておいて ― 、少なくともあるものとあるものが触れあうときに生じる出来事といいますか、そういったものを触発という概念でとらえたわけです。これはたいへん難しい問題で、ガダマーはそのことを意識してですね、影響ということを言うんですね。つまり歴史というのは、現在と過去が何らかのしかたで影響しあう出来事だというふうに考えています。つまり影響というのはたいへん難しいんですね。
われわれは通常、ある人間がある人間に影響を与えたと言いますが、分っているようで分っていない話ですね。つまり、A という人間が B という人間に影響を与えた。そうしたらこの人〔B〕はやっぱりA なんですね。つまりこの B という人は、A の 範囲内で ― いってみればまあこれは小文字のa で、小文字の b だとしますと ― 、大文字のA というものがやはりそこに存在しているわけで、すると影響を与えたということのなかには、A と B が同じたという問題と、でも依然としてこれは違うからこそ、この人〔B〕は、この人〔A〕から影響を受けたということが言えるわけですね。そうするとこれは、差異がそこに存在する。そうすると、その同じ、つまり A という人が B という人に影響を受けた。そうするとそれは同じでありながら、なおかつ違う人格において同じということが起こっているという問題がでてきます。で、これは、哲学のなかではですね、カントという人間がですね、いちばん最初に、触発っていう概念のなかで考えはじめたことですね。
それをもっと一般化させていけば、影響って言葉になっていくわけでが、哲学の場面ではですね、影響という問題はいまだに解決してないわけです。つまりある人間がある人間から影響をうけて偉大な人間になったとかですね、ある人間がある人間から影響をうけてだめな人間になってしまった。それはどちらでもいいわけですが、それは、あることが同じであるとはどういうことか、あるいはあることが違うということはどういうことかという話をですね、前もって解決しないかぎり、決して問題にならないんですね。問題にならない、わけで、これは教育という場面で問題にした場合、もっと深刻な問題になってきます。もっと深刻な問題になってくる。
つまりある教師がですね、ある学生を教えていて、その学生が自分の影響を受ける、そして自分と同じような考えかたをしていくっていうのは、一応、影響なわけですね。そしてもし、その教師が偉大な教師だ、偉大な影響を与えた人間だという話になっていった場合ですね、その教育者っていうふうになった場合は、教育者というのは非常に悲しいものでですね、その、自分が教えようとしていることを学生がそのまま理解して、なるほど先生そうですねって言ってもらっていたら、喜べるかというと、喜べないということがあるわけですね。つまり自分を蹴落としてですね、自分より立派な仕事をしていってもらいたいという気持ちが、一方でまたあるわけです。それはまさにここの問題なわけです。
つまり学生というのは自分と同じことを考えていてほしいという局面と、やっぱり自分を蹴落として、自分より違う人間になっていってほしいという気持ちが、真理のうえでは同在しているわけです。そうしたら、そのもし、自分がですね、自分以上のものを与える影響力というのは、どこに根拠があるのかという話を考えていったときに、それは少なくとも、真理的にはありえないわけです。ありえない。つまり同じでありながら、かつ違う学生を育てあげなければいけないという場面に、教育者が面するとき、これは解決できないわけですね。みんなそれは偶然に任せちゃってるわけです。あるいはある場面では、おまえよく頑張ったなあと言ってほめておいてですね、そしてそいつがある場面で自分を蹴落としていって、離れていったら、なんてやつだあいつは、恩知らずだみたいな話になっていって、それの繰返しをですね、学校の教師ってやっているわけですね。
これはたいへん難しい問題で、僕も他人ごとじゃないわけで、僕にも、あのー、その、哲学上の師匠というのはいるわけだし、影響を与えてもらった先生もいるわけですね。そしてその先生のもとにいろいろなことを書いていく。そうすると一応こちらは勉強しているわけですから、少しずつは先生に近付いていくし、ある局面ではですね、もうこの先生はいらないよ、と思う場面も出てくるわけですね。でも、もう先生はいりませんなんてことを書いてしまったらたいへんなことが起こりますから、そのあたりは、その、哲学上、同じと差異は何かみたいな話とはべつの段階でですね、教育するものと教育されるものとの関係で様々な葛藤が生じてきますね。それはあのー、みなさんの職場でですね、上司のかたと自分自身の立場を考えてみたときに、いろんな問題が生じてくる。それは、哲学の場面で考えると、やはりここの問題なわけです。
で、これはギリシア以来、ずっと問われてきている問題ですが、同じものであると同時に違いがあるもの、という場面なわけですね。で、これは難しいわけです。で、もちろんこの問題を、この授業でやっていくわけですが、ひとつ教えるということをとってもですね、たいへん難しい問題がそこに潜んでいるということですね。で、そういう意味で言うとですね、先生になられるかたがたいへん多いということは、影響の問題とか触発の問題っていうのがですね、必ず教育の現場で問題になってくる。切実な問題になってくる場面が、必ずあると思うんですね。どういうふうに処理すればいいかみたいなものも、少しそういうかたがおられるということを念頭に置きながらですね、授業をやっていきたいと思います。
で、あとですね、先週授業が終わった段階で問われたかたがいたんですが、テキストの資料候補についてですが、いちおう、あのー、講義要項ではですね、ヘーゲルの『哲学史序論』というのを買っておいてただきたい、というふうに書いていたんですが、もうひとつ『歴史哲学』というのはですね、私ちょっと不注意で、岩波文庫で出ていることは出ている、私も持っているわけですが、もう絶版になっているらしくてですね、古本屋さんに行かないとなということで、そんなテキストを使うわけにはいかないので、さしあたり岩波文庫のですね、この『哲学史序論』というものだけを買ってください。でこれは、あのー、この人数ですので、みなさんと一緒に読んでいくというわけにはいきません。ただしあのー、授業のところどころで参照したりするというかたちで使いたいと思いますので、よろしくお願いします。えー、まだ買われてないかたおられますか。あ、かなりいますね。
えーとこれはなんか、生協で取り寄せられるという話をきいたんですが、生協にまだ来てませんか。来てる? あ、来てるらしいんで、えーとこれは星は幾つ? 三つ星、おいくらでした、今ひとつ星いくらかな? 四百五十円らしいですので、買ってください。これは、あのー、ヘーゲルの講義録みたいなものです。理論的な著作というよりは、ドイツの、これはどこでやったのかな、大学の講義としてしゃべり言葉で、弟子がですね、講義を記録したものがここに載っているわけです。確か、買って読んだけれどもさっぱりわからないから、やっぱり哲学は難しい、と書かれていたかたがおられたと思うのですが、なんとかこれをですね、すらすら読めるようなところまでもっていきたいと思っております。
それで、えー、それで一応、先週のですね、百枚ぐらいをまとめてみた段階での話は、そういうことですね。あとまあ、個々のことでいろいろいろまあ例えば、哲学と心理学との区別がなかなかつかないと言われているかたもおられましたし、いろいろあるんですが、授業をやっていくなかでですね、答えていきたいと思います。まあ一応、これまでは前置きなんですが。
それで一応、哲学とは何かということを言って、先週私はなんか不用意に、答えはあるんだみたいなことを言ったみたいなんで、そういうふうに書いておられるかたがいたんですが、哲学とは何かというとですね、これはおそらく単純な答えだと思います。いろいろな問題があるにしてもですね、それはその、始まりとは何かということが ― ノートを持っておられるかたは、このあたりから書いてください(笑) ― 、始まりの開示性というふうに、さしあたり答えればいいんだというふうに思います。もちろんそういうふうに本に書いておられるかたもいますから。で、始まり、これはギリシアの哲学が始まった段階ですでに言われていたわけですね。
アナクシマンドロスというギリシアの思想家がいまして ― ギリシアのソクラテスの以前の思想家ですが ― 、この人が最初に始まりということばを使ったというふうに言われています。どこまで本当か知りませんが。というのは、その、前ソクラテス期の人間というのは、まだ紀元前五百年ぐらいのところの人間達なわけですが、直接に書いた人っていうのはいませんから、伝聞とか歴史家の叙述に従うしかないわけですね。だからあのー、このあたりの話は、一種の物語だと思ってもらって聞いてもらったほうがいいわけですが、その物語のなかでもアナクシマンドロスという人間が、始まりという言葉を使った。つまり哲学というのは、始まりを探究する、つまり始まりとは何かということを問い尋ねる学問だというふうに言ったといわれています。で、その言葉だけでもせめて、ギリシア語の原語で覚えておいてください。アルケー(arche)、ギリシア語でアルケーといいます。アルケーを問うということです。
アルケーを問うことの意味は何なのかということですが、このアルケーはですね、次にラテン語の中世の世界になるとプリンキピウム(principium)という言葉に変わっていきます。プリンキピウムで、英語でプリンシプル(principle)なんですね。この関係を見てもらうと、ここ、原理ということですね。通常、原理あるいは規則というふうになっていきます。(板書が)ちょっと見にくいかな。
始まりというのはですね、中世になるとこれは原理、 あるいは規則、でこれが英語でそのまま同じ意味になって使われてきます。で、すでに中世にですね、たいへんな変容が起こっている。つまり始まりという概念と、原理とか規則というふうな概念とはですね、これは少し違う。ここですでに、ギリシア的な精神というのはですね、失われてしまって、それで近代になっていくわけですが、ここでもう変質が起こっているわけですね。変質、まあ、いい意味でも悪い意味でも変質が起こっているわけです。
ま、それは置いておきますが、一応こういう形でですね、哲学というものの規定が生じてきているわけです。で、いまここの歴史的な変質の問題は置いておきます。もともとギリシア的な精神としての、つまりソクラテス以前の段階で出て来た ― ソクラテスにおいて、あるいはプラトンにおいてもですね ― 、このアルケーという概念はすでに変質しています。つまり、前ソクラテス期のですね、人間達が、哲学というのは始まりの学だと、学とまではいかないにしても、始まりを探究するものだというふうに言ったときに、その始まりって一体何なのか、つまりそこにこめる意味は何だったのかという問題がですね、すでにソクラテス・プラトンのところで、ここ〔中世〕から大きな変動が起こるのと同じようにして、変質してきているわけです。
で、始まりっていうことの意味は何なのかといいますと、たとえばみなさんは、哲学っていうのは、いろんなことを書いてもらっているわけですが、たとえば人生観の問題なんだ、どうやって生ていくかっていう問題、どうやってよりよく生きるかという問題なんだとかあるいは、その、世界とは何かとか自己とは何かとか社会とは何かということを根本的に問い尋ねる学なんだとか、いろんな言い方されてます。
こういった問題を考えていくと、必ず、始まりの問題になっていきます。たとえば、非常に分りやすい例で言いますが、物理学でですね、素粒子の世界ってありますね。で素粒子の世界っていうのは、その何て言うんですか、僕は理系の人間じゃないから分りませんが、遠心分離器みたいなでかいやつでですね、物質を ― 非常に簡単に(粗雑に)言いますよ ― 、物質をぶち当ててですね、どれだけ力強い力で、物をぶち当てるかという問題なわけですね、極端に言うとですよ。そうすると、力強い力でぶち当てればですね、力強いほどですね、物質っていうのは細かくなっていきますね。細かくなっていく。まあこれくらいの物というのはかなり大きいわけですが、素粒子的に言うとですね、もっと考えられないくらいの力で、さらにこの小さなたとえばチョーク片をですね、ぶち当てます。そうするとこのチョーク片、もっと細かくなっていきます。でその極限までやっていくとですね、物質の元のアルケー、始まりって何なのかという問題になっていきます。
でこれはただ単にですね、微分化して細かくするということが問題じゃないんです。つまり細分化していって、物質の極限の要素 ― 要素って言い方おかしいですが ― 物質の究極っていうことを考えます。そうすると物質の究極っていうのはですね、いかにも小さいことを問題にしているようですが、物を細かくしていくとですね、何と言いますかね、たとえばわれわれを、いま二メートルとか一・五メートルという視野で見ていると、それぞれの人間は顔も違うし、形も違うわけですね。で、これを生物学的な言いかたで言ったらいいと思うんですが、心臓というところで見ちゃう、あるいは、心臓というところをもっと細かくしていって、何て言うんですかね、細胞というところまで見ていく。で細胞というところまで見ていくと、一・五メートルとか二メートルの身長の高さで見ている世界というのは、おそらくその世界で見えてくる違いというのは、なくなっていくだろう。つまり細胞まで見ていってしまえば、私とあなたという人間関係はですね、おそらく同一のものとして見えてくる。さっきの同一という問題を狙ってるんですが(笑)、同一のものに見えてくる、
そうすると、さらに細胞というところで見ている限りはまだですね、有機体と物質との区別っていうのは依然として存在しているわけですね。だから細胞っていうのをもっともっと極限までやっていくとですね、たとえばそこらへんにある石ころと成分の同じところまで、届くことができますね。そうすると、私がここに存在しているということと、石ころが存在していることとは、手をつなぐことができるわけです。つまり、細胞というレベルをさらに超えていってですね、有機体というレベルを超えてしまう。つまり、無機物と有機物が同一になるようなところまで細分化しいく。
で、素粒子という世界はですね、もっと細かいところまでいっているわけですね。そうするとこれ、細分化していくってどういうことかというと、われわれの眼とか触角とか味覚とかというレベルで考えている違い、差異の問題はですね、細分化していけば細分化していくほど同一の方向へ転換していきます。そうすると、物質を究極のところで細分化していくということはどういうことかというと、これは、宇宙の果て、宇宙の果てまでですね、おそらくたどることができるだろう。つまり、これはおそらく、この〔物理学に携わる〕世界のかたがおられれば、当り前のことを言っていると思われると思いますが、物質をとにかく、どんどんどんどん究極のところまでもっていく、どこまで細かくできるか分からないけれども、どんどんどんどん細かいところまでもっていけば、われわれ人間だって有機体ですから、死んでしまうし、土に戻っていくし、だからさらにその土は、いろんな物に細分化されたものを、要素にしてもっているわけですから、それをもっと細かくしていくと、地球の外のもの、あるいは、宇宙の極限のところというところまで、おそらくこの同一のもので出来ているだろう。
つまり細かくすればするほど、それは小さな世界を問題にしているようですが、その小さくするというのを、中途半端なところで収めずにですね、どんどん細かくしていくと、あのわれわれが今日誰々とけんかして来たとかですね、今日誰々と仲良くなったとか、そういうとこ ― それをくだらないと言っちゃまずいんでしょうが ― 、そういった場面というのを全くとっぱらっちゃって、みんな同じなんだよ、というところまで行ける。
でこれは、場合によっては、宇宙の果てにまで行くことができる、ということです。つまりあのー、究極の微分化というのはですね、無限の空間を内包することができる、っていうことが、おそらく物理学者がですね、素粒子の世界、あるいはそれよりもっと細かいとこみたいな話をやっているときに、想定していることですね。つまり、彼らはただ単に、玉葱を細かくするとかっていうような話をやっているのではなくて、おそらくそのー、極限にまで細分化していけば、突然反転してですね、宇宙の果て、というもの、宇宙の限界みたいなものが見えてくる場面があるんじゃないか、っていう話です。
で、哲学の原理が始まりだということの問題はですね、まさに物質の究極という意味の始まり、まさにアルケーですね、その、今の例 ― まあ、例だけで話をすのはまずいんですが、まあ今日は導入の話ですから例だけに止どめまずが ― 、つまりどんどんどんどん小さくしていって始まりは何かと問うことはですね、ただ単に何年に始まったっていう意味の始まりではなくて ― つまり、そこが歴史学的な始まりと違うんですが ― 、この始まりとしての究極っていうことを問題にするということは、同時にそれがどこで終わるか、どこで終わっているかという無限の全体、無限としての全体ですね ― 無限としての全体っていう言い方はまずいかもわかりませんが、まあ同じことですが ― 、無限としての全体ということをそこに内包しちゃうっていうことです。
つまりギリシアの起源に遡って、あるいは思想達が問い尋ねていた始まりを問うという思考はですね、実はその、ただ単に何年に始るという問題ではなくて、その始まりを押えてしまえば、首ねっこをつかんでしまえば、われわれが死のうと生きようと宇宙が爆発しようと無くなろうとですね、絶えずそこを参照しながら全ての存在が存在しているような始まりというのをつかむわけですから、もうこれで死んでもいいやみたいな始まり、つまりみんな分かっちゃった、もう分かった、つまり宇宙は何でできていて、それより宇宙は大でも小でもないんだみたいな、そういった始まりをつかむ、それが、まあ言ってみれば哲学のですね、野望なわけです。つまり、これをはずしてしまうと、石も人間も、もちろん有機体も、あらゆるものがですね、存在としては存在しないだよみたいなものを捕まえるということですね。それは、アルケーを問うという意味での哲学の、やろうとすることなんです。
これは明らかに、諸科学 ― たとえば物理学とか経済学とか生物学とか、何でもいいんですが ― 、そういった、たとえば生物学であれば、有機体としての存在というのは、もうそこで認めちゃうわけです。つまり前提に入っている。ここから先はもう知らないという前提を、必ず諸学は持っているわけです。社会科学でもそうです。社会科学というのはですね、社会というのがないと存在しない学問ですね。そうするとそれは、始まりじゃないわけです。始まりから何歩か先に進んだところから始まっている学問ですね。そうすると社会というのは何のことなんだみたいな話をやっていったとき、もちろん社会というのを社会学は定義はしますよ、定義はするけれども、定義しなきゃならないような社会というのは存在しているのかというふうに問い始めるとですね、そんな話は知らないという話しに必ずなるわけです。
それは、始まりから、いわゆる物理学が極限の要素と言いますか、極限の物質までたどるという意味で言うとですね、始まりから何歩か進んだ段階での始まりなんですね。これはだから、数学でいう公式とかですね、公理とかですね、あるいはその学がもっている前提ですね。たとえば生物学というのは、有機体が生命を持つという前提がなければですね、始まらない。生命とは何かという問題は、生命というものを前提したうえで問われていきますから、それは生命の定義になっていきます。
で、こういうもの、こういう「定義」で話をしていくこと、あるいは「定義」という仕方で獲得された「真理」、つまり無数の真理を哲学は全く信じませんね。なぜかっていうと、世の中に生物学とか経済学とか物理学というのが“在る”というのはどういうことなんだろう、あるいは、諸学というのが、ばらばらに、てんでばらばらに存在するってどういうことなんだろうということ、そのこと自体を問うていくわけですから、この始まりをここのレベルから始めるんじゃなくて、それを全部一まとめにして、つまり、ある場面で見ると物理学と経済学は別だと、で、これをどこまで下ろしていけば物理学と経済学は同じだというところが見えてくるだろうという問いをやっていくわけです。
で、それは、ちょうど先ほども言いましたように、有機体でも、細胞というレベルで有機体は存在しているわけですが、それは、細胞を構成している、まあ物質的なものといっておきましょうか、物質的なものまで、どんどんどんどん降りていくと、ある場面でさっきも言いましたように、有機物と無機物の区別はなくなっていきますね。そういった、ある場面で別々になっているものと思われてるものが、実は同じ基盤を持っているんだ、みたいなところを、どんどんどんどん問題にしていく。でだから、そうしない限りはですね、たとえば経済学というのがなくても人間生きられるじゃないかとか、あるいは、生物学というのがなくったって生物は存在しているじゃないか、みたいなことが絶対でてきますね。絶対でてくる。
哲学が問う意味でのアルケーというのは、それがなければどんな存在者も存在しないようなアルケーというのが問題なわけです。でそれをまさに、まさに新鮮な言葉なんですが、始まりというふうに、ギリシアのですね、前ソクラテス期の思想家が名付けたわけですね。でこのとき、その、つまり哲学はアルケーを問うんだというふうにアナクシマンドロスが言ったとされているわけですが、そのときの始まりというのは、まさに、先なるもの、それよりも先は絶対ないような先なるもの ― これはア・プリオリということですね ― 先なるものとしての始まりが、哲学にとって最も重要な問題だということですね。
えー、まあ、経済学とか物理学をされているかたは怒られているかもわかりませんが(笑)、えー哲学がですね、もし自分のプライオリティを ― というか優先性ですね ― 持っているとすれば、どんな始まりも、それが実は、本当の始まりから二、三歩進んだところで始まっているということを指摘することが重要なわけですね。つまり、人々が、これこそ人間の前提(先なる第一歩)だろうと思っているようなものも、実はそれは、少し遅れていてですね、二、三歩われわれがつかんでいる始まりのほうが先なんだ ― まあ、そういう相対的な言い方をしたらおかしいですが(笑) ― 、絶対的に先なるもの、というものをわれわれは問題にしているんだ、という意味での先なるものとしての始まりが、哲学という、何というんですかね、学問というわけじゃないんですが、哲学というものが、もっている使命というふうに言いましょうか、そういったものなんだ、というふうに思います。
で、もし“定義”をするとするならですね、まあ、通常定義といわれているものを信じる必要はまったくないんですが、アルケーを問う、アルケーを探究するというのが、哲学の最も基本的な意識だ、ということですね。そういうふうに考えればいいと思うわけです。いい意味でも、悪い意味でも。で、この問題を巡ってですね、二千五百年間、およそ二千五百年ほどですね、われわれの先輩は考え続けてきている、ということです。これは、そう単純な問題ではない問題が、たいへん含まれているわけです。つまり、ただ単に物理学のようにでね、ぶつけて小さくなって、小さくなればなるほど、いろんな違いが同じに見えてくる、というようなやりかたをすればですね、そういった世界の始まりと終わりが見えてくるかというと、そうではないわけですね。そうではない。そうじゃないからこそ、たいへん諸々の意見が哲学史のなかで出てきているわけだし、諸々の困難がこの絶対的に先なるものを問う思考のなかでですね、出てくるというふうに考えてもらえばいいと思います。
これは、そうするとですね、一体何の役に立つのかという問題が出てきます。それは、もうかなり先週みなさんが書いてもらったなかでも出てきているわけですが、ひとつ例を出したいと思います。急に具体的な話をします。具体的というか、歴史的に具体的な話をします。戦後ですね、ちょっとここ、ちょうどここの段階で、これ〔絶対的に先なるものを問うことが一体何の役に立つのかという問題〕は言いっぱなしの状態にしておきます。でこれはあのー、ギリシアの思想家を取上げたときとかにも話をさせていただきますし、このことを中心に私は話していくつもりですから、決して逃げるつもりでも何でもないんで、少し話を置いといてください。
で、今日後半はですね、戦後の日本の思想というのが、どういう仕方で動いてきたかということを少しお話したいと思います。でちょうどいい材料がありまして、一九四八年二月にですね、雑誌、岩波の『世界』という教養雑誌がありますが、そのなかで「唯物論と主体性」という座談会があったわけですね。で当時ですね、出席者は、錚々たるメンバーが出席しておりまして、まず東大の丸山真男です。この人は今も現役で活動してて、五、六年まえは『戦中と戦後のあいだ』という本が、あれはみすずでしたっけ、出まして、ベストセラーになっていますね。この人は一応、政治思想の専門家なんですが、政治思想専門の論考を書いた事は一度もないわけですね。でも、たいへん影響力の強い思想家になってます。この人は当時、三十四歳でした。
で、次は、これは、この人は死んだのかな、清水幾太郎という人がいます。娘さんは、確か学習院か何かでスピノザを研究していますが、この人も戦後のリベラル左派といいますか、六十年安保のときに指導的な役割を果たした知識人ですね。このひとは当時は ― 今あげる人は、だいたいですね、ひとつくらいは論文を読んでおいて決して後悔しない人たちです ― 、この人は当時、四十一歳ですね。もう活動がいちばん(・・・)。あと、松村一人という、当時、四十三歳ですね。えー、この人は、もう生粋の、ばりばりのマルクス主義者で、毛沢東、特に中国共産党系の左派の論客ですね。この人も、左派の人にはたいへんなじみ深い人のひとりです。ヘーゲル論理学の注釈なんかを書いています。
あとは真下信一。真下信一は当時四十二歳。えーこれは、日本共産党系の哲学者で、当時からわりと、実存哲学に関心を持っている共産党の思想家のなかでもわりと良心的に実存哲学を解釈する思想家のひとりですね。この方もまさに有名なかたです。出身は私と同じ京都なんですが。えー次は、林健太郎。林健太郎はご存じのように参議院議員か何かになっちゃってますが、当時三十五歳ですね。この人は東大の総長もされて、当時、東大の西洋史学の代表的な先生のひとりですね。林健太郎さん、今は自民党で参議院議員されていますね。
あと宮城音弥さん、宮城音弥というのは、この人もわりと哲学には造詣深いんですが、当時は社会学と、フロイト、フロイトの研究家、心理学の研究家として有名なかたで、その社会的な革命運動みたいなものをですね、フロイトの分析装置を使って議論していこうという立場をとられています。このかたも日本のですね、精神医学あるいは心理学の草分け的な存在です。あと最後は、古在由重といいまして、これはもう代表的な日本共産党の哲学者ですね。日本共産党の、いわゆるまあ公認マルクス主義を代表的する思想家ですね。日本共産党には、共産党の思想を代表する哲学者というのは何人もいますが、 ― 古在由重さんはもう死なれたのか、ちょっとその辺りは分りませんが ― 、最近私マルクス主義と疎遠な関係になってまして(笑)、その辺りの人たちの動向は、ちょっと丸山真男くらいしか分りませんが、その総元締みたいな存在ですね、古在由重さんは。したがって、古在さんが言うことはですね、だいたい日本共産党の哲学思想がですね、どの辺りのレベルにあるかということのある種の基準になるわけですが。
えー、こうやって名前をあげたのはなぜかといいますと、この人たちというのはですね、丸山真男とか林健太郎はこの当時三十四、五ですが、戦後三年たった段階で、だいたい七十年代前半ぐらいまでの思想をですね、決定的に影響づけた、まあ七十年までですね、七十年までの戦後思想を代表する日本の思想家なんです。誰一人ですね、ローカルな思想家になった人はいないわけで、えー、みんなそれぞれ、清水幾太郎なんていうのは、かなりいろんな連中に影響を与えてきた、左派の論客で、途中でこの人は転向してしまって、保守イデオローグになりますが、まあそういう意味では東大の西部邁っていう、歴史学者っていうか社会学者がいまして、最近は「朝まで生テレビ」とかに出ていますが、最近東大辞めましたね。東京外大の中沢新一という、私はどう考えても大したことはないと思うんですが、中沢新一という若い研究者を東大の教員スタッフにしようとして問題を起こした人なんですが。元は学生運動やっていてですね、左派の代表的な論客だったんですけれども、途中で保守イデオローグに転向していきますね。で、そういったことを、日本でいちはやく、根底的なところでやっちゃったのが、この人〔清水幾太郎〕ですね。清水幾太郎さんは、そういう意味では、西部さんなんかの先どり的な動き、つまり市民社会の思想的な習熟ということですが、そういうことを、すでにこの人はやっていたわけです。
で、この連中というのは、ちょうど僕の世代と、僕がものを考え始めるちょうど中間、僕はだいたい、昔はこういう人たちにわりとなじんでいた世代なわけですが、ちょうどこう変わっていくところですね。だから、ここの世代で、二十歳代の人が一番やっぱり多いわけですが、その人たちはたぶん、みんな知らないと思うんですね、この思想家たちを。で、知らないと思うんですが、しかしあのー、決定的な影響を与えたという点ではですね、この人たちを無視して語れない。
この「唯物論と主体性」という座談会、これ座談会なわけですが、座談会で一体何が話し合われたかといいますと、それはこの、アルケーを問うということは何の役にたつかという話と、私は結びつけたいわけですが、ここで問われているのはですね、要するに革命的な主体の形成の問題なんです。つまり、世の中というのが存在している ― 変な言い方ですが。でその存在している世の中を変えたい。そうするとその今ある世の中とか社会を変える、あるいは自分自身でもいいんですが、自分自身を変えてしまう、ということは、どうやって可能なのだろうという問いがですね、まあこの革命って何も、社会主義革命というふうに考えないでもらいたいわけです、まあ考えてもらっても結構なんですが、今、世の中を変える、あるいはこの嫌で嫌でしょうがない自分を変える、そういった変えるということは、一体何を根拠にして行いうるものかという問題があるわけです。
で丸山真男というのはこの座談会で、まあ読んでもらえば分りますが、この座談会ではですね、絶えず中心になって、このマルクス主義者の松村一人とか、あるいは真下信一、古在由重らに食ってかかっていくわけですね。つまり、階級的意識というのが、社会がどんどんどんどん労働者階級が貧困化していって、革命が成就する、革命が間近になっていく。そうするとその革命を起こそうとする階級意識というのは、これは丸山が言うんですが、これはもともと在る意識なのか、それとも在るべき意識なのかというふうに、彼は問いを発するわけです。つまり、階級意識というのは、人々がどんどんどんどん貧乏になっていく、そして貧乏になっていくと、貧乏に耐えられなくなって、自然発生するのか、つまり貧乏で在るということが、自然発生的に革命を起こす主体を形成するのか、それとも貧乏というのは、ただ単に貧乏でしかないんであって、貧乏で在るということから、直接自然発生のようにして革命的な主体が生れるというのは、別の問題なのか。
そこにはやはり、まあ当時の言葉で言うと、前衛党というのが存在して、無知蒙昧な大衆を指導すべき階級、いや、組織というのが存在しているんですね。この組織が、その貧乏な人たちを指導して、革命的な主体を形成しなければ、革命的な主体はですね、自然発生のようにして存在しないんだ。つまり階級意識というのは、在る意識ではなくて、在るべき意識なんだ。この問題は対立するわけですね。対立するわけです。
で、このことを巡ってですね、この非常に、日本を当時代表した思想家たちがですね、非常に混乱する意見を、それぞれ勝手に吐いていきます。つまりこの問題はたいへん難しいんです。どういうことかと言うと、少しその議論を...。まず宮城音弥というのは、これは心理学としての、科学者としての立場からですね、発言していきます。少し読ませてもらいますと、「イデオロギーそのものを我々は客観的に科学的に処理することができる。革命を成就していくようなイデオロギー自身 ― これを主体性という言葉で呼んでおけば、その主体性そのものを我々はやはり客観的に分析し、科学的に処理していかなければならない。つまり主体的なものはある。しかし、どうしても客観的に処理できない主体性というものはない」、というふうに、宮城音弥は科学者としての立場から発言します。
つまり、宮城音弥はですね、階級意識というのは「在る」意識なんだ。つまりこれは分析できる。つまり、たとえばロシア革命ならロシア革命というのを例にとって、その当時の、貧民層と下層労働者が立ち上がっていく経過というものを、科学的に分析できるんだ。そしたら同じような状況が与えられれば、必ず労働者階級はですね、同じような行動に出る。つまりそういう意味で、階級意識というのはもともと「在る」意識であって、それは「在る」から科学的に分析するということは十分に可能なんだというのが宮城音弥の立場です。これは科学者の立場ですね。
同じようなことは宮城音弥は他でもいくらでも言っています。「科学が世界観を生むかどうかは分らない」。つまり、宮城音弥は、科学というのは世界観を生みようがないというふうに考えています。「実践の方法として科学があると言えるのですから、世界観もどうしても科学に規定されてこなければならない」。さらに、「科学の方法と言うのは道具のようなものです。道具は使い誤るということもありましょう。だが使い方の如何にかかわらず、道具はやはり道具です」というふうに言っています。つまり宮城音弥はですね、科学っていうものをいくら科学的にある事柄を分析してもですね、同時にそれが主体の形成っていうふうに繋がるかどうかは、科学っていうのは判断できないというふうに考えるわけですね。そう考える。むろん、宮城は、主体という概念を放棄しているのではなくて、逆に言うと、宮城は、科学的対象にならないような主体は考えるべきではないと考えているわけです。
これはもっと簡単に言うと、革命の問題でもなんでもなくて、たとえば煙草を吸う人がいる。煙草を吸うってことが科学的に大変悪いことだ。で科学者が分析していって、煙草を吸うということは体にどんなに悪いことかということを、とんどんどんどん科学的なデータを累積していって、煙草が悪い、こんなふうに悪いんだということを、もうスライドを見せていろんなことをやって、ゲロが出るほどいろんな嫌がらせをやって、科学的データをその煙草を吸っている奴の眼の前で見せつける。そしたら、それはイコール煙草を吸わない主体を形成することになるのかという問題です。いいですか。世の中にはですね、たとえば煙草を吸うということが大変悪いということを知っていても煙草を吸い続ける人はいるわけですね。いるわけです。
でそれを、そういうことを解釈するときに、二つのやりかたがあります。ひとつは、こういうことです。それは科学主義の立場の人ですが、その人は本当に煙草が体に悪いということを、まあ、本当のところは知らないんだ。つまり、不徹底にしか知らないから、煙草を止めようとしないんだ、という言い方です。結局のところともかく知らないんだということですね。ところがこちらのほうに立つ人は、極限までそういった煙草を吸ってはいけないという知識を自分のなかに詰め込んでもらっても、そのことと、煙草を止めるということとは、全く別の問題だ。つまりどうしても、まあ言ってみれば、科学的に処理できない自分というものが存在する。まあ、変な言い方をすると、非合理なものが残る。非合理な自分。つまり自分っていうのは、自分が自分を考えるということは、科学的な成分だけ自分というのがここに、自分というのがあるんじゃなくて、それはどんなに科学的なデータを重ねていっても、そこに解消できない自分というものが残るんだ、という問題がもう一方の問題ですね。もう一方の問題です。
でこれは『唯物論と主体性』とはたいへん物騒な題がついていますが、ここで、えーどこですかね、何ページくらいの論文だったか忘れましたが、まあとにかく議論されていることはですね、この科学っていう問題と、主体っていう問題が、どう絡み合っているのか。つまり一方で科学的な分析っていうのが必要だ。そのなかで科学的社会主義、つまりマルクス・エンゲルスが創始した科学的社会主義っていうのが存在していて、それはあくまでも科学、科学的なものをなかに内包した革命理論なわけですね。ところがそれじゃ、科学、それは科学に過ぎないのかというと、一方で階級的な主体が形成されていくと、そしてある資本主義の内的な必然性によって、必ず階級的な主体というのが形成されていって、社会主義革命が起こる、という問題が一方である。そうするとそれは単に科学の分析の問題ではなくて、主体の形成という問題にマルクス主義は関わっているわけですね。
そうすると、マルクス主義が答えなくてはいけないのは、そういうふうに、まあたとえば煙草の例で出しますと、煙草を吸うのは体に悪いというひとつの科学的なデータと、そのデータを眼の前に見せつけられて、その見せつけられた人間が、その吸おうとしている煙草をやめるかやめないかという、非常に微妙な問題 ― それは「主体の問題」ということなんですが ― 、その問題なわけです。それは革命理論を例に出すと、いま資本家階級はこんな悪いことをやっている。で、こんなふうにして労働者を搾取している。この労働者を搾取しているこんな悪い資本家を前にして、君は立ち上がらないのか、というふうにしてわれわれは学生のとき何度も言われたわけですが、それは立ち上がれない。で、立ち上がりたいけれど立ち上がれない自分がいるみたいなところで、主体の問題というのは出てきたわけです。
だからこれはもっと下世話に言うと、理屈というものと実践というものになってきます。あいつは理屈ばっかり言って何にもやれない男だ。あるいは哲学っていうのは理屈の学だというふうに書かれたかたがいましたが(笑)、理屈と行動と言いましょうか、あいつは言葉はいっぱいいろんなことを言うけれども、何にもやらない奴だ。何にもやんない奴だ。で、これは、実はここの問題なわけです。つまり、或る、或る理屈がある、でそれはそのとおりだ。そのとおりだけれども、何にもできない、っていうふうなところに、われわれはいくらでもぶち当たるわけですね。ぶち当たる。で、そういった問題をですね、当時の優秀な理論家たちが集まってすったもんだやっているわけですね。だから、宮城音弥っていうのは、科学っていうのをいくらひねくりまわしても、主体っていうのはまた別の問題なんだ。つまり科学は単に道具に過ぎないんであって、その道具をどう利用するかなんてことは、科学をひねくりまわしても出てこないんだ、という立場を宮城音弥はとるわけです。
そうすると真下信一 ― これはマルクス主義者ですね ― 、真下信一はですね、次のように言います。「宮城さんは、唯物史観はマルクスの方法論だと言う。マルクス主義は科学だと言われる。つまり、世界観ではない。宮城さんと僕との違いはそこなんだ。弁証法的唯物論は、すぐれた方法論でもある。しかし、本来、一つの世界観だと僕は思う。そうでないと実践という問題が出てこない。せいぜい、行為、技術、産業、それで事がすむ。そういうこと一切は、何のために、どういう目的でできたか。それの意味は何か。この問題に答えるのがマルキシズムだと思います」というふうに言っています。つまり、この科学っていうのは確かに、原子爆弾というものを作る。で、原子爆弾を作るということ自体は、善でも悪でもない。つまりそれをどういう目的で使うかということが重要だ。そうすると、われわれがやるべきことは ― われわれって真下なんですよ ― われわれがやるべきことは、ただ単に原子爆弾をどういうふうに作るかということをやるんじゃなくて、それは作った原子爆弾をどう利用するか、何のためにそれを存在させるかということまで絡めて考えなければ、思想の問題は出てこない。で、それを真下信一は世界観という言い方をしたんですね、いまね。
つまり、世界観というのは難しい言葉ですが、これはまあ生き様と思ってもらっていいんです。つまり、どう生きるかという生き様を含めて、科学の問題を考えないと、宮城さんのように ― 宮城さんのようにというのは真下信一のセリフですよ(笑) ― 宮城さんのように科学なんていくらやったって、その、原子爆弾そのものを善でも悪でもないものとして創出することができる。で、それは主体の問題としては絶対に生じない、というふうに言うわけですね。で、真下は、真下信一はそうではなくて、やはりわれわれが考えるべきことなのは、そういった科学的にできあがったものを、何の目的で存在させるか、どういうふうに利用すべきかということまで含めて考えなければ、思想の問題に答えられない、というふうに真下は考えるわけですね。真下は考える。
で、これはなかなか解決しない問題、たいへんむつかしい問題で、もうちょっと話をしますとですね、古在由重はそのとき何と言うかといいますと、「科学的社会主義の特質は、人間の全面的解放の決定的条件が物質的条件だという点にある。解放の決定的条件も物質的なものだと認めるところに科学的社会主義の特徴がある」というふうに言います。で、これは公認マルクス主義の基本的な見解ですね。で、これは何を古在由重は言っているのかというと、やはり、マルクス主義が科学的だと言われるゆえんはね、この主体というものの形成こそを科学的に考える、というふうに考えます。主体の形成という場面こそを、科学として考える。つまり、これは宮城音弥の科学主義とはちょっと違っているわけですね。
つまり宮城音弥は、主体と科学なんてもともと別のものだ。つまり科学というのをいくらいじったって、煙草を吸うのが体に悪いということがいくら真理であったって、そのことを教えるということと、教えてもらった人が煙草を吸うのをやめるということは全然別の問題だというふうに宮城は言います。ところが公認マルクス主義の立場ではですね、そうではなくて、煙草をやめさせるところまでを、科学の問題として考えるわけです。つまり、どうして煙草をやめさせるかということは、科学的に、あるいはいまの古在の言い方でいうと物質的なもの ― 物質的なものということは科学ということです、科学の対象、自然の対象ということです ― 自然の感覚の対象物のようにしてですね、その、主体の形成というところまで科学で考えなきゃいけないんだ、というふうに考えるのが、古在の、あるいは当時の、いまでもそうですが、マルクス主義の主体性論ですね。主体性論なわけです。
で、逆に科学と切離して主体というものを考えるということは、ある意味で神秘的なものとして主体を考えていくことになりますから、つまり科学的な分析の対象にのぼらないものを主体として考えていくわけですから、それはまずいと。つまり、ここ、ここともし完全に切れてしまったら、つまりマルクス主義は何を心配しているかというと、社会を分析するということと、その社会を分析して、この社会を変えなきゃいけないんだという気持ちになって、前衛党に集結していく人々の動きというものを、同時に科学の分析の対象にならなければ、社会が悪いといったからといって、その社会が、変革されるということには何もつながらない。必要条件にはなるにしたって、必要十分条件として主体というのがそこから必ず出てくるというわけではない、というのがマルクス主義の立場なわけですね。
これに対して、丸山真男さんは批判するわけです。たとえばですね、彼はこういうふうに言ってます。現にある人間というのが革命的な態度を持つという場合ですね、必ずある階級が貧乏になれば、その貧乏な階級はですね、金持ちの階級の連中に戦いを挑むはずだというのは、松村一人もそういうふうに言っているわけですけど、丸山真男はオプティミズムだと言っています。「そういうオプティミズムに立てれば話は別です。不満そのものから自然発生的に、松村さんのいうように動いていくかどうか。ナチスも大衆の不満を足場にして権力をとったのです。不満をいだいている大衆があるからとっいって、そう楽天的に考えられないのです」というふうに、当時丸山は言っています。
で、これはたいへん重要な問題なんですね。で、これは民主主義の問題にもなってきます。ちょっと時間がないので、来週の話のつながりとして言っておきますが、民主主義ってわれわれはあたりまえのようにして享受していますが、これはたいへん問題の多いシステムですね。で、丸山はそのときすでにそう指摘しているわけですが、これはほとんど気づかれないと思うんですね。どういうことかといいますと、「アメリカ的な考えでは、現に人民が経験的に表明している意思が人民の意思だと解する。国会議員の選挙なら、選挙に表れた現実の結果が人民の意思だとされます。ところがこれは正確に人民の意思を表していないと批評する立場があります。これは、あらゆる逆条件が排除せられた場合に人民が到達するであろうようなそういう意思を想定しているものです」。
これはどういうことかというと、たとえばいま、日本の野党は、リクルート問題とかで騒いでいますが、仮にこの情報化社会でですね、各家にイエス・ノーの反対を表明するスイッチがあるとします。でそれが国会のデジタル表示か何かの表示板か何かに出てきてですね、まあルソーが考えているような直接民主主義というのは、いまのメディア、メディア化された社会であれば、完全に実現されうるわけですね。何も、後楽園のようなところに集まってですね、みんなが手をあげて誰か数えるということをしなくても、電話回線か何か使ってですね、あるいはもっといろんな衛星放送がいま打ちあがっているわけですから、いろんなしかたで、一億の人間の直接意思を問うことはできるわけ。そうするとこの直接意思を問うていった場合にですね、たとえば安保条約にあなたは賛成しますか、あるいは竹下内閣をあなたは支持しますか、あるいはその、自民党内閣をあなたは支持しますか、みたいな非常に微妙な問題をですね、どんどんどんどんそのつど国民全員に聞いてですね、二十歳以上なら二十歳以上の人全員に聞いて、その全部どんなしかたであれ、国会のどこかに表示されていくことになるとします。つまり、代議員制度をなくしてしまう。いわゆる直接民主主義ですね。
でやった場合に、それじゃ野党が、国民がいま反対しているとか、もう国民はすでに分っているんだみたいな言いかたでいつもアジをやるわけですが、現在の状態でですね、たとえば安保条約を賛成するか反対するかってやった場合にですね、それは新聞の世論調査でも分っているように、五十パーセント以下の人が賛成してない ― 賛成してないじゃない ― 反対だと、五十パーセント以上の人が反対かというと、そうじゃないですね。そうすると、その野党がいまの民主主義はよくないとかいっていた問題はですね、いろんな場面で崩れてくる可能性がある。つまり、単純にですね、国民の民意を問うということが、野党が考えているような民主主義を実現するということと、実は同じ問題じゃないんじゃないかという問題が、その民主主義の問題として絶対に含まれてくるわけですね。
で、これは、それじゃ民主主義という場合の国民て何なんだという問題になってきます。あるいは国民の民意っていうのは何なんだという問題になってきます。その時にですね、民意というのは、もともと直接民主主義というしかたで、「在る」民意なのか、それとも、ひとつの理想として、「在るべき」民意、つまり、いま現在は国民はそうは思ってないんだけれども、本当だったらそう思う「べき」だ、というそういう民意、そういった民意を、たとえば野党の議員たちは言っているのか。それとも、直接にあるというものとしての民意をいっているのか。これはたいへんな問題なんです。これを、野党の人たちは、ある場合にはこちらに依存している。つまり、たとえばリクルートのように、もう九十パーセント以上が反対している。つまり、経験的な意味で、まさに経験的、直接的な意味で、九十パーセント以上の人が反対しているときには、これは直接的に決めてみよう、というふうにやるわけです。で、そうではないけども、理念として、たとえば安保条約は解消すべきだとか、そういったように考えている場合は、国民に教育運動をしてですね、やっぱりみんな無知盲昧だ、みんな勉強してないんだ。だから、「在るべき」民意というのを想定して、そこにむかって世論を誘導していく、というふうなものとしての野党勢力というのはあるわけですね。
そうすると、ある問題については「ある」民意を問題にして、あるときには「在るべき」民意を問題にしているという仕方で民主主義という問題はですね、非常にややこしい、あいまいな問題です。つまり民主主義というのは、実はここで民が主だという問題はですね、やはりここでも、「在る」国民、「在る」民というのと、「在るべき」民という二つの状態が必ず分裂してしまうわけです。分裂してしまう。で、これはルソー以来の問題なんですが-ルソーが「一般意志」と「普遍意志」とを分けざるを得なかった問題なんですが、直接民主主義という問題を考えたときにはですね、この問題が必ず浮上してくるわけですね。これは、来週、再来週にお話ししますギリシアの直接民主制というのが滅びていく中心的な問題なわけですね。
このあるということと、その場合あるというのは単に「在る」という問題ではなくて、「在るべき」問題なんだ、という問題との関わりあいです。でそれはいま主体性論争で問題にしているその、科学、科学的なもの、つまりあるものをこれは「在る」ことですね、在るものを分析する科学の方法論ということと、在るべき、在るべきである、在るべきであるものを問題にする主体、一人の人間が、ただ単に知識を与えたからといってそのとおりにできない、どうしてもそこで躊躇してしまう自分がそこに存在している、というそういう問題、まあこれは現在の哲学では実存、実存の問題として浮かびあがってくるわけですが、そういう問題として、その対比として問題になっているということです。
んー、中途半端になってしまいましたが(笑)、えー来週、あ、ええとちょっとお聞きしたいんですが、来週ですね、休講にされる先生というのはおられますか。あのー、ゴールデンウィークでですね、来週の授業は中途半端な日になるんですが、この僕の授業時間の前の授業、休講だといまの段階でわかっておられるかた、お手をお挙げください。あ、少ないですね、それじゃ来週はやります。(「えー」という落胆の声)。ちゃんと休まないで来てください(笑)。(了)
●哲学講義 (2) 1989.5.1
さて、先週の続きからです。
(…)究極を追うということが「無限の全体性」なんだ。つまり、あのときは物理学を援用させていただきまして、物理学がやっていることというのは、物質というものの究極の問題についてだ ― これは哲学でもギリシアではですね、原子論というのが出てきます。
万物のアルケーにはアトムというものがある。つまり原子から世界は成立っているんだという考えかたです。もちろん、それとある場面では共通する場面なわけですが、しかし本質的には全然別なんですけども、哲学のなかでの原子論というのはまたお話ししていきます。
で、先週話してた物質の究極ということをつきつめていくんだと、これは実は、物をどんどんどんどん極限にまで微分化していくと、たとえば地球と月というような違いというものはなくなっていく。もともと地球と月というものが、地球と月というふうに分節されているのはなぜかというと、やっぱりこれが分節されるレベルでその物を見ているからですね。見ているからです。まあ、先週の話でいいますと、たとえば地上から高さ一・五メートルあるいは二メートルという範囲で物を見ていると、人間というのは違ったように見える。でもそれをもっともっと別な遠近法で見ていくと、私とあなたというのは全然違うにもかかわらず全く同じだというレベルが必ず出てくる。で、それはパースペクティブの問題であって、どのレベルで見ていくかということによって、物が、違って見えている物が、同じに見えてくる場面がある。
そうすると、どんな物も同じに見えるようなところまで微分化していこう、というのが素粒子をやっている連中の考えていることですね。そうするとそのぉ、究極のところまで行けば、おそらく、たとえば一・五とか二メートルというレベルの問題ではなくて、地球と月というレベルもですね、全く同じものに見えてくる。あるいは太陽系と、他の系との違いというものも、全く同じものに見えてくる。そうするとそれは、逆にいうと、宇宙の広さそのものが問題になるようなところまで来るんだというお話をしたんです。
そのときに私は、まぁ、自分でも注意しながら喋ったわけですが、つまり物質の究極というのを問いたずねるということは、思わず無限の全体性だというふうに言ってしまったんですが、無限の全体性って一体何だっていって言われた方がありまして、そのとおりですね。それは非常にいい質問であってですね、こんないい加減な言葉はありません(笑い)。
で、私が無限の全体性と言ったのは、つまり物理学がやっていることというのは結構まともなことをやっているというふうに思っているのはですね、どういうことかというと、通常われわれはですね、微分した世界が、微分されたひとつの原子っていいますか、哲学でいうと原子ですね、原子というものがある。そして、それをこうやって超えてどんどん大きくしていくと、核みたいなものがあって、そのまわりに宇宙というものがある。もちろんこの、こういうふうに線を引けるものかどうかは分りませんよ。つまり、宇宙がたとえば有限か無限かみたいな議論はしょっちゅうなされているわけです。だからそういった意味では、もう線を引けるようなものではないかも分らない。あるいは、もっといろんな(…)言い方があって、絶えず膨脹し続けている。
膨脹し続けているということを言うためには、でも、膨脹という概念がおかしいんであって、膨脹ということが起こる場所がまた必要になってきますね。つまり哲学で言えばですね、膨脹なんて言葉はぜんぜん満足しない言葉なわけです。つまりものが膨脹するためには、たとえば風船が膨脹するというふうに考えた場合ですね、風船が膨脹する空間がまた必要になってきますね。たとえばここで風船をふくらましていく。で、そういうふうに宇宙がもし、どんどんどんどん膨脹し続けているとした場合、その風船が膨脹していく空間というものをですね、それとして与えている空間というのがさらに必要になりますね。たとえば、ここで風船をふくらます場合はここの教室という空間であったりですね、あるいはもっと、もっと大きく広げる場合は市ヶ谷という場所であったりですね、つまり、その膨脹という概念にもさらにそれを支えているメタの空間というのが必要になってくるわけです。
で、まあだから、これさしあたり、便宜的にこう書いたとした場合ですね、あのぉ、素粒子論をやっている連中はこういった仕方で宇宙の全体ということを考えているわけじゃないわけですね。つまり全体という ― ここが大事なところですが ― 全体というのは、実は内部にあるんだ、ということです。
いいですか。まだ「全体」という言葉にこだわりますが、要するに、全体というのは、この原子の、まあなんて言うんですか、こう外側に広がるっていうんじゃなくて、全体は内部なんだ、ということです、つまり、仮に僕なら僕をどんどんどんどん微分化していきます。そうするとそれは、おそらく宇宙の起源であるような、究極の微分化された、まあ原子といっておきましょうか、原子というものに出会う。しかしそれは、出会うとか出会わないという問題ではなくて、私がここにこういった形状でもって存在しているということ自体がですね、その内部、究極の微分化された原子によって成り立っているということそのものなんですね。
つまり私はいちいちそのぉ、宇宙船に乗ってですね、宇宙の極限まで行かないとそれが見えないというんじゃなくて、おそらく宇宙の極限を、そこまで微分化していけば、私自身の体内、あるいは、まあ体内という言い方はおかしいですが、まあ体内に宿っている原子と、同じものでできているからこそ微分化してるわけですから、つまり、宇宙というのは別に、このチョークのなかにでも宿っているわけですね。つまり、このチョークというものそのものがですね、チョークそのものを構成している原子そのものが、宇宙なみの大きさを持っているということなわけですね。
つまりそのぉ、先週も少しは話したんですが、どんどんどんどん微分化していくということは同時に、それは極限が広がっていくということだ。この広がっていくということは、ただそのぉ、宇宙船でもってどんどんどんどん果てのほうまで走っていくということじゃなくて、それはすでにここにある。つまり全体というのは、ここにあるということが重要なんです。 ― ここにあるという言い方は…。このチョークのここにですね、これ自身を構成しているものが、その、素粒子、あるいはもっと小さいいろんな単位のもの ― いちおう哲学的にいって原子としておきましょう ― 、原子というものによってこれが成り立っているということは、で、その原子というのが原子である限りは、宇宙の果てのある物質そのものも構成しているものでもあるとすれば、実はこのチョークの、これは物理空間的に大変小さなものですが、これ自身が、これ自身に宇宙を内包しているんだということが、重要なことなんです。
で、だからそれは、いちいち行ってみなきゃ分らないんじゃないかという話じゃなくて、原子そのものが、実はその、広大な宇宙 ― まあ、広大なという言い方もおかしいですが ― 、ひとつの広がりを内包したものとして存在している、ということが重要だ。つまりわれわれは、宇宙の果てというのを、たとえば UFO を見たとか見てないとか訳のわからない話しをしてますが、そういう問題じゃなくて、そういう意味で言うんだったらわれわれ自身がひとりの UFO であってですね、それは、われわれ自身のなかに原子が存在しているからこそそれは原子なのですから、そうすると、そこに原子が存在しているということは、われわれの身体そのものがですね、無限の全体性というものそのものであるわけで、なにも宇宙船に乗っていってですね、宇宙のここら辺まで飛んでいこうとか、飛んでいかないと分らないということじゃなくて、その、あらゆる事物そのものが宇宙だ、それ自身宇宙なんだ、という議論につながらなきゃおかしいわけです。
事実、哲学で原子論をとなえたデモクリトスという哲学者がいますが ― まあまた触れますが ― 、デモクリトスは、宇宙というのは、複数存在している、という言い方をしてます。宇宙が複数存在しているとはどういうことかというと、こんなわっかがいっぱいあるというような言い方ではなくて、その、さっきもいったように、原子というものが物質の究極の根源だというふうにした場合ですね、私自身もそれをある意味で共有しているわけだし、チョーク片自体も、共有しているわけですね。その水準は様々であるにしても。そうすると、あのー、実は私自身が、無限の要素を持ったですね、宇宙そのものであって、それは、宇宙船で何万光年飛んでいったからやっと宇宙の縁が見えたというような話じゃないということです。だからその意味で、さしあたり、と私は言ったんですが、無限の全体性ということと、原子的な世界、つまり究極の、極小の世界というのは、イコールなんだ、という話しをさせていただいたんです。
ただあのー、まだこれはですね、さしあたりアルケーということはこういうことなんだという話をしただけであって、そういった問題が、どういうふうに哲学者たちが具体的に言っていったのかというのは、あるいは問いたずねていったのかということはまた別の問題ですので、さしあたり先週ですね、無限の全体性って何だっていうふうに言われたんですが、だから、無限の全体性っていうのはなにも限り、まあ無限って限り無いと書きますから、そういう誤解が出てもしょうがないんですが、どんどんどんどん限りなく突き進んで広いという意味じゃなくて、私自身が、現にここにあるもの自身が無限だ、という意味で理解してもらえばですね、それほどまあ無限の全体性という言い方もおかしくはないというふうにいえると思います。
で、これはもちろん、前期の授業のなかでアルケーって一体何なんだ、つまり始まりっていうのは何なんだという話はさせていただきますので、えー、いちおう始まりの話しはですね、そこで止どめておきたいと思うのですが、先週話が尻切れとんぼになりまして、私はまだ座談会の、『唯物論と主体性』という座談会の内容にこだわっているんですが、これはあのー、先週授業が終わった後、これどこに載っているんだという質問がありまして、書くの忘れたんですが、図書館に行けば『世界』っていう岩波の雑誌のバックナンバー揃っていると思います。一九〔四八年〕…、先週も書きましたが、ぜひ眼を通してみてください。変な本よりはよっぽど面白いです。
えー、で、僕自身は、この論文というか座談会を読んだのは、筑摩のですね、『近代日本思想体系』の三十四巻、筑摩ですね。筑摩書房のですね『近代日本思想体系』って四六版の本で、日高六郎という元東大の社会学の教授が編集した、『近代日本思想体系』三十四巻に出ています。
で、先週ちょっと尻切れとんぼになりましたが、この『唯物論と主体性』ということで問題になっているのは、もちろんマルクス主義の問題でもあるわけですが、そればかりではないんですね。で、ちょっとマルクス主義の話を非常に簡単にしますが、えー、有名な説明の仕方で、マルクス主義というのは、社会とか世界をですね、上部構造と下部構造に分けます。これは特に、マルクス主義というかエンゲルスが特に好きだった定式化ですが、で、下部構造はもちろん、その名のとおり下部構造であるわけで、基盤になるものです。で、これが社会なわけです。そうすると、それじゃあこの下部構造って何かというと、経済的な構造です。社会の経済的な基盤ということです。上部構造は何かというと、それは文化とか、あるいは、要するに人間が持っている観念が作る領域の全てなわけです。ものを思ったり、思想であったりですね、あるいは思想であったり、もちろん哲学も入るわけです。
で、こういった思想とか文化とか観念というのはですね、経済的な下部構造の、たとえばマニファクチュア時代とか、あるいは産業社会とか、あるいは後期資本主義社会とか、そういったものによって、経済的な体制を反映する ― ここの線を引いているのは何かというと、反映という概念になるわけです。有名な、まあ悪名高いといえば悪名高いわけですが ― 、反映という概念で、経済的な体制が、諸々の人の考えとか、人格とか、文化みたいなものをですね、経済構造の反映として成立する。したがって、ここ〔下部構造〕がひっくり返ってしまえば、ここ〔上部構造〕は同じように滅びていく、という考え方になっていきます。
戦後文学論争のなかでもですね、まあこのなかで文学科の人もおられるみたいですが、これで問題が起こったことがあります。えー、特にこの学校の、今おられませんかね、あ、死なれたのかな、ちょっと忘れましたが、えー生きておられたら失礼ですが、小田切秀雄という教授がいまして、彼なんかも積極的に参加した論争でですね、そのー、クラッシック、古典文学というのが成立するのはなぜか〔という論争です〕。
そうすると、マルクス主義の議論だと、古典というのが、なぜいまだなお存在しているのかという理由が説明ができない。つまり、もし経済的な下部構造が変化するにしたがって、これ〔上部構造〕も下部構造に乗っかっているものですから、これが変わっていけば、文化とか思想とか観念というものそのものも変わっていくのであればですね、たとえば源氏物語というのが、いまだなお読まれている。ところが源氏物語が生れた社会とですね、現在のまあ後期資本主義社会、あるいはまあ高度資本主義社会というものを想定した場合ですね、全く経済体制が違う。全く経済体制が違うのにですね、そういったものを、まあある意味で超越して、様々な古典が、なお人々に愛好され、読まれ、研究され続けている。たとえばその週刊誌なんかはたいへんな人に読まれますが、あのー、源氏物語に比べれば、おそらくそのー、たいへんな人に読まれている漫画にしても、何にしてもですね、やっぱり劣っちゃう面があると思うんですね。あるいは聖書にしたってそうですね。そういうふうに考えてくるとですね、下部構造というものの前提に、はじめて文化や観念や思想が生れるんだという考えかたは、古典がなぜ生き残っているのかという問いをたずねたときにですね、たいへん説明しにくい問題になってくるんです。たいへん説明しにくい問題になる。
それでもう、様々な論争があって、ここの大学の小田切さんは何といわれたかというと、ちょっといま、そのことを今日お話しするつもりはないんですが、たしか「人類学的等価」ということを言われたと思うんですね。小田切さんっていうのは、ある意味でいうと、左派の論客ですから、共産党の活動にも関わっていた人ですから、人類学的等価というのはですね、わけのわからない概念を出されてきたわけです。わけのわからないと言ってはまずいですが。えー、まずいですね、本当にまずいですが(笑)、ここだけの話にしてください。人類学的等価っていうんです。
つまり、そういう下部構造とか上部構造ということにかかわりなくね、あるいはそのー、労働者階級とかブルジョアジーとか、ブルジョア階級とかっていうことにかかわりなく、あるいは、ユダヤ人だとか、何ていうんです、えー、何ていいますかね、まあ様々な民族がいますね、そういった民族にかかわりなく、人間が人間であれば、必ず共有するものであるようなある種の感受性といますか、ある種の本質みたいなものがあるんだ、と。で、この人類学的等価としてのある人類学的な感受性みたいなものに触れたものが、古典として残るんだ。だからそれは、世界が変わろうと、国が変わろうと、民族が変わろうとどこまでも貫きとおすことができるような ― だからまさに「等価」ということですが ― 人類学的等価性みたいなものがあるんだ。だから古典はいまでも読まれている。これは解答にも何にもなってないわけですが、なってないという理由は後から分らせますが、そういう言い方で、古典が生き残こるみたいな話しをされたわけですね。
これは何も小田切さんだけの問題じゃなくて、当時ですね、文学は上部構造かっていうような論文もあったわけですが、そういった議論に参加した人みんながですね、何ひとつまともな解答を出せずにですね、今に繋がっているわけですね。で、こういった混乱は、いろんなところで起こってきてたわけです。それで今日、というか先週から取り上げている、この『唯物論と主体性』という問題も、その問題のひとつなわけです。
で、それはやはり、当時ですね、知識人というのは、日本では不思議なことに知識人というのはみんな左派を前提にしているわけですね。左派を前提にしている。で右翼って言っちゃうとすぐ何ていうんですか、暴力団だとかですね、スピーカーの音が大きいとかですね、そういうふうにわれわれは何か、変にイメージするところがありまして、知識人イコール左派知識人、つまり革新的、あるいは反体制的知識人というのが蔓延してて、いまでも基本的には変わらないと思うんですが、こういうマルクス主義というものの洗礼は、みんな、右翼のイデオローグであっても受けてきてたわけですね。で、この議論の枠組みのなかで話しし始めると、たいへん難しいことがいろいろ起こってくるわけです。
そのなかで、先週お話しした、えー、七人のですね、当時あるいは今でも活躍している人もいますが、代表的な人たちが、議論し始めている。
で、ここで、先週お話ししたように問題になっているのは何かというと、ひとつは、科学 ― 今日は科学と哲学の違いをお話ししたいと思うのですが ― 、ひとつは科学と世界観という対立系があったわけですね。これは科学ということを宮城音弥という心理学者がいいまして、つまり主体性を扱うのはあくまでも科学でなくてはいけない。それに対して真下信一という、共産党系の、まあ実存主義の影響を少しは受けた思想家が、いやそれは世界観というものなしに主体というのは扱うことはできない。世界観というのは別のいいかたで言うとイデオロギーでもあったわけです。イデオロギーと科学との対立ということですね。イデオロギーということはさらに拡大して別のの言い方をすれば思想と言ってもいいんですね。科学と思想は違う、ということです。
で、次の対立系は、科学と主体が対立する。つまりこれは宮城音弥が言ってたように、科学というのは道具だ。だからそれは、どう使うかという問題は主体の問題だ。だから、先週お話したように、原子爆弾の作り方を科学は教えるけども、それをどう使ったらいいかという問題は、ここからはいくらやってみたところで出てくる問題ではない。それは、科学はやはり道具であるからだ、という議論があったわけです。そうするとそれは、そうすると科学を何の目的のために、どんな意味で扱うかという、そこに科学を支配する主体としての人間がいるという対立系なわけですね。
でさらに、この座談会では、同じひとつの問題がいろんな言葉で対立してきます。科学と価値の問題です。あるいは意味の問題ですね。まあこの場合、これ〔価値・意味〕に対立するものとして科学って考えるときは事実ということですね。事実があるということと、その事実に価値があるかないかということは別の問題になってくる。それは事実というのはいくら積み重ねていったところで、価値とか意味の問題には転化しない、ということです。
これはもう少し考えるとここの問題とも絡んできますね。つまり、原子爆弾を作る作り方を科学が教える。しかしその原子爆弾が、人間にとってどんな価値があったり意味があったりするのかという問題は、いくら科学、あるいは科学的な事実を積み重ねていったところで別の問題だ、ということです。たとえばいま原子力発電の問題がありますが、原子力発電で、いろんな原子力発電には問題がある、ということを科学的に明らかにしていく。で、科学的に明らかにして、仮に欠陥があったとします。でも欠陥があるという事実自体はですね、それ自体を取り出してみても、だから原子力を止めようとか、だから原子力はやろうという話しには絶対になりません。たとえば、反対派の人にとっては、だから止めようという話しになり、推進派の人からいうと、いや、だからそれを直そう、何ていうんですか、きちんと処理していく技術こそがまた求めなきゃいけないから、それを科学的に解明していかなきゃいけないんだみたいな話しになっていきますから、その、欠陥があるということだけで、だめだとかいいという話しにはなかなかならない。
つまりそれは、科学的な事実を積み重ねていくということのなかにはですね、それをいくら重ねたところで、その集積の結果自体が、ふたたび、一つの事実でしかない、つまり、それは、意味でも価値でもないということが出てきて、なかなかここの部分の折り合いがうまくいきませんよ。あることを見てですね、その事実だけでもってだめだ、或いはよいことだというふうにはならないわけです。つまり、事実そのものが、価値とか意味を含むというふうにはなかなかならない問題がある、というふうなことがひとつあるわけです。
さらに、出ていた問題は、理論と実践の問題があります。これは先週煙草を吸うという話しでお話ししたんですが、理論と実践の問題。つまり理論というものをいくら積み重ねていって、その理論が真理性を持っている、つまり正しいというふうになったからといって、じゃその理論に基づいて人が行動し始めるかという話しになると、それは全く別の問題だ、という問題がでてくる。
さらに、最後は、存在と当為の問題がある。ドイツ語でいうと Sein と Sollen ですね。当為という言葉にあまりなじみのないかたは、これは「べき」ということです。「~すべし」ということで、これは「在る」、つまり、ある科学的な事実が「在る」、まあ、全部これは同じ、ずーっとこの全部、この対立というのは、全部同じなんですが、上と下、全部同じ問題としてこの『唯物論と主体性』のなかで扱われているわけですが、そのー、「在る」、「在る」もの、「在る」っていうことと、「あるべき」だという問題とは全然別の問題だという問題です。
それは、この座談会のなかでは、経済的、資本主義っていうのがどんどんどんどん進展していくと、労働者階級とブルジョア階級の乖離っていうのがもっとどんどんどんどん広がっていって、金持ちはどんどん金持ちになっていくし、貧乏な人はどんどん貧乏になっていく、それを窮乏化というんですが、どんどんどんどん労働者階級は窮乏化していく。そうすると、その止むに止まれぬ窮乏感から、労働者階級は立ち上がるんだ、という話が、ひとつの話としてあるわけですね。でその場合、資本主義がどんどんどんどん成熟していくと、労働者階級とブルジョア階級がどんどんどんどん乖離していくという問題はですね、それは Sein の問題 ― それが正しいとしてですね。正しいとして。それ・・にけちつけるけちつけかたは幾らでもあるんですが、それはいいんです。別に正しかったっていいわけです、それは話としてね。で、正しいとします。
(…)ている人が、これぐらいの数字、出てくるわけですね。出てくる。そうすると、もし民主主義という問題を考えた場合に、たとえば小選挙区制に反対しているスタンスで、民主主義ということを考えた場合、民意っていうのができるだけ直接に反映する仕方で選挙が行われるべきだというふうに言っているわけですから、そうしたら、この数字の前で倒れざるをえないですね。安保条約破棄っていう理念は。倒れざるをえない。で、それを丸山さんはですね、「経験的な人民の意思というものを問題にするかぎり、今日マルクス主義は形式的民主主義の前に頭が上がらないわけです。かりに何らかのテクニックによって現在の人民の意思をそのまま模範的に反映するような機構を作っても、そこに反映したものはあるべき人民の意思とはやはりくい違ったもので、マルクス主義の人々はそれをそのまま人民の意思とはしないと思う」というふうに、丸山さんはすでに言っているわけです。
つまり、私が言った、何らかの仕方で二十歳以上の人が、イエスかノーを言う、たとえば安保条約に対してあなたはイエスかノーかという装置をですね、全部集計するところに持っていってやった場合、これを丸山さんは形式的民主主義という言い方をしたわけですが ― 、この形式的民主主義の前に、おそらく崩れていく ― もちろん自民党にもそういうとこありますよ。もちろん社共がどうだという話ではなくて ― 、形式的民主主義というものを持っていったときにですね、いま、たとえばわれわれは民主主義政党だとか、民主主義を守ろうと言っている連中はですね、じゃあ自分達の要求がことごとく民主主義的ものかというと、そうではないという問題にぶち当たらざるをえないわけです。
そうすると、この場合、民意って何なのかという問題になってきます。そうすると、この社会党や共産党が言う安保条約廃棄っていう問題は、「在る」 ― 先週も書きましたが ― 、「在る」民意、つまり丸山真男の言葉でいうと、経験的な人民の意思、現に、経験的っていうのはこの場合は、現にある ― まあ人民っていう言葉を使っているのは 1948 年らしいことですが ― 、経験的な人民の意思っていうことです。これは、要するに、「ある」 ― 「在る」ってこっちですよ ― 、「在る」民意ですね。
ところが、安保条約廃棄という要求に関しては、そうではなくて、きちんと事情を話せば、国民は分かってくれるはずだという、そういう民意なんですね。つまり、いわば自民党が支配している政権のなかで、アメリカ的なイデオロギーが輸入されて、あるいはテレビとか大量のマスメディアによって、様々な仕方で、民衆はブルジョア・イデオロギーに染まっている。だから、それをわれわれは取り除いて、きちんとした事実を、まさにきちんとした事実を露呈させて、きちんとやっていけば、絶対に民意は、安保条約廃棄という方向に向かうはずだ。「はず」というのもドイツ語では sollen というのですが、これは英語で言うと should ですね。「あるべき」ということは「はず」だということですから、そうするとこれは、「あるべき」民意に寄りかかった要求だということになってきます。つまり、たとえば安保条約という問題について言うと、それは、「在る」民意としては、つまり形式的民主主義の前では挫折するかも分からないけれども、形式的ということに対していえば、内容的な、あるいは実質的な民主主義の前では、かならず勝利するはずだというふうに思っているわけです。
そうするとここでですね、たいへん問題があるのは、この野党にしても与党にしてもですね、彼らが民主主義ということを口にするときには、都合のいいときは、国民というのは頭がいい人達で、都合の悪いときは、国民というのは教育されるべき対象だというふうになってきます。つまり、民意っていうのは、一方ではそれ自体尊敬されるべきもので、一方ではそれ自体教育されるべきものだという両方の意義を持ってきます。そうすると、あるときは教育されるべきであって、あるときは先導的な役割をはたすべきだというときの、その判断の基準はどこにあるのかということが最大の問題になります。
つまり、別にいいんですよ、安保条約反対というのは「あるべき」民意の姿なんだといったっていいけれども、問題なのは、ここに区別が生じているわけですが、そうすると区別の基準は一体何に置かれるのかというと、これは絶対、これ自体客観性はないんですよ。これは論理的に明らかだ。どういうときに「在る」民意はそれ自体、直接的に従うべきであって、どういうときに「在る」民意が教育されるべきかという問題はですね、そのどういう場合っていう区別の基準というのは、論理的な整合性を絶対に持たないということははっきりしているんじゃないか、ということです。というより、そういった区別の基準こそ、「在る」民意におくというのが民主主義なのであって、その意味では民主主義とは「形式的」にしかありえないわけです。
だから、たとえばいまみたいな政治情況の実際は、要するにもっとひどい言葉でいうとそれは、御都合主義ですよね。御都合主義でしか絶対に動かないわけです。それはなぜかというと、結局民主主義という問題も、ここの問題になってくるわけですね。結局ここは、僕は存在と当為の問題だというふうに思うわけですが、当為と存在との関係がぜんぜんはっきりしないわけです。
たとえば、『朝まで生テレビ』の話ばっかりして悪いですが、アメリカのテレビディレクターで、訳の分らない駄洒落を言い続ける男がいますが、誰だっけ、デイブ・スペクターとかってやつがですね、西部さん、西部さんもこういうことを考えているわけですが、西部さんが言ったことに対して、いやまだ日本国民は、まだ民主主義というのが何かっていうことを分っていない。リクルートの問題にしても何にしても全然いい加減なまま済ましている。アメリカではこんなことがあったらすぐ大統領だって首になる。だから、アメリカの民主主義というのは成熟しているけれども、日本の民主主義というのは一人一人がまだ自立していなくて、村の寄合いみたいな仕方でしか、つまり個人が埋没している仕方でしか民主主義というのは成熟していない。だからまだまだ日本は駄目なんだみたいな言い方をするわけです。
そうすると、それは割とアメリカかぶれしたですね、連中はみんなそういうことを言うわけです。でもそれは全くおかしい。たとえばですね、そういった議論をした場合、すぐはっきりしていることは、仮りに従属的な日本の国民っていうことを、つまり何かに従属して、けっして自分自体は人格を自立的な人格として見做さないというをですね、仮に従属するということ自体をそれとして意思しているとしたらどうなるという問題があるわけです。
つまり私がたとえば、あるものに従属して生きるといことが私にとってはひとつの選択なんだ。意思っていうことは選択ということです。選択ということです。そうすると、これ民主主義の立場に立てばこれを認めなきゃいけないわけですね。認めなくてはいけない。つまり民主主義というのは、単に自立するっていうことがどうだという話ではなくて、自立するにしても従属するにしても、そのことを自分で選択したということが、もしそれとしてあるならば、それを文句言ってはいけない問題になってきます。だから、たとえば、日本人的な村社会の寄り合い的な相互依存的社会というのを、たとえば日本の国民の国民性として日本人がもし選択しているというところで起こっている事態であるとすればですね、それは、それ自体民主主義的なことだという問題になってきます。
そうすると、民主主義の問題というのは民主主義の内部で処理できないという問題になってきますね。つまり、民主主義というのは、非常にいいかげんな原理だ。つまり、さっきも言ったように、非常に都合がいいようにしか動いていかない。つまり、自分達がやろうと思っていることで世論調査で、たいへん高い数字が出たら、われわれは国民を代表してやっているんだみたいな話しになる。で、都合が悪い数字が出る、あるいはたとえば選挙で負ける。そうすると、われわれの言っていることが御理解いただけなかったみたいな話になってしまう。御理解いただけなかったというのは、早く言えば、国民は馬鹿だったから俺等が正しいことを分かってくれなかったんだという話しですよね。分かってくれなかったんだという・・・。
たとえば共産党なんかは、今回は自民党の非常に強烈な包囲網に包囲されて、駄目だったとか、あるいは、社公民が共産党攻撃をし始めて駄目だったとか、まあそれは社公民も同じことを言ったりしますが、それでわれわれは勝てなかったみたいな言い方をします。それは、たいへん訳の分らない言い方ですよね。つまり、負けたっていう場合に、負けたことをそれ自体で答えたっていうふうに受けとめないで、その場面では、国民に対しての働きかけなり、働きかけた結果、国民の反応が鈍かったという話をしていくわけですから、それは、民主主義ということで言うと、ここの使い分けが、そのつど勝手になされていくという・・・勝ったときは、「在る」民意に対してわれわれは勝利したという話になります。
(…)この区別の基準ということが、それ自体としては絶対に客観性を持たないからであって、これは Sein と Sollen の問題がその根底にあるということですね。解決できていない。だから、いま、民主主義というのを哲学的に考える話をしているわけでも何でもないんであって、民主主義というのは、そこまで考えないと、何も哲学的に考えるとこうなりますよという話をしているのではなくて、まさにそれは、民主主義の問題なんです。われわれは、特に私以降の世代は、というかもっと前からですが、民主主義という教育を受けてきて、大変すばらしい制度だという話で、ずっとそういう教育を受けてきたわけですが、しかし民主主義の問題はですね、大変いいかげんなところがある。まあ、いいかげんなところがあるのがいいんだというふうに言われては、元も子もないんですが、そう手放しで任すことができるシステムでは決してないわけで、問題は、こことここに分れること自体は別にいいんですが、ここの区別の基準というところで、非常に曖昧なところがあるということです。
それで何が問題なのかというと、結局のところ、こういった問題は、 Sein と Sollen の問題になります。つまり、「在る」ということが、そのままなかなか「あるべきだ」というところへ繋がらないという問題ですね。「あるべきだ」というところへ繋がらない。たとえば、一人の人間が、先週も話しましたが、たいへん困窮している。困窮しているというところから、その困窮を打ち返して、革命運動に立ち上がるか立ち上がらないかという問題をいくら Sein のレベルで議論していって、だからお前は立ち上がるんだとか、だからお前は立ち上がらないんだという話しをしてもですね、その立ち上がらないという話をしたからといって、その人が立ち上がらないとは限らないし、立ちあがるんだだからお前はという話をしたって、その人が立ち上がるとは限らないわけです。そうするとやはりここには、さっきから話しているように、断絶があるわけですね。断絶がある、という問題があります。
それじゃあ、「あるべき」だという問題は、何なのかということです。哲学というのは、科学 ― いちばん最初のときに哲学とは何かというのを書いてもらったときに、いろいろ書かれている方があったのですが、科学、サイエンスですね、科学と哲学との違いについて書かれている方もあったし、ただ単にものを深く考えるという点であれば、科学と哲学とは別に変わらないだろうしなんていうふうにして自問されている方もおりましたし、そのとおりなんで、ただ単にものを根源的に深く考えるという意味であれば、科学者も深く根源的に考えているわけですから、哲学者とその点でそんなに変わらないわけですね。
そのことに今日は、少しは役立つ答えをしたいと思うのですが、科学というのは Sein にだけ関わるわけです。それは科学がどんなに発展しようとそうだと思います。おそらく解答としては決定版だろう・・・つまり、「在る」もの、「在る」ものに対して関わるわけです。したがって科学はいつでも過去にしか関わらない。つまり、「在る」ものというのはいつでも「在った」ものでしかないわけですね。で、在ったものだとしてもそれは反復可能なものとして現にあるものでもあるわけですが。で、ここの話しからするとお分りいただけると思うのですが、事実、存在しているもの、たとえばこのチョークの成分がどんな成分なのかみたいなものが、科学が明らかにすることができるわけです。で、それは、この存在というのがすでにあって、この存在の組成が問題になるわけです。あるいは社会学でも、社会学が科学だという場合も、社会という存在がすでにあって、その社会の組成がどうなっているのかみたいなことを問題にしていけばいいわけです。それは、広い意味で、Sein を対象にするということです。Sein 、つまり存在ですね。存在しているものを対象にする学問というか、思考が科学だというふうに考えてもらえばいい。
それじゃあ哲学はどこで区別されるのかというと、哲学は Sein と Sollen の問題を問題にするわけです。これ自体を問題にする。Sein と Sollen の問題が、それじゃあ関係する場所って何かというと、それはアルケーなんです。そういうふうに話は繋がっているわけですが、つまり、ここで私が Sein と Sollen との間に境界線を引いた場面というのは、始まるということです。まあ、名詞で言うと始まりですね。始まりが問題になるわけです。なぜかというと、始まりというのは、無から始まらなきゃおかしいんですね。というのは、あることが始まるというときに、その始まるということが、もう少し前からあったのであれば、その始まりと言ったときの始まりは始まりじゃなくて、もうちょっと前の始まりなわけですね。つまり、たとえばゼロから何かが始まるというときに、じゃあこのゼロの手前は何かといえば、これは無じゃないとおかしいですね。まあ、ゼロの問題というのもまたあるのですが。
仮に、ここよりももう少し手前に、何かここから始まるものの徴候があったとしたら、それは、その徴候自身が始まりなのであって、始まるっていう概念はですね、存在、つまり「在る」ものであってはいけないわけです。「在る」ものであってはいけない。そうすると何かというと、それは「あるべき」ものなわけですね。あるいは、「あるはずの」ものなのです。もうずっとドイツ語で書いていきますが。単にずっとあるものであれば、「在る」ものっていうのは無いものなわけではないのですから ― というふうに言ったのがパルメニデスというギリシアの哲学者ですが、あるものはあるし、あらぬものはあらぬ、と ― そうすると、あるものはあって、あらぬものはあらぬものであるならば、パルメニデスにとっては、始まりという概念は不可思議なものだったわけですね。
始まりということは、全く始まって在るものが無いときというのを前提にしない限りは、始まるということは言えないわけですから、そうすると、始まるというのはどういう存在かというと、無からの存在なのですね。無からの存在なのです。これはキリスト教の神学につながっていくわけですね。つまり、神が無から世界を創造したという議論があります。で、キリスト教の議論とギリシアの議論がつながっていくのは、まさにこのアルケーという概念、始まりという概念に関わってですね、特に中世の哲学で問題になっていくわけですが、無から神が世界を創造したってどういうことかという問題になっていきます。
それは、純粋に哲学、つまりキリスト教の教義学の問題ではなくて、純粋に哲学的な議論として考えた場合は、無と存在との関係です。無と存在との関係というのは、さっきも言いましたように、「あるべき」存在の問題になってきます。つまり、さらにまた『唯物論と主体性』の話になると、貧乏であるということから、階級闘争に立ち上がるという関係は、どう考えてもここをいくらいじくりまわしたって、階級闘争 (...) 自然法則のようにして人々が立ち上がるという契機はないわけですから、この貧乏な人はですね、あるところで自分を無にしなきゃいけない。つまり、人が変わるというときにはですね、自分のなかに自分でないものを持ってこなくてはいけないですね。
それを哲学者は「超越」というのですが、越えるということですね、超越ということをいいます。で、あるものが別なものになるというときにはですね、自分自身を、もう少し近代的な言葉でいうと自己否定ということですね。それで『唯物論と主体性』という座談会のなかでは、この自己否定ということが一体どこで生じるのかということが問題になっていたわけです。それは一体、Sein として、もともと自己否定というものそのものが、経済構造の、労働者階級の存在構造のなかに含まれているのか、含まれてないのかという議論をしていたわけです。それは、もし自己否定を超越という話しでいうとですね、含まれていたらおかしいのですね。含まれていたらおかしい。
たとえばマルクスという一人の神でも何でもない人間が、19世紀に生れて、資本主義の解明の書である『資本論』を書いた。そうすると、このマルクス自身は資本主義の社会を解明する『資本論』という書物を書いた場合、マルクス自身は一体資本主義的だったのか、それとも非資本主義的だったのかという問題があります。もし資本主義的にマルクスが、資本主義社会の書物を書いたのであればですね、彼は、資本主義の落とし子として存在しているわけですから、資本主義を全体として問題にできるわけないわけです。資本主義をそれ自体として問題にするには、この外に出なければいけません。外部を見なければいけないわけです。
資本主義の外部というのは共産主義であるわけですが、この外部というものを、資本主義の外部 ― この外部、矢印(黒板を指示しつつ)はまさに超越ということなのですが ― 、超越する契機を持ってないといけない。そうするとですね、その超越するバネ、つまり資本主義のなかにいながら、資本主義社会を超越して、資本主義社会を全体として問題にすることのできる能力というのは、その能力自身はどこから出てきたかという問いが、丸山の問いなのです。丸山真男が必死になって話していくなかで、丸山真男はそのとき私と同い歳ですから、松村とか古在とかという頑固者のマルクス主義者を相手にですね、どうも僕の意図がはっきり伝わっていないとか言いながら議論しているわけですが、そのある社会が変わる、それはある社会が超越しなければいけないということですね。あるいはある人間が変わる、それは、自分自身が、自分自身でないものを、少なくとも一度は、あるいは一瞬は見なければいけないわけです。俺は変わったということを言うときには、少なくとも、自分自身が自分自身を変えていく能力を問題にしなきゃいけないわけで、そのときは、自分が自分の外部に一度出なきゃいけませんね。一度出なきゃいけない。そうすると問題は次の時点で問題になるわけで、その出るという力は、一体自分の外にあるのか内にあるのかという問題になってきます、論理的にはそうなる。
それは超越の根拠ということですね。根拠ということです。で、これを完全に自分の外にあるものだというふうにやってしまった場合は、それは神秘主義とかロマン主義になってきますね。つまりそんなものは、あるとき偶然に訪れて、まあたとえば、何ていうんですかね、悟りのように、あるとき偶然、私は啓示を受けたとかって独言のようにしゃべる人がいますが、そういう人はですね、この超越の根拠というのを外に置くわけですね。つまり外へ出ることの根拠を、それ自体外に置くわけです。
で、(...) 逆に、こういうふうにすれば人間というのは変われるんだよといって、ハウトゥもののように自己変革を説く人がいます。それは超越の根拠を内に置いているわけですね。つまり、いま私の言っている議論はたいへん、まあある意味で複雑なんですが、外へ、外へ出る根拠ということですね。この、つまり一回目の外が問題じゃないんです。二回目の外が問題なんだ。つまり外部に出るということが、Sein と Sollen の関わりの問題なわけですが、この外へ出る根拠自体が、一体外にあるのか、それとも内にあるのかという問題をめぐってキリスト教の教義学の無からの創造という問題もそうだし、ギリシアの万物のアルケー、万物の始まりという議論もですね、そこに端を発しているわけです。
さっきもいいましたように、もし外に出る根拠それ自体を外に持ってくるのなら、これは座談会でも言われていますが、神秘主義とかロマン主義がここで出てくるわけです。つまり、もう外に出る根拠は外にあるものだから、そんなこと理論的に説く必要はないわけですね。話として美しければいいという話になったり、自分がそれで満足してればいいという話になります。
だから、仏教で言うと禅宗がそうですね。こんなこと言ったらまた大変怒られるかもわかりませんが、禅宗と、浄土系の宗教 ― 浄土宗と浄土真宗とか ― っていうのの違いはですね、禅宗というのはもしこういう整理の仕方をしたらこっちに傾いていく。なぜかっていうと、彼らは修行っていうことを言うわけですね。座禅なんかする場合ですね、自己鍛練が問題になる。あれは生きながらにして死ぬということが問題なわけですね。だから、自分の身体性というのをある意味で無の状態に ― 箸の上げ下ろしといったことまで含めて ― まで持ち込んでいくわけです。この持ち込んでいくという場面は、個人的な鍛練の問題にないきます。だから滝に打たれたり、よくある話として言えばですよ、滝に打たれたり、山へ登って修行したりして、座禅しているときに蚊が刺そうが、蛇が首締めて殺しに来ようがですね、動いちやいけない...そんなことで痛いとか痛くないなんてことが問題でないようなところまで自分を持っていきます。まさに無の問題に関わってきている。
つまり彼らは Sollen という問題を、自己鍛練の問題として考えるわけです、「あるべき」自分の状態というのを。で、これは極端に言うと、朝早く起きてジョギングしているおじさんとかおばさんがいますが、あるいはエアロビクスとかやって体を良くしようとか、野菜を食べて健康になろうとかですね、ああいう系統の動きはみんな禅宗なんですね。そんなこと言ったら怒られますが(笑)。ああいう人を見ると私もう、非常に腹が立つんですが(笑)、長く生きて何が言いたいんだと思うんですが、それはなんでそんなことに、あれはですね、禅仏教です。そんなこと言ったら禅のあれやられている方はかんかんに怒ると思いますが、エアロビクスとか、ジョギングやっている「連中」と思わず言ってしまいそうになりますが、「方々」はですね、この Sollen の問題ですね、「あるべき」状態というのを、自分の努力というところで持ってくるんです。
そうするとこれ、思想としてどうなるかといいますとですね、いい気なもんだということになります(笑)。ジョギングしてして気持ち良かった、それはいい話ですねって話になるし、禅で...私は非常に心がいま、ゆったりして、非常に、ギリシア語でアトラクシアといいますが、平穏な状態です。もう、何ていうんですかね、無の境地なんですね。それは、それは良かったですねという話で(笑)終わっちゃいます。絶対に終わります。もちろんそのことについて絶対終わってどこが悪いんだという話になれば、それはそこで議論になりますが、絶対終わっちゃうんです。
...なぜ終わっちゃうか...。それは、非常に下世話な言い方でいうと、禅仏教というのは結局のところ個人主義だからです。それはさらに哲学的にどうなるかというと、それは超越する根拠という問題を、自分はもちろん禅...とか Sollen の問題にぶちあたっているわけですが、外へ出る根拠というのを、それ自体外に置くからです。だから、それはまあもう少しヨーロッパの言葉でいうとロマン主義ですね。ロマン主義なんです。ある人間が、どれだけ自分を、まあ極端にいうと、気持ち良くするかといいますか、自分自身の掲げている課題に対して満足を得るかという問題に必ずなってきます。必ずなっていく。そうすると、ジョギングして気持ち良くなるやつもいるだろうし、エアロビクスして気持ちよくなるやつもいるだろうし、あるいは、座禅をして気持ち良くなるやつもいるだろうという程度の話にしか絶対にならないわけですね。ならない。それはそれじゃあどうなるかというと、それは人それぞれだなという話になって終わってしまうわけです。終わってしまう。
で、その問題またやっていきますが、今度、じゃあ外へ出る根拠を内側にしたらどうなるかというと、これはハウトゥものの世界になります。あなたもこうすれば美しくなるるとかっていうやつは、それはお前勝手にしろよなんて話じゃなくて、こうやってこうやってこうなっていけばこうなるよという話を、どんどんどんどん内部的に、まあ言ってみれば科学的にといいますか、...かなんか知りませんが、科学的にもっていくわけですから、これは実用主義、実用のレベルの話しになっていきますね。プラグマティックな話しになります。それは、こうすればあなたは変われますよということを誰の目にも明らかなように呈示していくわけですから、外へ出る根拠を、絶えず内へ内へと持ち込んでいくわけですね。だからそれは、技術主義といってもいいし、プラグマティックな思想なんです。技術主義になります。
『唯物論と主体性』という座談会はですね、世の中で優秀と思われている ― 賢いといいますか ― 思想家が集まって、何を問題に、何が露呈されているかといいますと、実はこういった問題が、何ひとつ解決されていない。それは何も、当時 1948 年のレベルで非常に程度が低かったという問題ではなくて、基本的に...なところで問題が考えられてないからですね。たとえば、丸山が民主主義の問題を呈示した場合でもですね、彼自身は、何とかそれを Sein と Sollen の問題なんだというふうに考えようとしているわけですが、たとえばわれわれが民主主義を問題にするときでも、比例代表性は民意が全体的にかなえられるから比例代表性のほうがいいんじゃないかとか、小選挙区制は死票が多いからよくないとか、そういう話しをしるわけですが、そうしたら、民意がちゃんと反映されたらどうするんだみたいな問題が一方でまたあって、さっきも言いましたように、民意っていうのは何かということが、ぜんぜん何も考えられていない。
これは、哲学的に考えられていないという話しじゃなくて、やっぱり民主主義という言葉そのものが、ぜんぜん検討されていないということですね。それは別に哲学だから検討しなきゃいけないんじゃなくて、政治学者、また「生テレビ」の話をしますが、あの「朝まで生テレビ」の升添要一という東大の政治学をやっている教授が出ているんですが、何の役にも立ちませんね(笑)。それは、...(笑)民主主義のみの字も真剣に考えたことが一度もないということですね。一度もない。
それは、しかし、ちゃんとした根拠はある。つまり、なぜ考えられなかったのかという根拠はあるんであって、この問題をですね、全体として視野に収める方法というのを、まだ近代といいますか、ヨーロッパ...ちゃんと考えれてきてないわけですね。考えてきてない。で、考えたと思った人も、やっぱりどっちかに寄っちゃうんですね。どっちかに寄っちゃう。つまり、済し崩し的に、内部へ内部へ入っていくか、それとも、済し崩し的にひたすら外部へ外部へと逃げていくか、どっちかなんですね。どっちかです。で、これはたとえば、山国に入って仙人か何かになるしかないし、こちらは、テレビか何かに出て、カッパブックスか何か書いて、大金持ちになって、人生けっこういけるな(笑)みたいに思って死んでいくしかないわけで、その人自体の生き方の問題にもなっていきますが、ここの関係がですね、一体どうなっているのかという問題を考えなきゃいけない。で、哲学というのは、そういった意味では、まさに...である。
(...) 科学にはですね、こういった問題は絶対に出てこない。つまり物理学やろうと、経済学やろうと、社会学やろうとですね、それらの学問の当事者たちが、俺達のやっているのは科学だといっている限りはですね、こういった問題は絶対出てこない。それは、まあ、彼等が Sein だけを問題にしているからです。
「あり」と「あった」の問題は、これは後期に触れようと思っているのですが、それは時間の問題になりますね。それは置いておくにしても、Sein だけを問題にしている限りは、こういった深刻な問題は出てこない。しかし、私達にとってというか少なくとも哲学の講義を取ってもらっているみなさんも含めて、私も含めてもちろん、私達にとって重要なのは、まさに外へ出る根拠というのが問題なわけです。これは、『唯物論と主体性』では変革の根拠になりますが、これは自己変革であっても、ある社会が変わっていくことであってもいいわけですね。そのことの問題を、外の問題として考えるか、あるいは内の問題として考えるか、あるいはそういった選択そのものがすでに問題であって、実はもっと別の問題を考えなきゃいけないのかというふうになっていくか、ということになる。で、この問題をですね、さらに来週以降やっていきたいと思います。
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